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主への献身 主よ私を使ってください」

2020年11月22日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
ローマ人への手紙 12章1節

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

 ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美いたします。こうして今日も健康でこの場所に立ち、また共に主を賛美して、主を礼拝できる恵みを心から感謝いたします。
 早いもので、あっという間に十一月になってしまいました。今年は、新城教会宣教七十周年、リバイバルミッション五十年、そしてプレイズ三十年という節目の年で、記念の集会などいろいろ計画されていて希望を持って始まりました。しかし様々な問題で、ことごとく変更されるような事態になりましたが、その中でも守られていることを感謝します。
今、映像と共に「生きているってすばらしい!」というヘブンリーキングダムの皆さんの力強い賛美を聞きましたが、生きているって本当に素晴らしいですね。
 しかし、世界においては新型コロナウイルスで感染者が増え続け、亡くなる方も大勢います。日本においても、一時減少していましたが、いろいろな所で感染が拡大し、第三波が来たと言われています。皆さんもこれからどうなるのだろうと心配している人も多いのではないでしょうか。
 私に任せられているプレイズの働きでもコロナの影響は大きく、売上は、主力である印刷・出版が二十パーセント程、飲食は去年に比べたら半分くらいに下がっているので、「これからどうしよう、大変だ」と思っています。しかし、そのような中でも私たちは、主に拠り頼み祈ることができます。そして主は必ずその祈りに応えてくださり、必ず良くしてくださるという希望がありますから感謝です。

 さて今日は、『主への献身~主よ私を使ってください~』というテーマでお話ししたいと思います。

 このテーマに導かれた一つが、先週、プレイズから出版された『はい、主よ、わかりました』というこの本です。これは、ご存じの方も多いと思いますが、山崎ランサムどりあさんが編さんした本です。「神に仕えた若者たちの人生がどう変えられたか 四十一人の甲子園ミッション物語」という副題が付けられているように、甲子園ミッションで奉仕した若者たちのストーリーを集めたものです。三百ページ程ですが、文字も割合大きく、ほとんどが証しなので一気に読むことができます。私も全部読みましたが、とても恵まれました。今日からプレイズブックスで発売します。いつもは、第一部と第二部の礼拝の間だけですが、今日だけは第二礼拝後も開けますのでぜひお立ち寄りください。次週からは、第二部の礼拝に来られる方は、少し前に来てお買い求めいただきたいと思います。値段は、これだけのページ数の本だと通常千五百〜千六百円くらいなのでそうしたかったのですが、どりあさんから「少しでも安く」という希望を訴えられて、千二百円+税としました。ただし、今年いっぱいは、ブックスで購入の場合、消費税サービスの千二百円で買うことができますので、この機会にお買い求めいただき、ぜひお読みいただきたいと思います。

 今日はこの本を少し紹介しながら、先ほど読んでいただいたローマ書十二章全体から、私たち一人ひとりが神への献身者であるということを共に学んでいきたいと思います。

 「献身」という言葉を辞書で調べてみると、次のように書かれていました。
一、自分のことを顧みず、心身ともにささげるほど他のために尽くすさま。「献身的な看病」
二、他人やある物事のために、わが身を犠牲にして尽くすこと。「平和運動に献身的に取り組む」
三、キリスト教では神のために、生涯をささげること。
 私も今はフルタイム献身者の一人ですが、「献身」ということを考えた時に、一つのみことば、サムエル記第二の二十三章十五〜十七節が頭に浮かびました。ダビデが戦いの最中に、独り言を言ったところからです。

『ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』

この三勇士たちは「水を飲みたい」と言っている自分の大将の言葉を、「なんてわがままなんだろう?」とは思わず、なんとか「水を汲んできてあげたい!」と思ったのです。そして、敵の陣営を突き抜け、ベツレヘムの井戸から水を汲んでダビデの所に持って来たとあります。それはある意味では命がけの行動であったわけですが、主が私たち一人ひとりに求めておられる献身の姿勢というのは、これであるのではないかなと思います。私たちが「これをしたい」とか「あれをしたい」というのではなく、神さまが私たちに何を望み、あなたたちに何をしてほしいのかを考える、これが私たちの主への献身だと思います。

では、ローマ書十二章から三つのことをお話ししたいと思います。
 献身とは、第一に、「主の御声を聞き分けて、それを受け止める」ことから始まるのではないかと思います。
ローマ人への手紙十二章二節には、このように書かれています。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

皆さんは日々祈っていると思います。祈りは「神さまとの対話」と言われるように、「これをしてください。あれをしてください。神さま、こうしてください」と、願うばかりの一方通行ではありません。私たちが願ったことを神さまが聞いて応えてくださいます。一方で、祈りというのは神さまに主導権があり、祈りの中で神さまからの語りかけを聞き、受け取り、従っていくという面もあります。その時忘れてはならないのは、事を行ってくださるのは神さまご自身であるということです。

 旧約聖書に出てくる「サムエル」という名前を皆さんもご存じだと思いますが、ここには、まだ少年であったサムエルに神さまが語りかけられた時のことが書かれています。

『主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。』(サムエル記 第一 三章八~十節)

ある晩、主はサムエルを呼びました。しかし少年サムエルは、神さまが自分を呼んだということには気づかず、自分の主人であるエリの所に行って、「呼ばれたので来ました」と言いました。エリは「私は呼んでいない。帰って、おやすみ」と答えました。そんなことが繰り返され、三度目にサムエルが来た時、主のしもべであるエリは、「あ、これはサムエルに直接神さまが語っておられる」ということを悟りました。それで、「もう一度寝なさい。そして今度呼ばれたら『お話しください。しもべは聞いております』と答えなさい」と言いました。そして、次に主が「サムエル。サムエル」と呼ばれた時、サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げたのです。この時から、主は直接サムエルに語りかけられ、偉大な預言者として用いられていくわけです。

 聖書の中には、サムエルに語られたように、主が直接語られる時もあれば、幻や夢の中で語られるということも書かれています。
 では今の時代ではどうでしょうか。今でも神さまが直接「こうしなさい」と、教えてくださることもあるでしょう。また、聖書のみことばは、神のことばとして私たちに与えられていますから、聖書を通して語ってくださることもあります。また、祈っている時、礼拝や聖会などで語られるメッセージを聞いているなかで、語ってくださることもあります。
皆さんは、語られたことを聞き逃すことなく、しっかりと受け止めていますか? ボーっとしていると、神さまが語っておられるのに気がつかなかったり、忙しい生活の中で、雑音と思って聞き逃してしまったりしてしまいます。また、聞いたとしても、語られたことを受け止められなかったり、拒否してしまったりすることもあるかもしれません。しかし、それは本当にもったいないことですから、私たちは神さまの声をしっかりと受け止められる者になっていきたいと思います。
ヘブル人への手紙三章七~八節にはこのようにあります。

『ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」』

旧約時代、イスラエルの民は四百三十年の奴隷生活から解放されて、エジプトから脱出し、約束の地へ向かって行く間、常に神さまはみことばを与え、昼は雲の柱、夜は火の柱で導いてくださいました。しかし、どうでしたか。彼らは神さまのみ声を聞き、みわざを見たにもかかわらず、それを受け止めることができず、神さまに従うどころか偶像礼拝に走り、ほとんどの人が約束の地に入ることができなかったという結末を皆さんも知っていると思います。
 そのように、「私たちが主に献身する」とは、一人ひとりが主のみ声を聞き分け、そしてそれを自分のものとしてしっかりと受け止めて従うことから始まるのではないかと思います。これが第一のポイントです。

 そして第二のポイントは、「それぞれの献身のかたちがあり、あなたにしかできない献身がある」ということです。
皆さんは、何をもって主の前に献身しますか? ローマ人への手紙十二章三節をお読みします。

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』

 私はクリスチャンホームに生まれ、この教会で育ちました。学校を卒業して一般会社に就職して数年勤めたのち実家のスーパーで働いていましたが、幼い頃から「将来、神さまのために献身したい」という思は変わることなく、皆にも公言してきました。
この会堂ができて三年目の時、献身のことをもう一度考えました。順先生が時々言われますが、その頃の教会のスタッフは暇でした。一方私は、朝から晩までとても忙しく働いていましたから、「このままスーパーで働いていたほうがいいかな?」「教会にはこれ以上献身者が必要なのかな?」と思い、明先生に尋ねました。
 その当時、新城教会の礼拝出席者は百数十名程だったと思いますが、「今、新城教会には数名のスタッフがいて充分のように見えますが、この教会には何人のスタッフが必要だと先生は考えていますか?」と。すると先生から「兄弟、神さまはこの教会に五百名収容できる素晴らしい会堂を与えてくださった。しかし、会堂があれば人が集まるわけではない。五百名の人々が教会に来ても、それに対応できるスタッフが準備されていなかったら、神さまはこの教会に人々を送ることはない」と言われ、私はハッとさせられました。「それなら、今献身しよう」と仕事を辞め、フルタイムで献身することを決心しました。
 
 全部を読むことはできないですが、先ほど紹介したこの本の中から、一人の兄弟の証しを抜粋して紹介します。
 彼は、クリスチャンホームに育ち、地元の小さな企業に就職しましたが、行き詰まっていたある日、超教派集会の手伝いに出かけ、伝道者のA先生と同じエレベーターに偶然乗り合わせました。その先生に自分が献身について悩んでいることを打ち明けると、先生から思ってもみなかった答えが返ってきました。「おい、献身は全部仕事を辞めるとかそういうことだけじゃないからな。献身はな、かたちじゃなくて心の姿勢なんだよ。神の前に、主に従って生きる生き方をしているかどうかだよ。ある人は仕事を辞めるかもしれないけど、それよりは主のために生きる生き方をしているのが献身なんだよ」と言われて勇気づけられ、後に仕事をしながら空いてる時間を精一杯主に捧げ、甲子園ミッションの働きのために奉仕してくれたことが記されています。献身も、それぞれに神さまが召し出される場所があり、時があります。そして、フルタイム献身だけが献身ではなく、一人ひとりにさまざまな献身のかたちがあるということも覚えておいていただきたいと思います。

 また、ローマ人への手紙十二章四節には次のようにあります。

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

ここでは、キリストのからだを、人のからだの各器官に例えています。
 皆さんは、自分の体のことをどの程度分かっていますか。正直、私は今まで健康に恵まれてきたこともあり体のことは何も知らず、年に一回健康診断は受けていますが、それ以外は無頓着でした。昨年十月、享子さんが膵臓癌と診断されたと聞いた時も、膵臓はどこにあるのかな? 膵臓ってどんな働きをするのかな? とあらためてネットで調べたような者です。また先日、手術した上條先生の動脈が五十ミリに肥大していると聞いた時も、「動脈が五十ミリなんて、そんなことあるわけがない」と、わざわざ私は上條先生に電話して「それって間違いじゃないの?」と聞くと、本当に五十ミリ以上あると言われたとのことでした。動脈というのは、正常な人でも二十ミリはあるということもその時に初めて聞いたのですが、五十何ミリになったと聞いて、「それは大変なことだ!」と思って祈らせていただきました。上條先生は手術も無事に終え、今日は礼拝にも出られていることを感謝します。
 
 話を戻しますが、体にはいろいろな器官があり、機能が備わっています。私は、体について詳しいことは知りませんが、多くの器官で成り立っていることは知っています。でも皆さん、自分の体の中でどの器官が一番大事だと考えますか?
 コリント人への手紙 第一 十二章十四~十八節では、このように教えています。

『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

どの部分が大事だというよりもそれぞれの機能が重要であって、その機能がしっかりと役割を果たしているなら、健康だということです。これらすべての臓器、すべての器官をまとめて、「からだ全体」というように、キリストのからだも同じですね。皆さんがどこの器官を担っているかは別として、その器官がそれぞれ役割を果たし、組み合わさって初めてキリストのからだ全体が整うのです。

 さて、私はこの甲子園の集会のために奉仕された人々の証しを読んで、二十八年前、自分もすごく忙しかったし一生懸命奉仕をしたけれど、あの働きを成し遂げるために、甲子園ミッションという大きなからだの働きの足りないパーツ満たすために、神さまは全国各地から人々を呼び集めたということを知りました。
この本に紹介されているお二人の証しを少し抜粋して紹介します。
 一人は、大学院を卒業して市役所の就職試験を受けたが、落ちてしまったというある兄弟の証しです。採用されなかった理由は、「面接試験での質問で『日曜日に出勤しなければならないとき、あなたはどうしますか?』と聞かれ、『教会の礼拝を優先させていただきます』と答えたからかもしれないと言います。その後就職を考えているうちに、教会や甲子園ミッションの働きでは、自分がもち合わせている能力が必要とされていると感じ、献身することにしました」とあります。彼は、コンピューターの知識に長けていて、いろんなことを知っている有能な人であって、その能力を生かし、甲子園大会のために大きな働き手となってくれました。

 またもう一人は、いやしを体験して甲子園ミッションに献身した姉妹です。
 彼女は、子どもの頃から教会に通っていましたが、生まれつき先天性肝臓肥大という病で手術を受けましたが、学生のとき本格的に肝臓病を発症し、医者からは入院するように言われましたが、それを断ってしまいました。しかしある時、彼女が聖書を読んでいるときに、「自分もイエスさまのところに行けばいやされる」という確信を持ち、富士山に登って日本のリバイバルのために祈るというイベントがあるのを知り、いやされることを信じて意を決して富士山に登って祈りました。その翌日に行われた集会中、確実にいやされたことがわかったというのです。実家に戻り病院に行ってみると、すべての数値が正常で、医師は、「どうしてだろう? いったい何が起きたんだろう?」と不思議がっていたそうです。その時、彼女は自分の人生をイエスの働きのために献げようと決めて、甲子園ミッションスタッフとなり、後に牧師夫人になって今も主に仕えています。

 ここに述べた二人はもちろんですが、何十億人もいるこの世界で、性別も年代もできることも違う皆さん一人ひとりをも、神さまは選んでくださっています。キリストのパーツとして、キリストのからだをたて上げるために、皆さんを選んでくださったということを、ぜひ覚えてください。
 
 そして第三のポイントは、「あなたに与えられた働きを忠実に行い、互いに仕え合うことから、この働きは拡大していく」ということです。
ローマ人への手紙十二章六〜十一節をお読みします。

『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。』

このみことばにあるように、私たちも神さまから選ばれ、賜物が与えられています。ある人は預言、ある人は奉仕、教える人、勧めをする人、分け与える人、指導する人、慈善を行う人など、これらはほんの一例で、神さまの賜物は、何十、何百、数え切れないほどあります。皆さんには幾つ与えられているかわかりませんが、三つ、四つ、五つ、十と、それぞれに与えられている賜物があるということを忘れないでください。
 しかしここに『愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。』と、注意すべき点が書かれています。
 人間の体の各器官の働きを見ると、「すっごくよくできている」と感心します。当然ですね。神さまが造ったのですから完全にできているわけです。でも先ほども言いましたように、体において、どんなに優れたどんなにすごい機能を持っていたとしても、一つの器官の働きだけでは充分に力を発揮することができません。人間の各器官が正常に機能するためには、何が必要だと思いますか。それをつないでいるのが血液と血管です。
 人間にとって血液とは、命をつなぐために必要な酸素や栄養分を運ぶ大切な役目を担っています。この血液の通り道となるのが血管であり、役割や部位によって、動脈、静脈、毛細血管の三つに分類されるそうです。
 誰にでも血管があるわけですが、血管ってどのくらいの長さがあるかご存じですか。私も知らなかったので調べてみました。血管をすべてつないでみると、成人の場合、その長さは一人当たり約十万キロメートルもあるそうです。十万キロと言ってもあまりピンとこないかもしれませんが、地球の円周が約四万キロですから、地球を二周半するのと同じくらいの血管が一人ひとりに備わっているのです。そしてそれが張り巡らされることによって、さまざまな 臓器、組織に酸素、栄養が供給されたり、老廃物を回収したりして、私たちの体を正常に保っています。各器官をつないでいる血管がなかったら、それぞれの器官が動かないように、教会での働きも同じです。
 教会において、この血液と血管の役割を担っているのが聖霊さまではないでしょうか。私たちが持っている人間的な力というのは、本当に些細なものです。私たちは弱い者です。しかし、与えられた賜物を聖霊によって栄養を与えられ、つなげられるなら、キリストのからだをたて上げ、大きな働きをすることができるのです。
このみことばの最後には、『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい』と締めくくっています。もし心臓が「今日は疲れたから一日休もう」と動きを止めたらどうでしょうか。死んでしまいます。どの器官も同じです。「ちょっと休んでいても大丈夫」とはならないのです。ですから、キリストの器官である私たちも、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えていきたいと思います。

 十一月二~三日に、リバイバルミション主催のALL DAY REVIVALというリモートによる二十四時間連続の集会が開催されました。参加された方々は、大変恵まれたと思います。私も全部ではありませんが参加して、とても恵まれました。
私は、初日の夜の「ミッション五十年を振り返る」というテーマの集会に、コメンテーターとして出演させていただきました。初めは、「いや〜呼ばれてしまったか」と思いました。出演するのが嫌というのではなくて、昔のことをあまり覚えていないので、何か聞かれて答えられなかったら困ると思ったのです。
結局は、平岡先生がリードしてくださり、私と新人先生、進先生はちょこっと答えて、最後は順先生がすべてまとめてくださったという感じでしたが、話を聞きながらいろいろなことを思い出し、感謝があふれ、すごく恵まれました。
 でもその恵みより、もっと感動したことがありました。それは皆さんの知らない裏方の方々の働き、画面には出てこない二十四時間を陰で支えて進行作業をしていたスタッフの頑張り、ボランティアスタッフの方々がいて、この働きが進んでいったということへの感動です。
 一つは、四十七都道府県の先生方や兄弟姉妹にズームで参加していただいて、「十五秒間ずつ、その県の祈りのリクエストをしてください」という企画においてです。「十五秒で何を言うのかな?」とすごく興味があった一方で、「大丈夫なの?」という思いもありました。実際、本当に大変でした。と言っても、私は見ていただけですので大変ではありませんでしたが…。
さっきまでつながっていたにもかかわらずネットが中断してしまったり、参加されている途中で退席してしまったり、映ってはいるけれど音声が出なかったりと、私は一番後ろでそれを見ていて、ハラハラしていました。出演順が決められていたのですが、その順番になってもその人とつながらないのを見て、スタッフは司会をする平岡先生に、「その人は今ダメですから飛ばしてください」と、画面にはもちろん映らないところで、手でバツをつくって合図していました。そのほかにもいろいろとハプニングがありました。考えた人も考えた人だし、やる人もやる人だなと私は思ったのですが、リバイバルミッションの働きとか教会の働きも、ある意味ではちょっと見切り発車というところがあります。なんとかなるでしょう、神さま助けてくれるでしょう、というようなところがあって、無謀だと思われるような計画をしていることもあります。
 二十八年前の甲子園の時もそうでした。下條先生の語ったビジョンを明先生が受け取ったわけですが、それを聞いた私や順先生は、「そんなのは無謀だ。できるはずがない」と思っていました。でも言ってしまったことはやるしかない、と覚悟を決め、私も含めほとんど素人でしたが、「この主の戦いを成功させたい!」と願う若者がぞくぞくと集められ、多くの人々の力が合わさって、大きな働きを成し遂げることができました。

 この本は、四十一人の方に取材をして編さんされているわけですが、これはあくまでも一部の方であり、この甲子園の時には、ボランティアスタッフだけでも何百人、何千人という人が参加してくださり、この大会を支えてくださいました。
 甲子園ミッションの準備の中で、一番の柱は祈りでした。祈りのプランの一つとして「十八万時間祈祷」という企画がありました。十八万時間がどこから出たかというと、甲子園球場には六万人が入ります。一人一時間として六万時間、三日間行われるから合計で十八万時間、それをみんなで祈ろうというわけです。マスを印刷したハガキを皆さんに送って、一時間祈るごとに一マス塗りつぶして、全部ぬりつぶしたら事務所に送るという仕組みでした。祈ってくださった人も犠牲を払って大変ですが送れば終わりです。でも、送られたハガキを受け取った側は、一日に何十枚、何百枚も来るので、それをひたすら集計して、「今何時間」と報告しなければなりませんでした。
 また、大会中に多くの献金を皆さんに献げていただきました。献金の方法の一つに、「コイン缶献金」があり、缶の中に、一円、十円、百円を入れてくださって、いっぱいになったら事務所に送ってくださいました。大勢の方が送ってくださり本当に感謝でしたが、それを開いてひたすら数えるというスタッフもいて、その作業もなかなか大変なものでした。
 また、全国で七百五十ヵ所の決起大会が開かれました。最前線に出て、感謝なこともたくさんあったけれど、大変なこともあったという話を聞かれたことがあると思いますが、その働きを裏で支える人がいました。教会に連絡をしたり、交通手段を考えたり、ホテルや食事の手配をしたりと、そのような裏方の人たちがいたことによってこの働きが進んでいたということを、私はもちろん知ってはいましたが、あらためて「本当にみんな頑張っていたなぁ。すごいことだなぁ」と思わされました。
 このように、甲子園ミッションという働きを通して、人々が主に献身した姿、また主がその人々を用いてくださった記録が書かれていますので、ぜひこの本をお買い求めいただき、読んで心燃やされていただきたいと思います。

 この先ほど、最初に読んだみことばをもう一度お読みします。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(ローマ人への十二章一節)

ここにあるように、『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい』、これが献身の原点ですね。
 献身は、他人事ではありません。すべての人が主の献身者です。私は、特に若者に対して声を大にして、「今できる時に、主のために命がけで働こう!」と呼びかけたいです。
 甲子園の時に私は三十代そこそこの若造でした。若かった。だから甲子園を何度も何度も往復し、徹夜で仕事をしても、二~三時間寝れば体力も回復しました。今そんなことをやったら三日くらい寝込んで、そのまま天国に行ってしまうかもしれないですが…(笑)。今すぐにはできないかもしれないし、何も持ち合わせていないと思っているかもしれませんが、若い人には体力があるし、時間もあるし、自由な発想があるし、いろいろなことができる可能性があります。もちろん若い人だけでなく、私のような六十代の者も、七十代、八十代の方も、それぞれにそれぞれの働きがありますが、若い時にしかできない働きというのがあることを覚えて、主のために命がけでぜひ働いていただきたいと願っています。

 最後に、「主への献身」についてまとめたいと思います。
まず私たちが耳を澄まし、主の語られることを一つも逃すことなく聞き取り、受け止めて従うこと。また、それぞれに賜物が与えられていますから、機会を十分生かして賜物を働かせること。そして、主の働きは、どんなに素晴らしい賜物があったとしても一人だけでは担うことはできないことを覚え、血管を通して血液によって栄養が各器官に運ばれ体全体がうまく機能しているように、聖霊さまの働き、助けによって、結び合わせていただいて進めていくことを、ぜひ心にとめていただきたいと思います。そして、どんな時にも皆が主の献身者であることを忘れず、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えてまいりましょう。また、すべての被造物に主をほめたたえさせ、全宇宙とともに主を賛美していまいりましょう。お祈りします。

 愛する父なる神さま、み名をあがめます。今日こうして二部制ですが、皆が集まり、主を賛美して主を礼拝できる恵みを心から感謝します。今日は、主への献身について学びました。主が私たち一人ひとりを選んでくださり、賜物を与え、主のみこころを行わせてくださることを感謝します。主のみこころを悟り、行う者とさせていただきたいと心から願います。どうか、ここにいるお一人おひとりが肉体的にも霊的にも魂も健康で、喜んで喜んで主に仕え、主のみわざを現すことができるように導いてください。すべての栄光を主に返します。信じ感謝して、主のみ名によって祈ります。アーメン。