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「宣教70周年-2020 明日に向かって「将来と希望」パート12
~主よ。祈りを教えてください!❷~」

2020年9月13日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 11章1節

『さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』

 ハレルヤ!おはようございます。こうして皆さんと共に礼拝できますことを、心から感謝します。和樹君の演奏、成長したなぁといつも感心します。コロナのただ中にありますが、様々な方法で、主が支えてくださっていることを心から感謝しています。これらも主が守り、導いてくださると信じています。

 不自由な中にあっても、先週は新しいことがありました。本当に嬉しいです。プレイズが今まで「雲の柱」というレストランをやっていたのですが、それが閉店して、寂しいなぁと思っていたら、新しいお店ができました。それが「サーム23」です。

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なかなか良い名前を付けましたね。詩篇二十三篇そのものを店名にしました。今回はコーヒーに凝っています。

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 私はテイクアウトしか利用していませんが、市民のいこいの場となり、霊的にも町に大きなインパクトを与える店となるよう、是非ともお祈りいただきたいと思います。
 宣教七十周年、神さまが一歩一歩導いてくださって、ここまでやってきました。その背後に、兄弟姉妹の熱い「祈り」があります。

 昨日は、結婚式もありました。星野祥君と沙希さんの結婚式でした。

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 暗い話題が多い今日この頃ですが、ほっとしたひとときでした。結婚式っていいなぁと思いました。もっともっと、クリスチャンホームができるように、是非、祈り続けていただきたいと思います。

 先週の日曜日の午後は、田中芙美子先生に、いろいろ昔話をしていただきました。

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七十年前のことを知っている人は、今では本当に数少ないです。しかし芙美子先生は、六十数年前のことを知っています。その頃は高校生で、この教会に来られていたからです。
 当時、若者たちが集まって真剣に祈るようになって、聖霊が注がれて、彼らは都会ではなく、田舎に遣わされていきました。これは本当に不思議な現象でした。その若者たちは、「都会に出て行って一旗揚げよう」と考えていた人たちばかりでした。
 しかし聖霊が注がれて、「新城よりも奥の田舎に入って福音を伝えなさい!」と主からの声を聞いたのです。芙美子先生も話されていましたが、それは預言のことばと共に告げられて、「このことばに逆らってはいけない!」と確信し、浦川に入って行って伝道したそうです。度々教会は洪水に見舞われたけれど、がんばり抜いたと話しておられました。あのような純粋なスピリットは、大事だなぁと思わされました。

 先週、東栄町で宣教されている、中村先生ご夫妻、ご主人はすでに召天されましたが、奥様のいく先生がご健在で、インタビューを撮りに行かせていただきました。八十九歳です。お歳なりのところはあるのですが、そのスピリットは熱く伝わってきます。

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 夏目栄子さんとなぜツーショットなのかと言うと、中村先生ご夫妻が東栄町に行かなかったら、栄子さんは今、ここにはいないかもしれません。なぜならばご主人の洋平さんは、中村先生の息子さんに導かれてクリスチャンになったからです。神さまの計画ってすごいなぁと思います。

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 これは当時の教会です。教会というよりも荒ら屋です。いく先生は、現在八十九歳ですが、デイ・サービスにも行っていないというのです。また、養老院に入るつもりもないというのです。「最後の最後まで、十字架の下に居続けるんだ!」と言うのです。この町に存在し続けること自体が霊的戦いであり、福音宣教そのものであるのです。
 そして、「我が人生、悔い無し」と言われました。すごい言葉だなぁと思いました。私は悔いだらけですが、「悔い無し」です。

 ご主人の中村先生は写真マニアで、結構古い写真もありました。その中に、すごい写真がありました。

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 この写真、左から一人、二人、誰か分かりますか?ネパールのチェパン族に連れて行っても全く問題ない雰囲気ですね。裸足ですし、服も、よくもここまで汚くしたもんだみたいなところがあります。
 この二人、上條実先生と岡本信弘先生です。何の悩みもなく、叫んで歌っています。今では二人とも、神さまのために働く器となりました。歴史はすぐには評価できません。長い期間をおいて、振り返って、やっと神さまの業は分かるものです。

 中村先生も、「自分たちは何のために東栄町に来たのだろうか・・。」という葛藤が、奥様は「なかった」とお話しされていましたが、ご主人にはあったみたいです。

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 現在スペインで牧師をしているホルヘ先生は、東栄教会出身です。今彼は、マドリードでテレビ伝道をしています。

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どのように方程式を立てても、東栄町とスペインのテレビ伝道とはつながらないです。しかし神さまの内には、初めからつながっていたはずです。将来を見据えて、主は私たちを導いてくださいます。

 田中先生が佐久間町浦川に、中村先生が東栄町に出て行ったことによって、愛知県民の森で一九七〇年から、リバイバルクルセードの聖会が始まりました。
 なぜなら県民の森が新城、東栄町、浦川から等距離で、民の森のロッジでミーティングを始め、そこが自分たちに便利だということで聖会が始まりました。しかし日本のリバイバル運動はそこから発展していきました。父と田中先生が全国の牧師たちに呼びかけ、中村先生が事務局を担当して、祈りの運動が始まったのです。
 一九七〇年、八〇年代、韓国で大きなリバイバルが起こっていました。現在、韓国はクリスチャン人口が減っているのですが、一九七〇年、八〇年代は、国民の約二十五パーセントがクリスチャンになった時期がありました。そんな中、百万人、二百万人と集めて、巨大な伝道会や聖会を導いていた、有名な韓国のリバイバリストの先生方が、なぜか、県民の森の集会に来て、百人足らずの日本の牧師たちのためにメッセージを語って下さるようになりました。
 そんな中でよく来てくださったのが、「申賢均先生」でした。右は私です。

 私は先生のメッセージが大好きで、世界中で活躍されている先生でしたから、あやかりたいと思って、送り迎えとかを買ってでて、先生をよく空港から送迎したものです。

 ある日のことでした。朝早く、先生が韓国に帰らなければいけないということで、当時は名古屋空港だったのですが、お送りしました。まだ暗いうちに起きて、先生と二人で空港に向かいました。すると先生が私にこう話されました。
 「順君、ちょっと話がある。」何を話されるのかなと思ったら、「私は滝元先生や田中先生の熱心さ、単純さ、そのスピリットに感動して、日本に度々来て、助けているけれど、一つ賛成できないことがある。その事を知っておいてほしい」と言われました。
 「あなたのお父さんや田中先生は、祈る時にイエスさまに祈るでしょう。イエスさま!イエスさま!と呼びかけて、最後もイエスさまで終わるでしょう。あの祈りは間違っているよ。」と言われました。「聖書をよく読んでください。イエスさまに直接祈った祈りは、ほとんどないですよ。祈りとはイエスさまの名前を通して父なる神さまにささげるものです。イエスさまだって、父なる神さまに、『アバ父よ』と祈ったじゃないですか。イエスさまに向かって祈り、イエスさまに終わるワンネス的な祈りは、間違っています。その信仰だと、韓国なら異端になりますよ。そのことをよく覚えておいて下さい。」と言われました。
 私は何のことか、すぐには分かりませんでした。でもその時から、先生が何を言わんとされたのかを、考えるようになりました。

 実は私たちの教会は伝統的に、「イエスさま!イエスさま!」と、単純にイエスさまの名前を呼んで祈る習慣があります。私は物心ついたときからずっと、イエスさまの名前を叫んできました。それは間違いない祈りだと信じていました。しかし、それが間違いだと指摘され、ショックでした。祈りとは、「イエスさまの名前を通して、父なる神さまに祈ることですよ」と言われたからです。
 今日も、前回に引き続いてお話をさせていただきたいと思うのですが、弟子たちが、「私たちにも祈りを教えてください!」とイエスさまに願った時、イエスさまは何と答えられたのでしょう。「わたしが神ですよ。わたしに祈りなさい。」とは言われませんでした。「父に祈りなさい。」と言われました。「天にいます私たちの父よ。み名があがめられますように。」
 先ほど、ご一緒に祈った「主の祈り」を弟子たちに教えられたわけです。主の祈りを心に留めることは大切です。
 私が信弘先生と会話をしたい時に、「上條先生!」と呼んでも、信弘先生は見向きもしてくれませんよね。同じです。誰に呼びかけるのか。祈りは、父なる神さまに呼びかけなければいけないのです。

 キリスト教の中で、最も重要な教理が何であるのかについても、前回お話しさせていただきました。それが「三位一体」です。この教理がキリスト教の土台をがっちりと支えています。それは神ご自身を理解するための重要な概念です。

 “キリスト教信仰において、その中心にある重要な教理は、三位一体の教理である。三位一体という言葉自体は聖書にはないが、聖書が明らかに伝えている信仰内容である。三位一体とは、聖書に啓示されている神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格を持つ唯一の神である。”

 聖書は神はお一人だと告げています。しかしながら、父なる神さまも出てくれば、子なるキリストも出てくれば、聖霊も出てくる。なんか三人おられるような気がするかもしれません。しかし三つにして一つの神さま、これが我々が信じている神さまです。それを図で表しているのがあったのですが、こんな感じになると思われます。

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 父なる神さまと、子なる神さまとは、別々の位格、人間で言ったら人格を持っています。また父なる神さまと聖霊さまとは別、子なる神さまと聖霊さまとは別、しかし子なる神さまは神であり、父なる神さまも神であり、聖霊なる神さまも神であり、神は唯一であり、三つの位格を持って一つの神であるという三位一体の教理は、聖霊によって使徒たちに告げられ、教会に受け継がれた重要な真理です。
 しかしこれが教会の土台に堅く据えられるまでには、大きな戦いがあったと前回お話しさせていただきました。我々が信じている神さまは、三つにして一つの神さまであることを、しっかりと理解する必要があります。

 旧約聖書はヘブル語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれたわけですが、日本語とは違った性格を持っています。神は言語を通して、ご自分が三位一体であることを示唆しておられます。
 いつも話していますが、日本語って、複数と単数が曖昧なので、なかなか分かりづらいですが、英語は単数と複数の二つですが、ヘブライ語の複数形は三つあります。それは単数と両数と複数です。両数とは、両腕とか両目とか両耳というような、一組のペアを指します。双数とも呼ばれます。三つの複数形があるわけです。ユダヤ人たちは会話の中で、それが一つなのか、双数で二つなのか、複数となると三つ以上なのかを判別しながら会話しているわけですね。

 神さまの名前を「エロヒーム」と表現します。また聖書には「われわれ」という言葉も使われていますが、これらは「複数」だというのです。ということは、「三つかそれ以上」を表しているのです。
 『初めに神が天と地を創造した。』という有名なことばがあります。この「神」とは「エロヒーム」が使われています。ということは、複数です。それは三つ以上の神々が存在するイメージになります。
 しかし聖書全体から見れば、神は唯一です。既に創世記一章一節の中で、『初めに神が天と地を創造した。』の「天」も複数ですが、「エロヒーム」は、三つ以上を表しています。
 同時に、ヘブル語の複数形は「偉大な存在」とか、「人間の及びのつかないような存在」として、尊厳を表すために複数形にする用法もあるそうです。それも含み「エロヒーム」は複数です。

 「われわれ」という言葉も出てくるのですが、イザヤ書六章八節に、イザヤが主の声を聞いた場面があります。

『私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』

 どんな声を聞いたのか、「だれが、われわれのために行くだろう」。「われわれ」とは複数です。三以上です。ということは、神さまは、三つにして一つ、三位一体を表している箇所です。

 新約聖書と旧約聖書を合わせてみると、興味深い表現があります。ヨハネの福音書一章一節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

 「ことば」とはイエスさまを表しています。ヨハネの福音書一章一節は、創世記一章一節と重なり、「新約聖書の創世記」とも呼ばれます。
 創世記一章一節、『初めに神が天と地を創造した。』の「神」は複数だと先ほど話しました。そして、「ことば」とはイエスさまのこと、これは単数です。「ことばは神とともにあった。」と表現されていることは、イエスさまもまた、「神ご自身」であるわけです。父なる神さまと、子なるイエスさまは、神さまですが、異なる位格をお持ちであることをここで分かります。

 こう見ますと、聖書は、至る所で三位一体を示唆しています。イエスさまは「父と子と聖霊のみ名によって、バプテスマを授けなさい」と命じられました。
 また、第二コリント十三章十三節、

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』

と、パウロも三位一体を理解して祈っています。私たちの神さまが三つの位格を持っておられることは重要な理解です。それは祈りの生活の中で大変重要です。
 そして、それぞれの位格を持った神は、それぞれの役割を担っておられます。祈りを届けるイエスさまの役割と、祈りを受け取り答える父なる神さまの役割と、それを助ける聖霊さまの役割です。いずれも神ご自身ですが、それぞれの役目を秩序を保ちながら果たしておられます。
 祈りを受け取り、答えてくださるのは、「父なる神さま」がその役割を担っておられます。

 初代教会はそのことをよく理解していました。イエスさまが救い主であり、メシアであり、神であることを認めていました。しかし祈りは、常に、父なる神にささげられていました。イエスさまが復活して、天に帰られてからも、彼らの祈りは父なる神に向かっていました。イエスさまに直接祈っていたのではなく、父なる神に祈りをささげていました。
 公生涯においてイエスさまは、常に、父なる神に祈っておられました。また、イエスさまは、父なる神さまを「アバ」と呼んでおられました。「アバ、父よ」と呼んだのです。
 イエスさまの人生で苦しみの極みは、ゲッセマネの園での祈りでした。十字架を直前にしての祈りでした。その時の祈りがマルコの福音書十四章三十六節に記録されています。

『またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」』

 究極の場面でイエスさまは、神を「アバ」と呼んだのです。
 このアバという言葉は、「古代イスラエルで、子どもが父を呼ぶ時に使った、親しみを込めた言葉」でした。現代でも、イスラエルでは子どもたちは父親のことを「アバ!」と呼びます。
 イエスさまは、父なる神さまと、「アバ」と呼べる親しい関係で過ごしておられたのです。ゆえに苦しみの極みの中でも、「アバ、父よ」と叫ぶことが出来ました。

 この中で、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。」と呼びかけておられます。私たちの父なる神さまは、「おできにならないことはない」、これが前提です。しかしながら、「みこころがなりますように。」と、主の祈りで教えられた祈りを踏襲されています。
 聖霊さまは、父なる神さまを「アバ、父」と呼ぶことをサポートする、助ける働きです。ローマ人への手紙八章十五節、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』

 「アバ、父」と呼ぶことができるのは、聖霊さまの助けによって可能になるわけです。ガラテヤ人への手紙でも、四章六節、

『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』

 父なる神は怖い存在で、近づきがたい存在のように思うけれども、そうではなく、「アバ、父」と呼ぶことができる、親しみを込めた存在なのです。聖霊さまはその方を知るために、サポートしてくださるのです。
 
 祈りとは、「イエスさまの名前を通して、父なる神さまにささげられる時、偉大な力を発揮する」のです。

 今週、是非覚えていただきたい聖書箇所は、マタイの福音書十八章十九〜二十節です。これはイエスさまが語られたことばです。

『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」』

 これは祈りがどのようなメカニズムで聞き届けられるのかを、イエスさまが語られた箇所です。第一に、私たちがイエスさまの名前で集まる時に、イエスさまが共にいてくだるという事実です。
 そして祈りとは、心をひとつにして、天におられる「わたしの父」に祈れと言われました。そうしたら願いが叶えられるというのです。
 教会は、イエスさまの名前によって集まる場所です。そこで天におられる父に祈り求めるならば、「どんな祈りでも聞いてあげる。」と言っているのです。
 しかしそこで重要なのが、心を一つにし、共にイエスのみ名によって集まるということです。
 今週、是非とも実行してみてください。夫婦で心を一つにして必要なテーマをイエスさまの名前で、「父なる神さまに祈る」のです。その時、祈りの答えが手元に届きます。

 私も家内のことがあり、どのように、何を、祈ったら良いのか、途方にくれることがよくあります。その中で、「祈りについて整理しなさい。」と促されたような気がします。
 私たちの教会は三位一体を信じていますが、伝統的に、「イエスさま!イエスさま!」と祈り、イエスさまが直接祈りを聞き、イエスさまが答えるようなイメージがあります。しかし、実際は、イエスさまによって「父なる神さまに通じる道」ができるということです。
 ヨハネの福音書十四章十六節、

『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 イエスさまは、「道」という役割です。私たちがイエスさまの道を歩むと、その道は真理の小道であり、いのちがあります。そしてその道のゴールは「父なる神さま」に行き着くのです。これが祈りの秘訣です。
 答えられる祈り、祈りの秘訣は、イエスの名によって集まり、心を一つにして、父なる神に祈る。その時、祈りの答えがやってくるのです。

 七十年の歴史の中で、私たちは多くの祝福を受けましたが、土台に間違ったものがあったら取り除き、正しいものに置き換え、多すぎるものは削除し、足らないものは加えて、将来に向けて土台を堅固にする必要があります。

 私の両親は以前にも語られた、穐近祐宣教師が来日したことによって救われました。

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彼が日本に来なかったら、私もこの教会も存在しません。
 しなしながら、この先生の素晴らしい面もあったのですが、見直さなければならない土台もあることに気づかされました。
 これは批判とかではなくて、戦後の混乱も手伝って、良いものも、間違ったものもチェックなしに入って来たのだと思われます。この先生の自叙伝、「土方のおやじ」を読めば、そのことがはっきりします。その中からの引用ですが、この先生の神学は、「ジーザス・オンリー、またはワンネス」という神学が土台になっていたことがわかります。
 「この神学は三位一体を否定し、神は父子聖霊ではないとする。イエス・キリストのみが神であり、イエスがみ父や聖霊という形を取って現れると信じている。ワンネスの教えの根本は、イエスが父なる神であり、イエスが聖霊であり、イエス・キリストが様々な様態を取って現れる唯一の神という神学」
 この背後に、歴史的な流れがあるので、一概に、完全な異端だと言うことはできないのですが、ジーザスオンリーを歴史的に見ていきますと、三世紀から四世紀に現れた「サベリウス派」という異端を根を持っている事は確かです。「様態論」と呼ばれるものです。
 イエスさまは、「救い主」ですから、イエスの名前は、私たちを救う唯一の名前です。ですからそこには救いはあります。しかし三位一体が否定されると、たとえ祈りが聞き届けられたとしても、その後の結果がねじれてくる「ねじれ現象」が発生するのではないかと思われます。
 私の父と田中政男先生は、超教派の働きで全国を巡回していましたから、三位一体を信じ、認めていました。しかしルーツとなった、穐近先生の信仰の根底は、「ワンネス信仰」でした。図にするとこうなります。

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 子が父であって、子が聖霊であり、「子が神そのもの」という図式になります。そうなると、三位一体は完全に否定され、聖書の神観は、全く異なるものになります。

 神がもしもお一人だけで唯一ならば、神の愛はどこから生まれるのでしょうか。愛は、お互いのコミュニケーションの中から生まれます。神さまが三位一体であり、お互いに完璧なコミュニケーションを保っておられる結果として、完璧な愛が流れているのです。もしもお一人であって、それがすべてならば、そもそも隣人愛という側面は生じえないはずです。
 しかし、この図式はワンネスに限ったものではなく、ある時は父が中心になったり、聖霊が中心となって他の位格が薄れる傾向も生じます。三位一体は偏らないで神に向き合うために、最も重要な真理です。
 日本の教会の多くは三位一体を理解しています。しかしながら、聖霊の働きはあまり認めないです。イエスさまの名の権威も強調されず、ただ、父なる神さまだけがクローズアップされたりします。
 逆に聖霊の働きを重んじる派は、聖霊だけが重んじられ、あたかも聖霊だけが唯一の神であるかのように、父なる神や子なるイエスさまの存在が後ろに引き下がる傾向も否めません。
 私たちは、しっかりと三位一体なる神さまを中心に捉えて、イエスさまにも、聖霊さまにも、等しく呼びかけるならば、三位一体なる神の偉大な祝福を受け取ることができるはずです。祈りを受け取り、答えて下さる方は、「父なる神さま」です。

 祈りは、父なる神をしっかりと意識することがたいへん重要です。ある神学者が次のようにまとめていました。

 “イエスがまず教えられたことは、神を父と呼ぶことであった。我々も「父よ。」とか、「天にいます父よ。」と声に出して語りかけることはできる。けれども、親しい関係を感じ、揺るぎない信頼関係を持って、「父よ。」と呼びかけているとは限らない。しかし我々が父に対して親しみを持ち、揺るぎない信頼の土台を持てるのなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきても、ぶれることなく、堅く立つことができる。”

 私たちが父なる神さまを「アバ!」と呼ぶことができるようになったら、人生、何が起こっても怖くないのです。マタイの福音書十八章十九、

『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。』

 私たちが心を一つにして父なる神さまに祈ったら、祈りは答えられます。その条件が、

『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」』

 イエスさまがおられる中で、「父なる神さまに祈る」なら、父なる神さまは祈りに答えてくださいます。これはイエスさまご自身が、弟子たちに伝えた真理の奥義です。

 私たちは単純に、「イエスさま!イエスさま!」と祈り、それを良いことだと信じてきました。しかし対象がイエスさまで、ゴールもイエスさまになると、真の神に祈っていないことにもなりかねません。
 祈りがどのように機能するのかをしっかりと見直し、正しく祈り始めるならば、今後、どんなことがあっても揺るぎなく、堅く信仰を保つことができると信じます。
 私たちの信仰の土台に欠けがありましたが、主はそれに気づかせ、助けてくださいました。すばらしいですね。今後も続けて、欠けがあったら気づかないといけないと思います。それらを修復していく時に、真の祝福がやって来ます。

 私もこの原則と欠けに気づかされて、家内のためにも祈るようになりました。その結果、祈りが神に届いたのではないかと思っています。家内が現在生きていることは奇跡としか言いようがありません。今週もまた病院に行かなければいけないので、ちょっと緊張しますが、今までは元気です。これからも奇跡が続くよう、是非とも、お祈りをいただきたいと思っています。

 最後にお祈りして、このメッセージを終えたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、あなたをアバ父と呼ぶことができますことを、心から感謝します。今日、私たちはイエスさまの名前で集まりました。心を一つにして集まっています。「その中にわたしもいる。」と語ってくださり、心から感謝いたします。
 私たちはイエスさまの愛の中で、アバ父なる神さまのみ前に出て、「アバ、父よ」と祈ることができる特権を、心から感謝をいたします。
 アバ父なる神さま、私たちは心を一つにして、あなたに祈りをささげます。主よ、どうか私たちの祈りに答えてください。私たちには多くの祈りの課題があります。祈りを受け取り、答えを与えてくださる方は、父よ、あなたです。私たちはあなたを「アバ父」と呼びます。聖霊さま、それを助けてください。
 家で聖餐を持つことを許されて、心から感謝いたします。聖餐式を通して、新しい契約を受け取り、アバ父なる神さまの元に出ることが出来ますように。この困難な時期を乗り越えさせて下さい。
 七十年間、新城教会を守ってくださり、心から感謝いたします。土台をさらに強固にし、主に仕え続けることができますように。
 尊いイエスさまのお名前を通して、この祈りを、父なる神さまを「アバ」と呼んで、祈りを託します。アーメン。

 三位一体なる神さまに、大きな拍手をおささげいたしましょう。ハレルヤ!