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『学問?それなら油そそぎをうけよう!』

2016年1月31日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ヨハネの福音書7章14~16節

『しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。』

 ハレルヤ!感謝します。みなさんにいつも覚えて祈っていただき、支えられて今日もこうして立つことができて感謝いたします。

 二〇一六年が始まって、本当に恵みの中で、毎週み言葉を通して励まされています。もう一月が終わり、明日から二月ですが、二月は、聖霊様が訪れられた月であるので、今まで以上に期待して出て行こうということで、いろいろなプログラムも計画されています。
 来週日曜日は朝の九時から、連鎖賛美集会があります。礼拝前から賛美をささげ、礼拝を挟んで昼食の時間も、ある人は昼食を食べながら、同じ会場の中で賛美を捧げます。そして六時頃まで、賛美集会があります。三十分ずつ区切ると、ザワメキを一から十二まで全曲歌えるということで、全曲歌おう、そんな試みもなされます。

 それから、二月十三日、この日は新東名の開通日ですが、この教会では聖霊様が来てくださった日でもありますので、一緒にして、この地のリバイバルのために、神様の新しい祝福の扉が開かれるように、新城インターチェンジから、豊田東インター、そしていなさインターまで行って、そしてまた新城インターまで戻る、開通区間上下道を、バスで走覇しながら、賛美を捧げていく企画もされています。
 ですから、みなさんもぜひ、その集会を予定に入れていただき、リバイバルのために、この地の祝福のためにお集まりいただければと思います。

 僕もこの場所にしょっちゅう立つわけではないので、いつも緊張しますし、また祈って備えていくわけですけれども、今日もうちの一番下の息子に、「今日はお父さんがメッセージだから、祈ってくれよ。」と頼みましたら、「それじゃぁ、祈ってあげるかな。」なんて言っていました。本当に祈ってくれたかどうか知りませんが。「今、祈ってくれ!」と言ったのに、その時は、祈ってくれませんでした。
 今、講壇に上って来ようと思ったら、その息子が「お父さん、五十。五十。」と言われて、メッセージ時間の釘を刺されました。いつもは一時間くらい順先生がしゃべっておられますので、「十分間短く」という控えめなリクエストに、かわいいなぁと思って聞いていたのですが、がんばってなるべく早く終わるようにしたいと思っています。

 さて、今、巷は受験シーズンまっただ中ですね。我が家も一人、受験生を抱えておりまして、受験モード全開という感じです。
 今日のメッセージに「学問?それなら油そそぎをうけよう!」というタイトルをつけさせていただきましたが、「あぁ!そういう個人的事情があって、そんなタイトルをつけたのか!」なんてツッコミが入りそうです。実は本当にその通りなのですが、僕も家族の中にそういうのを経験しておりますし、僕は大学受験を経験しなかったものですから、本当に大変なものなんだなぁと、今つくづく思わされております。問題集がリビングにも進出してきて、うず高く積まれております。この後、受験する方たちは、ある人は三月末くらいまで重苦しい思いの中でがんばらなくてはいけないのです。なので、私も影響されて、メッセージもそんなテーマになってしまったわけです。これも、今日メッセージを任されたものの特権と思い、みなさんにもご容赦いただきまして、お話しさせていただきたいと思います。
 もちろん、受験生でない方にも、恵みのあるお話をしたいと思っておりますが。

 先日、センター試験が終わりました。

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 二日間に渡り、うちの息子も朝出かけて、夕方遅くまで試験をして、夜になって帰ってくるということを二日間続けました。大変だなぁ思いました。そして、すぐに結果が出て来ます。

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こういうシートが送られてきます。数字と、これには載っていないですが、ABCDEと出ます。これは息子の結果ではありませんが。

 これで結果が数値化されて、自分が全国の学生たちの中でどの辺りにいるのか、希望する大学で何割ぐらいの合格率にあるのかということが、一目瞭然で分かってしまうわけです。希望があるのか、ないのか。ある意味冷酷な数値が載せられているシートであります。
 それから、二次試験まで二週間くらいあるのですが、ある人にとっては、その期間で、それまでの何年間か、その人のやる気を起こさせていた、「志望校への夢」というのを諦めて、軌道修正を迫られる、そんなことがしばしばあるわけですよね。そして、次の目標に切り替える。資料を取ってみたり、インターネットを使って、いろいろと調査をしてみて、私立、公立、滑り止めだの本命だの、いくつもの試験の願書を出して、そして、受験票が来るのを待って、会場までの交通を調べ、宿の予約をし、というような作業をしながら、勉強の追い込みも同時にやっていきます。二次試験までの二週間とは、それまでの人生で最も辛い時期ではないかと思わされました。
 さらに、大学によっても受験科目が違うとか、場合によっては実技が入るとか、やらなければいけないことがたくさんあるわけです。そして、間近に迫る大舞台で、泣きを見ることがないように、と必死にがんばるわけです。
 受験をする彼らにとっては、その後の人生をある意味で決定づける、大きな曲がり角なのですが、それがこの数ヶ月の間に決着する。それを何があっても受け入れなければいけないという、大きなプレッシャーがかかる時であります。
 そもそも、センター試験の試験方法がやっかいでして、マークシートというやつです。

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 これが、解答を何択かで選んで鉛筆でマークしていくのですが、やはり引っかけ問題みたいのがたくさんあるというのです。問題の答えが、これかな?これかな?なんか紛らわしいぞ。というのが、必ずあるわけです。そこで間違えると、その問題は駄目といった感じですよね。もっと悲惨なのは、マークする場所を間違えることもある。
 僕は昔取った運転免許証の試験を思い出しますが、いやらしい言い回しが書いてあって、正しい答えを選択しなければいけない。
それまで何年間かに渡って、ずっと継続してきた学校生活です。そこで蓄積された実力を、そのまま出して試験する、というよりは、それをマークシートに変換して解答する。その変換作業の中で、ミスを誘うような問題設定がされており、学校の勉強をまじめにやって学力を養っていても、それが必ずしもセンターの得点に結びつくわけではない、ということなんです。
 このセンター試験のための対策をして、そのひっかけにかからないような思考を身につけた者だけが、高得点をたたき出していく、というようなところがあるわけです。なんだか変だなぁと思います。
 昨日もテレビを見ていましたら、昨年、ノーベル賞を取った大村智という先生が、「こんな入試の方法をとっていたら、良い学生は育って来ない。改革したほうがいい。」と、声高に言っておられました。そんな中で受験生たちはがんばっているということであります。
是非、受験生のために祈っていただければと思います。今週から、私立の試験は始まっていくと思います。

 今年のみ言葉として、僕がお話ししたみ言葉は、ヨエル書三章九~十節です。

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

 小さな子どもからお年寄りまで、この教会に集っておられますけれども、この箇所から、皆が等しく、神様の前に勇士とされて、そしてこの年、今まで以上に主の戦いに進んで参りましょう!というお話をさせていただきました。
 十節の所に、『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。』という言葉がありますが、鋤を剣に、かまを槍に、ということは、私たちが日常的に、生活のために行っていること、持っている仕事だったり、責任であったり、また自分の得意分野であったり、そういった自分たちの生活の中にある柱のような部分ですね。自分が今、中心に担っているもの、生活のために行っているそれらのものを、主の前に剣に、また槍にということは、戦いの武器にして、そして主の戦いに励んで参りましょう、というようなお話をさせていただきました。
 考えてみると、社会人なら社会人に、実業家なら実業家、商売人なら商売人、また主婦なら主婦、学生なら学生と、その場に戦いの場所があるわけです。ですから、今、お話に出ました、受験を控えている学生さん、また学校に通っている学生さんだったら、今学んでいる、その事柄の中にも、また剣として戦っていく、闇を見抜いて、神様の前に勝ち取っていく、そういった領域があるということなのです。そのことを今日は少しお話しし、覚えていただいて、皆で祈っていく、また神の国がそこに現されるということを願っていく、そのような時になったらと思います。

 現代の学問は、基に合理主義、平たくいうと、目に見えなかったり、学問で証明できないようなもの、「神様」は認めない、そういう土台が据えられています。実証できないものは考えない、無視し、あるいは否定する、というような精神があります。神様を否定するというような土台が、学問の中には据えられているわけです。近代から現代まで、学問は大きく発展してきているわけですが、その期間ずっと変わることなく置かれ続けている概念であります。
 その中で、中心となっている概念としてよく言われているのが、「デカルト・ニュートン主義」というものです。デカルトもニュートンも、有名な科学者で、そこから名前がとられています。これは十七世紀にヨーロッパで生まれた学問の手法で、僕もこの礼拝の中で何回かお話しさせていただいている、「啓蒙主義」と呼ばれる考え方の、一つの象徴的な概念でもあるわけです。
 その特徴は、ある物事を見ていく時に、細かく細かくかち割って分析していっていく、そういう手法です。自然を探求していくための科学的な手法を、デカルトとか、ニュートンとか、またガリレオとか、他にもたくさんいますが、そういう人たちが、一つの機械のような感じで見て、それを細かく分析して、全体を構成している機能(自然の法則)を発見していったということです。

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 これは太陽の光が、プリズムというガラスに入った時に、七つの光に、ちょうど虹のように、分解されて見える、という現象です。みなさんも、虹を見れば、七色に光っているのを見るわけですが、光をそうやって細かくかち割っていくと、七つの特徴ある光が存在する、これを発見したのが、ニュートンです。
 その後にも、紫外線とか、赤外線とか、X線とか、そういった光の特性が、どんどん細かく細分化されていったわけです。
 科学というのは、今まで何百年か、そういう形で発展してきた、ということなのです。自然を細かく細かく分析するかたちで。
 例えば物理学でも、一つの物質をどんどんどんどん細かくしていって、先週も順先生が語っておられた「素粒子」というものが発見されたわけです。

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 ピーマンのような「野菜」を構成しているのは、小さな分子。その中心にあるのが原子、そして原子が、陽子と中性子というモノからできていて、その中にまた「クオーク」というモノがある、このクォークが「素粒子」であります。そうやってどんどん細かく、小さいものに分類されていくわけです。
 素粒子が「最少の物質」だと、今、言われているわけです。
生物学の中でも、体を構成する細胞が見つかり、その中心に核が、そして、その中にDNAという二重螺旋の情報保存・伝達を担う構造があることが、一九五〇年くらいに発見されました。

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それ以来、生物を研究していく中で、病気の治療であったり、あるいは、食べ物の品種改良なんかにDNAの概念が広まって、再生医療とか、クローンとか、遺伝子組み換えとか、そういった問題が取りだたされるようになってきています。

 昨年、日本でノーベル賞を取られた方が二人いて、一人は、医学生理学賞をとった大村智さん。もう一人、物理学賞でノーベル賞を取った方に、梶田隆章さんという方がおられます。この方は、何をしたかというと、素粒子の研究をして、その新たなる特性を発見したということです。これは「ニュートリノ」というモノですが、分からないことだらけなのです。これは宇宙のどこにでもあり、それこそ満ちているのですが、あまりにも小さいもので、ほかの物質と反応することなく、すべてのものを貫通していくというのです。あらゆるもの、地球でさえも、何事もないように通り過ぎる。私たちの体にも、毎秒二兆個くらいのニュートリノが通過していくというのです。空間に満ち溢れているのですが、目にも見えないし、何も感じないというものであります。
 でも、そのように見ることもできない、計ることもできないと言われていたニュートリノが、小柴さんという日本人の功績によって、カミオカンデという観測装置で、初めて観測されたというのです。小柴さんは、それで二〇〇二年にノーベル賞を取りました。
ここまでは、梶田さんではなく、小柴さんがあげた成果ですが、梶田さんがどんな発見をしたかを、簡単にご説明します。
発見された「ニュートリノ」は、質量がゼロだと表現されていますが、重さもない、また何とも反応しない、そういう素粒子だと見られていたのですが、新たな研究成果として、微量ながら振動をして、また重力を持っているということを、梶田さんは発見したのです。
 梶田さんは、小柴さんが発見したニュートリノの観測データを見ていたそうです。そして、おや?なんかおかしいぞ。なんか変じゃない?と、疑問に思ったというのです。それは、観測装置の上から降りてくるニュートリノと、地球を通って下から観測装置に検出されるニュートリノとの数が違っていた、地球を通り抜けてくるニュートリノは上からのものよりも少なかったというのです。それで、何で違うのか考えた時に、ピンッ!と来たのです。
 それで、百億円というお金をつぎ込んで、カミオカンデを上回るスーパーカミオカンデという観測装置を作るわけです。

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 ニュートリノ観測実験を、このスーパーカミオカンデの装置の中で、上から降り注いでくるニュートリノと、また下から横から入って来る、ありとあらゆるやつを観測しまくったわけですよね。

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 そして、「ニュートリノ振動」という現象を発見したのであります。
 そして、素粒子物理学の中で、今までは質量ゼロだと言われていたニュートリノに、実は質量があったことが分かった。それまでの物理学の成果を覆す発見をした、それが梶田さんです。

 今、お話ししたストーリーのように、先の誰かが発見した事柄を、違った視点で着目して、「ん??」と、閃いたことを、実験を積み重ねて突き詰め、今まで誰も見出せなかった、新しい結果を導き出していく。それが学問の手法です。またそれを受け継いで、新たな発見がされていくのです。
 そうやって、三百年くらい科学が進歩してきて、現在に至っているのです。これ自体は悪いことではないですし、私たちもその功績によって、いろんな恩恵を受けているのですが、ただ自然をある一つの機械のように見つめて、そこにある様々な法則を引き出して行くという手法によって、すべてが明らかになっていくのか。私たちが暮らしている宇宙のすべてが明らかにされていくかといいますと、そうではないということが、最近だんだん分かって来たのです。
 例えば、今言った物理学の中でも、細かい所までどんどん進んで、そして宇宙の初めの状態まで突き詰めて分かってきたけど、そうしたら、分からない世界もどんどん見えてきているのです。

 先週も順先生がお話しされていた高次元の世界とか、あるいは、私たちがまだ見ることもできないダークエネルギーとかダークマターと言われるような、わけのわからんものが出て来たのです。
 私たちの今まで突き詰めてきていた科学が、どんどん細かく入っていった中で限界に達しつつあって、この先どうやっていったらいいか、先行きが分からないような人間の手に負えないような事柄に、今、たどり着きつつある、というようなことが言われています。
 三百年間続けて来て、今、なんかわけわからんものになって、なんとなく科学自体が宗教みを帯びてきたり、信仰が必要なものになってきている、そういう時代なのです。
 でも、信仰とか宗教とか言っても、神様を認めるわけではありませんので、なんか玉石混淆の世界に入ってきている、ややこしい世界になってきているというのが現実なわけです。
 学生のみなさんには、そういった分野に今から踏み込んでいくわけですが、学問を勝ち取るために、学びの中にも、やはり主からの油そそぎを求めていっていただきたいと思います。この学問の中にも、様々な欺きとか偽りがあるのですから。

 二週間前の礼拝での、順先生のメッセージにも、こんな事が語られていました。「真実を知ることが大事だ」と。覆い隠された真実を見極めることこそ、悪魔の仕業を見破り、戦いに勝利することにつながるのです。
 クリスチャンって、真理は知っているんだけど、真実はあまり知っていないのではないかと、おっしゃっていました。悪魔は、真理を知ったクリスチャンたちが、この世界を取り巻く様々な欺きの中に、覆い隠されている真実を知ってしまうと、やっかいなことになるので、真理を知ったクリスチャンが真実を知ることがないように、様々な偽りを流しているのではないか、というのです。

 先週もお話しされていましたが、歴史一つ取っても、現在の日本をつくっている構造を、黒い幕が覆い隠して見えないようにしているというのです。また、学校で用いられるような教科書一つとっても、日本人が書く歴史の教科書と、例えば韓国だったり中国だったり、アジアの諸国が書く歴史の教科書だったら、書かれている内容が全然違うわけですよね。立場によって、内容が全く違うものになってしまう。時代背景とか思想の変化によっても、開かれてくる内容は変わってくるのです。
 真実を見つめて、何を拾って何を捨てるのかを、自分の中ではっきりと区別していかなければ、出てくる姿は全く違ったものになってしまう。そういった中で、真実が覆い隠されてしまうのです。これは学問だけではなく、すべてにおいてそうですね。
 聖書においてはどうでしょうか。聖書のみ言葉。聖書を私たちがどう定義していくかで、これも全く違うものになっていくわけです。私たちは単純に、聖書のみ言葉が神の言葉だという教えを受け入れています。み言葉をすべて、これは神様のみ言葉だ!と。これって、考えてみると、不思議なことだと思うのです。ヘブル人への手紙四章十二節を見ますと、

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

 また、ヤコブの手紙一章二十一節を見ますと、

『ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。』

 またローマ人への手紙十章十七節を見ますと、

『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』

 聖書自体が聖書の言葉を、神の言葉、そして、あなたを救う言葉、そして信仰の一番の根本にあるものだと書かれております。
 クリスチャンである私たちは、「アーメン。その通り。」と、それを受け入れることができています。これって、考えてみれば不思議なことだなぁと思います。
 例えば、どんな本でもいいのですが、今日は学問について少し話していますので、教科書について考えてみても、今申し上げたように、それを全部鵜呑みにして、「教科書だから正しいよ。」と、書かれていることをすべて受け入れていく時に、私たちの目は自然と覆い隠されていくのです。私たちは、またいろんな違った考え方も読んだり、真実を見るために、教科書の中でも何が正しいのか、何が覆い隠されて書かれていないのか、ということも判別しなければいけない。書かれていることで間違ったことがあれば、「これは、間違っているわ。」というふうに判断しなければいけないのです。何でも「そうですよね。」「これは良い言葉だな。」と思ったら、受け入れてもいいけど、「これはちょっとね。」というものは、私たちは自然に無意識のうちに捨てるわけです。
 聖書の中にも、「これはすばらしい!」というみ言葉もあれば、「なんか意味わからんな。」というみ言葉もありますし、「これはどうなんだろう。」と、難解で、はてなマークがつくような箇所もあるわけです。
 ですけれども、とりあえず私たちは全部ひっくるめて、前提として、これは神の言葉だと言うわけですよね。そういった点が、聖書以外の本とは全然違います。聖書以外の本だったら、私たちは自分たちの頭の中で考えて取ったり捨てたりするわけですけれども、「聖書は全部受け入れます!アーメンです!」というような感じですよね。本当にそういうことを考えると、聖書というのは不思議ですよね。そういう前提を持って、私たちは信仰を持っているということですよね。

 ちょうどノーベル賞を取られた梶田さんが、カミオカンデのデータを見て、ピンッと来て、あっ!もしかして?と思って、自分の疑問に応じた実験装置を、多額のお金を出して作り上げて、そこで何年にも渡って観測を続けて、自分の思いは正しかった!と、確信を持って、それを社会に発表したわけです。それが実際に、周りの人から見てもすばらしい正しい成果だということで、ノーベル賞を受けたわけです。
 私たちの人生の中で、「み言葉が神の言葉だ!」というふうに確信するのは、その前提そのものをどうやって証明していくの?どうやってそれがわかるの?と言われても、その前提そのものが正しいかどうかなんて、誰も判断できないのです。だけど、私たちが個人的にいろんな先生からもお話を聞いたり、自分で読んでみたりしながら、だんだんと信仰を持つようになり、「よし!この言葉を信じて生きていこう!」と、ある時に決めて、クリスチャンになるわけですが、そうなった時に、私たちは神様のみ言葉としての前提を元に、聖書に照らし合わせて私たちの人生を歩み出している。
 そして、み言葉を通して、自分が教えられる。梶田さんがピンッ!と来たと同じように、聖書から心に響く言葉を自分の人生を通して実証していこうとする。そうしていく時に、「確かにみ言葉が正しい!」という体験を個人的にする。そういうことを通して、私たち、個人個人が、「あっ!確かにみ言葉が言っているようになった。確かにみ言葉は神様のことばだなぁ。」と確信するようになっていく、ということなんですね。
 ですから、信仰とは、み言葉から始まり、そして自分がそれを受け取って実践していくことを通して、初めて、その前提が自分の中で正しかったかどうかということが、はっきりしてくるわけです。

 科学の世界でも、同じような手法で真実を解き明かしていこうとするわけですが、でも、私たちがみ言葉を確信するのは、個人的な領域なのです。私たちが経験したもの、私たちが感じ取ったものを、他人に「私はこう感じたから、あなたも絶対そうだ。」と押しつけることはできないのです。それぞれが、み言葉を受け入れたことを自分の中で確信として建て上げていく、という作業が必要になっていくわけですね。
 ですから、今日は、お一人お一人が、み言葉に自分が堅く立って生きていくことを見直して、こうやって毎週語られているみ言葉を、自分のみ言葉として実践し、信仰を高めていく、そのような歩みをさせていただきたい、そのようなことに心を留めていけたらなぁと思います。
 でも、聖書のみ言葉を神の言葉としてではなく、例えば、研究材料とか、人生を豊かにしてくれる訓戒書とか、そういった考え方でのみ捉えていったら、そういった形でしか、自分の中で実を結んでいくことができないので、本当に神様からの助けと聖霊の導きを求めていくことが必要です。

 冒頭でお読みしたヨハネの福音書七章十五~十六節に、

『ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。』

自分から語っているというよりは、神様からの力によって、神様から遣わされて教えているんですよ。だから、正規に学問がなくても、その教えが正しいんですよ。ということを、イエス様が語っておられます

 また、第一ヨハネの手紙、二章二十節には、こんな言葉があります。

『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

 聖なる方からのそそぎの油を通して、私たちは神に対する知識、またクリスチャンとして歩んでいく上での様々な知識も身につけることができる。ここにはたぶん学問という領域も含まれると思うのですが、今年も私たちはみ言葉を求めてまた実践して、神様の恵みを体験して、この信仰を高めていくことができるように、求めていきたいと思います。

 最後に、一つの証しをして終わりたいと思います。
数年前に僕は、新城教会のホームページの担当になりました。新城教会のホームページ、みなさん、ご覧になられたことがありますか。

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 パソコンやスマートフォンなどで見ることができますが、これを管理しています。
毎週、礼拝で語られていますメッセージは、岡本泉さんがパソコンでテキストに文章入力し、それが説教者の手に渡って手直しがされて、僕の所に送られてきます。僕が二回目の手直しをして、紹介されている写真等を貼り付けて印刷するための台紙を作ります。それがプレイズ出版で印刷されて、みなさんのお手元に届くわけです。
 礼拝のメッセージ、ここで聞くだけだと、聞いた後、何が話されたか忘れてしまいますけれども、印刷されたもの、また、ホームページに載っているものを見ますと、その恵みをもう一度、復習して味わうことができますので、みなさん是非ご覧いただければと思うのですが、このホームページの作業を私がさせていただいております。

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 これが、その作業をするためのソフトです。パソコンで作業をしています。

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 これはメッセージを編集するページです。新城教会のホームページは、十一の部分に分かれています。メッセージのサイト、教会ニュースのサイトとかです。フォトレポートのサイトとか、メッセージのバックナンバーのサイトとか。

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 ノートのようになって表示されているのですが、こういった形で、全部で十一くらいのサイトが、ちょうどブロックが組み合わされていくように組み合わさって、一つの新城教会のホームページを作り上げているのです。

 二年前の一月のことです。このホームページに新年分の新しいメッセージのサイトを新設する、そういう作業をしました。

この画像でいうと、一つのノートを新しくホームページの中に加えていく作業です。毎年、新しいページが作られていきますが、その作業を、自分が初めてやらせていただきました。
 ところが、その作業は、僕が日常行っている作業と違う、結構複雑な作業なのです。それで、自分なりにいろいろ考えながらやってみたのですが、どうしてもうまくいかないのです。例えば、「二〇一五年十二月のメッセージを見たいな。じゃぁ、二〇一五年の年のメッセージのページに飛んで行こう!」というふうにボタンを押しても、全然違うところに、例えば二〇一三年のページに飛んでいってしまう、というようなことが起きてしまいました。自分の中でホームページの全体像がはっきりと掴めていなかったのだと思うのですが、いくら考えてやっても駄目なのです。
 それに加えて、僕が使っていたパソコンが調子悪くなりました。本当にタイミングの悪いことに、一番困っていた時に調子悪くなったのです。日本語をパチパチ打って、画面に仮名が出て来るのが、打ってから出て来るまでに、一、二、三秒くらい待つ。そして、それをまた漢字に変換するのですが、漢字に変換する時も、数秒待って・・・・ぱ!っと、変換されるのです。そして、違う候補が出て何回も変換キー押さなきゃいけないのに反応が悪い、こうやって押していくと行き過ぎちゃって違う漢字になっちゃう。とてもじゃないけど文字の入力ができない、という状況になりました。本当に何がなんだか分からなくなってしまいました。

 そういう時はパソコンを初期化するとか、対処しなければいけない。パソコンの中身をがばっと開けて、ほこりを掃除してみたり、そういうようなことを何日間かに渡って施しました。全然それでも直りませんでした。それで、対処法を調べたり、パソコンと格闘して、ようやくこれはハードディスクという部品が悪いのではないかと気づきました。ハードディスクというのは、パソコンの中にある全部のデータを格納する記憶装置なのですが、それが長年使うと壊れるのです。それで、新しいハードディスクを取り寄せて、交換して、古いハードディスクに入っていたデータを全部移動して立ち上げたら、なんとかパソコンは正常に戻りました。
 でも、相変わらず、ホームページはがたがたの状態で、そこまででも何日間か徹夜で奮闘していたわけですが、それからまた二日間くらい、寝ずの作業を続けました。とにかく一週間の間に仕上げないと、みなさんに礼拝メッセージを届けることができないと、すごい重圧がありました。そして、どうすればいいんだ!?と格闘していました。

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 この中で、黄色く見える、たくさん四角く見えるのは、ホームページのデータで、「フォルダ」と言いまして、この中にもいろんなデータが格納されているのです。一個のフォルダの中でも、何百とか、へたすると千くらい、「ファイル」と呼ばれるデータが格納されている場合があります。それらが一個一個、ホームページを構成する要素になるのです。ちょっとでも行き先が間違ったり、名前が違ったりとか、そういうので結局うまく機能しなくなって、意図しないページに行き着いてしまうわけです。
思うところを手直して試しては、うまくいかずに頭をかき、手のひらで顔をごしごし、コーヒーを飲んだり、お菓子を食べたりしながら作業しました。パソコンというやつが、本当に頑固で融通の利かない分からず屋のように思えてきました。僕は無力さを痛感しました。画面が墓石みたいに冷酷に見えてきて、もう二日くらいほとんど寝ずに経っていましたので、本当に行き詰まってしまいました。
それで、夜中の二時くらいだったと思うのですが、教会の誰もいない事務所の中で、僕は一人叫びました。「あぁーーー!!!イエス様!!!もう駄目です!助け手くださいっ!!!」と。もう涙は出て来るし、絶望して、顔を机に突っ伏したわけです。
しばらく黙り込んで、何分間か過ぎ、でも、こうやって何もせずに突っ伏していても直るわけじゃないし、、、しょうがない、やろう!と思って、ようやく顔を上げてパソコンに向かいました。

 その瞬間でした。頭の中にぱっ!と、今お見せしたようなファイルのイメージが出て来て、それで、「あっ!このフォルダの名前を、こう変えたら行けるかも。」と思ったのです。
即座に、パチパチとキーを打って対処しました。そうしたら・・見事に直ったのです!
それで、「やったーー!」と、また誰もいない事務所で、一人で叫び声を上げました。
人生の中でも最大級にスッキリした瞬間でした。今までのモヤモヤが吹っ飛んだわけです。「いやぁ〜、良かった〜!」と。
僕を何日間にわたり拒絶し、悩まし、苦しめ続けてきた元凶が、ぱっと頭の中にひらめいて、悪夢の状況を脱出することができました。「やったー!」と。「地獄から天国」って、こういうことだなぁ、と思わされました。
それまで何日間も苦悩して、苦しんで苦しんでやったのに全然駄目だったのですが、「イエス様!もう駄目です!助けてください!」と、叫び声をあげて、ほんの数分後に解決がきたのです。本当に驚きでした。イエス様がホームページのことをよくご存じだったなんて。

 それと共に、こう思いました。「いや〜、なんで早くイエス様に叫ばなかったのか。」と。本当に、こんなに祈らない牧師も珍しいかもしれません。

でも、そんな「イエス様、生きているなぁ。」という経験をさせていただいて、ホームページという仕組みも勉強する良い機会になったので、それはそれでよかったです。

 聖書の中でも「知恵の書」と呼ばれている箴言には、冒頭にこういう言葉があります。箴言一章七節、

『主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。』

 みなさん、知識というのは根本的に主を恐れるというところから始まっていくのです。それが土台だというのです。学生さんたち、よく覚えていただきたいと思います。先ほどお読みしたヨハネの福音書七章十五節、

『ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」』

 その秘訣は父なる神様から来る知恵だったわけです。油そそぎがイエス様にそのような知識を与えられた、ということです。先ほどお読みした第一ヨハネの二章二十節にも、

『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

 この言葉をにぎって、学生さんには試験に臨んでいただきたいなと思います。また勉学にも励んでいただきたい。まず主を求め、油そそぎを求め、そして、私たちがこの教会を通して実践している霊的戦いもそうです。油そそぎによって、隠された真実に光が与えられ、闇の勢力と戦うことができるようになる。詩編百十九編九十八節には、こう書いてあります。

『あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。』

 百五節には、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

 今日もこうして礼拝で主を求めます。また午後からも、油そそぎを求めて、この二〇一六年の初めに毎週、県民の森が行われてきましたが、祈祷会に参加して油そそぎを求めていく時に、神様が日々の生活の中でどのようにして敵と戦うべきか、ということも、知らず知らずのうちに与えてくださるのです。
 今日は「学問?それなら油そそぎをうけましょう!」というメッセージを語らせていただきました。私たちが日々の歩みの中で、主の油そそぎを求め、「求めたら与えられる」と書いてありますので、主の前に歩んでいきたいと思います。

 これで、私のメッセージを終わらせていただきます。一言、お祈りします。

 ハレルヤ。天のお父様。私たちはみ言葉を神の言葉として、信じ、受け入れます。そしてみ言葉を通して、私たちには敵に打ち勝つ力も与えられ、また、私たちをどんな敵よりも賢くすること、そのみ言葉を受け取ることができたことを心から感謝します。
 どうぞここにおられるすべての兄弟姉妹、特にこの二月、三月と受験を控えておられる兄弟姉妹が、今日このみ言葉によって励まされ、力を得ることができますように。心からお願いいたします。
 そして、この教会が子どもからお年寄りまで、また男性も女性も、また日本人も外国人も関係なく、主の油そそぎを受け、力を得て、主のために働いていく者となることができるように祝福してください。主イエス・キリストの御名によって心から信じ、感謝してお祈りいたします。アーメン。