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「永遠に生き、歴史を作り出される神」

2020年8月2日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ヨハネの黙示録22章13節【新改訳2017】

『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」』

 ハレルヤ!感謝します。今日は二回の礼拝でメッセージを語らせていただく機会が与えられましたことを、心から感謝します。八月に入り、梅雨もあがって、今日は良い天気の元で、皆さんとともに神さまの前に出ることができて感謝します。

 新城教会では、緊急事態宣言が解除されてから、二部制礼拝が続けられております。感染者が少ない時期がしばらく続き、そろそろ一部制に戻して、皆さんが一同に会する礼拝を持てるかなぁと期待していたのですが、七月後半から感染者が一気に増えてきて、もうしばらく二部礼拝を継続していくしかない状態であります。愛知県では一昨日(七月三十一日)に百九十三人と、過去最高の感染者を記録いたしました。どんどん感染者数が膨れ上がっているので、心配な毎日であります。四月、五月の緊急事態期間中に愛知県で最多だった日は、二十一人でした。今は感染者数でははるかに多い現状です。全国的にも同様の状況で、行政の対応も移動自粛や営業時間短縮など自粛要請に向けた言及がでてきており、社会全体に萎縮ムードが拡がってきています。本当にこのまま行くと、またあの緊急事態宣言が再来するのか、「もう勘弁して下さい」というような今日この頃であります。

 また追い打ちをかけるように、先週は私たちにとって悲しい出来事がありました。とりなしのライングループではすでに報告されていますが、私たちと本当に親しい関係であるヤキマのジョー先生の教会の一人の姉妹でありますジョイさんという方、この姉妹は、九十年代になりますが、新城教会では英会話クラスをやっていまして、多くの人たちに英会話を習っていただいて、それを通して神さまのことを伝えるということがなされていたのですが、その時に私たちと一緒に働いてくださっていた方なのです。僕もとても親しくさせていただいて、英会話クラスも一緒にやっていましたし、彼女はスペイン語ができるので、インターナショナルの働きも一生懸命やってくださっていました。そのジョイさんのご主人であるダンさんがコロナにかかって、危ないところを何日間か通られて、私たちも祈っていたのですが、昨日遂に召されてしまったというニュースが飛び込んできました。本当にショックでした。ぜひ、みなさんでジョイさんと二人の子どもたち、ヤキマ教会のために、この悲しみから立ち直ることができるように祈っていただきたいと思います。

 このように私たちにとってコロナ問題は大きくのしかかっているのですが、考えてみますと、前回の緊急事態宣言よりもまだ良いなぁと感じるところもないわけではなくて、申し上げたように日本では毎日多数の感染者数があるのですが、でも死亡者数は前回の緊急事態宣言の時よりもぐっと下がっています。前回、最多では三十一人、一日で亡くなられたと記録で残っていますが、でも今は亡くなる方はそんなに多くない、多くて五、六人くらいです。感染者が格段に多いことを考えると、亡くなられる方は随分減ったのです。

 先ほども典子さんがおっしゃっていましたが、およそ百年前にスペイン風邪が世界的に流行しまいた。その当時、世界人口が十八億人くらいだったと言われていますが、そのうちの約五千万人が亡くなったといわれています。それに対して、今コロナで亡くなっているのは世界で六十八万人くらいということであります。
 今、世界中で様々な人たちがいろんな角度からウイルスと戦っているわけですが、数ヶ月前の状況と比較しても、今は被造物の管理という点で人間の本領が発揮されている。今まさに世界的な流行が起こっている中で、ある意味で人間の管理能力が試されている、そういう時であります。私たちはクリスチャンとして、この世界で生かされているわけですけれども、私たちは祈りを通して、世界の人々と共にコロナの問題に対して戦っていかなければならないと思います。毎日世界宣教とりなしの祈りのLINEグループにニュースが届けられていますが、是非みんなで祈っていきたいと思います。

 今日は先ほど上條先生にお読みいただいたヨハネの黙示録の二十二章十三節

『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」』

 このみことばの中から、「永遠を生き、歴史を作り出される神」というタイトルを付けさせていただきました。
私たちが信じている神さまは、天地万物を造られた神さまです。この聖書の初めのみことば、創世記一章一節には、

『はじめに神が天と地を創造された。』

と書かれています。聖書の神さまはどういう神さまかというと、時間を超越された神さまであります。聖書の書き出し、『はじめに神が天と地を創造された。』このことばには、聖書全体を解く鍵があると言う人がいるくらい重要なことばです。
永遠の世界が、この天地が造られる前、神さまが存在されていた世界であります。
 黙示録のみことばにも、神さまは『わたしが初めであり、終わりである。』と仰せられ、神様には始まりも終わりもない。私たちの時間の概念とは全く違う、それを超越した方である、そのような概念があるわけです。ですから、神さまが天と地を造られた時に、まず、「はじめ」ができたということです。「はじめ」ができた時から、この世界に時間が動き始めた。そして、光と闇を造られて、「朝が夕があり第一日」と書かれていますが、朝と夕とがローテーションしていくように神さまはこの世界を造られました。昼と夜が交互に回っていくということはまさしく時間が流れている現象ですね。
 このように「歴史」というものは、他でもなく神さまがスタートさせたことを聖書は告げているわけです。神さまがすべての発端であり、また源であって、動機である。
 人間は神さまの計画を予め知ることはできないですし、また神さまを出し抜いて人間が何かをするということもできません。いかなる場合でも神さまは「はじめである」ということを、聖書を見る時に知ることができます。

 「神」という存在は、人間の歴史の中である時、「神」という存在を探求し始めて、人間の想像力の結果「神」というものが世に現れたという、宗教的な存在としての「神」が本当の神ではないのです。聖書を見ると、「はじめに」神さまがおられた。「はじめに」神が天と地を創造された。そして私たちも神さまによって造られたから、私たち人間は神さまを必要とし、神さまを捜し求めて、神さまに頼る者として存在している。だから、私たちは神さまがなければ生きていけないように造られているんだと、聖書は私たちに教えているわけですね。
 そして、神さまは全世界を創造されたことを通して、私たち人間にご自身を示された。また聖書のみことばを通して人間に語りかけられ、み子イエス・キリストの十字架によって人間を救われた。これはすべて、神さまご自身側から出ていることなのです。だから人間側が、いつしか、神さま必要なんじゃないかなぁと思って、探求し始めて編み出された神々、編み出された宗教というものと、聖書が語っている神さまは全く逆なのです。人間側から出ているか、神さま側から出ているか。全く別方向なのです。

 ローマ人への手紙十一章三十六節【新改訳2017】、

『すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。』

 すばらしいみことばでありますが、時間は神さまがこの世界に造られた法則であり、そして私たちはその法則の中で、与えられた時間を充分に活かして、神さまの前に生きていかなければならないわけです。

 エペソ人への手紙五章十六節【新改訳2017】、

『機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。』

 このみことばで「機会」と訳された言葉の原語は「カイロス」という言葉です。ご存じの方も多いと思いますが、ギリシア語では、「時間・時」を表す言葉として、今ここに「機会」と訳されている καιρός (カイロス)と、もう一つ χρόνος (クロノス)の二つがあります。
 カイロスは、特定の「時刻」、そういうものを表します。そして後者のクロノスは、抽象的な概念としての「時間」というものを表しています。
 「クロノス時間」として、過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間を私たちは認識するわけですが、それに対して、私たちが「カイロス時間」として、私たちの人生の中に現される機会、これはある一瞬とか、私たちが主観的に感じ取る特定の時、時間というものを表す、内面的な時間というものを表すということであります。

 新城教会にとって、二〇二〇年というのは、ある意味ではカイロス時間ですよね。宣教七十周年という、聖書的に意味のある、特別な時間というふうに私たちは受け止めて今日までこの年を歩んでいるのです。
でも宣教七十周年の、今まで歩んできた七ヶ月ですが、この期間というのは、ある意味で私たちが思い描いていたのとは全然違う形で今まで来ているわけです。

 その一つは、昨年秋から突如始まった享子さんの闘病生活であります。主任牧師の奧さん、享子さんが、病であるということが急に明らかにされて、本当に晴天の霹靂であったわけです。これまでその病気との戦いがずっと続けられているわけです。
 私が順先生ご家族の皆さんの、これまでの戦いを語るべき立場にある者ではありませんが、医者から命のタイムリミットが示されたなかで、それを心に据えつつ、病との戦いを繰り広げてきたわけであります。順先生、享子さん、堅志君、里辺架さんご家族が実際に取った行動を見ながら、彼らがとても慎重に、そして真剣に、本当に与えられた時間を充分に生かして、現状を正しく把握し、その中で神さまが何を望んでおられるか、神さまの導きを探し求め、そして最善の方法をとることに徹しておられたということを感じます。
 一般的な医療的な見方からいくと、この病気が発覚した時に、多くの人が取る行動は、発見された時点で一刻も早く、具体的な治療に踏み出していく、具体的に言うと抗がん剤治療とかそういったものでありますが、僕だったらきっとそうしていると思います。でも順先生ご家族がとった経緯というのは、それとは少し違ったものでありました。それは薬を始めとする医療行為に頼らなかったという意味ではなく、それ以上に、今、神さまは何を望まれているのかということを真剣に求めた。まさにカイロスを探し求めていくという歩みだったと思います。本当に一日一日、いや一刻一刻、まさに命のかかった綱渡りのような状態で、ひたすらに主を求めて、ちょうどヤコブがヤボクの渡し場で一晩中、神の使いと格闘して祝福を勝ち取ったという記事がありますが、そういうような状態ではなかったかなと思います。そんな体験をずっと過ごされてきたわけですね。

 さらに二〇二〇年二月頃から、世界中を揺り動かしたコロナの問題が大きくのしかかって、教会にも影響を与えるようになったわけです。これも大変大きな問題で、教会の働きも全て停止するようなインパクトあるものだったわけです。今でもこの教会の働きはいろいろと制限が加えられて、いつ元の状態に戻ることができるかも分からない状態が続いています。
 そういう中で、毎週変化する状況をふまえつつ、最もタイムリーな対応策を取っていくことができるようにと、私たちは祈りと共に探し求めてきたわけであります。それが七ヶ月間、続いています。

 今、享子さんの病は寛解に向け進んでいます。本当に不思議なことに、神さまのみわざが現されている。そして、考えてみると、コロナウイルスが日本で猛威を振るう最中に、連動するかのように神さまのわざが現されていることを見ることができるわけです。
 これは、最近の礼拝の中で順牧師が大きく取り上げておられる大切なテーマです。ネットでの礼拝が四月から始められ、それと同時に聖餐式が家で持たれるようになったことと、癒やしが連動していることです。詳しいことは七月十二日と、先週の順牧師の礼拝メッセージで触れられていますので、ホームページ等でご覧いただければと思います。

 イエスさまの十字架前夜、いわゆる最後の晩餐が持たれました。これは旧約聖書の時代に、モーセによって率いられたイスラエルの民が、エジプトに災いを下される主の前で、主の命令により初めて過越の食事を持った。子羊を殺して、その血を門柱とかもいに塗り、またその肉を種の入らないパンとともに食べた。それをイエスさまは最後の晩餐において昇華され、ご自分が今から成す十字架の贖い、そしてそこでご自分が罪のための生け贄となってくださるということを象徴するものとして、種なしパンとぶどうジュースを弟子たちに分けられた。そして世界で初めての聖餐式がそこで持たれました。それは最後の晩餐の時に持たれたのですが、食事そのものも聖餐の一部であり、主との新しい契約を結ぶ意味を持つ行為、ということをイエスさまはそこで初めて表されたわけです。
 その後の初代教会でもイエスさまの教えが忠実に守られて、宮で礼拝をし、その後、家で聖餐式を食事と共に持ったことが記されている。その事実に基づいて聖餐式が行われるようになったということですね。

 そして享子さんの治療のための薬も口から入りますので、聖餐式の間に、食事と共に祈りを持って服用することを始めたというのです。それがコロナ禍に祈りの中で示された信仰の行為だった。極端な意味では、これが治療薬の効果を劇的に高めて享子さんの病状が回復に向けて大きく動いていくということに繋がった、そういう主のカイロスがそこに現されたということであります。

 この社会を震撼させているコロナ禍でも、問題の中暗闇のような状態にあっても、時期に叶った神さまの計画というものがあり、そして私たちに祈らせ、戦わせることを通して神さまのみ業・勝利へとつながる、そのようなことが現されているわけですよね。本当にすばらしいことだと思います。神さまに本当に感謝したいと思います。

 新城教会宣教七十周年、リバイバル・ミッション五十周年、私たちは主と共に歩んできて、そして戦いの中で、数々の大きなみわざを見せていただきました。七十周年記念集会で七十周年を振り返るスライドを皆で見、同時に多くの兄姉の生きた証しを聞きました。この七ヶ月くらいの間に、20名以上の兄姉が証しをしてくださいましたが、私もほとんど全ての方に、「証しをしてください。」と頼みました。お願いをするときにはちょっと申し訳ない気持ちもありながら頼むのですが、お一人お一人の証しの中に神さまがこの教会に現してくださった恵みのエピソードを聞くことができて、大きな励ましとなったわけです。

 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」という詩篇百三篇のみことばがありますが、私自身もそういう証しを聞きながら、自分が過去に神さまによって導かれて今日まで来ている恵みを考えさせられたわけです。
 私は高校一年の時に救われたのですが、子どもの時から日曜学校に来ていまして、そして一旦離れて、中学三年の時に姉が教会に導かれたことを通して、また教会に来るようになりました。楽しいなぁ、すごいなぁ、いい所だなぁと、礼拝に毎週のように来ていたのですが、だんだん神さまのことが分かって来て、神さまを信じようかという思いにもなったのですが、優柔不断で物事を決められないところもあるので、バプテスマを受けてクリスチャンになることをためらっていました。いつも教会に来る度に、いろいろな人から責められる、ということもないですが、「バプテスマ受けたら?」と言われて、「いや〜、まだまだ。」とかわしていたのですが、でも最後は明先生に、「あんたバプテスマ受けなさい。今日バプテスマを受ける人がいるから、今日受けなさい。」とか言われて、本当に土俵を押し切られるようにして、「わかりました。」とバプテスマを受けてクリスチャンになりました。
 そんな感じだったので、クリスチャンになって、「救われました!」とか、「あぁ、本当に嬉しい!」とか、そういうことは最初感じなくて、多くの人がクリスチャンになると、「救いの確信をいただきました。」とか、「喜びが内側からわき上がってきます!」とか、そういうことをおっしゃるのですが、自分はそういう実感は全くありませんでした。「大丈夫かな?俺。」とか思いながら、「このままクリスチャンで一生やっていけるだろうか。」とか、そういうことを思っていたのです。そんなとき、多分クリスチャンになったその週か、次の週だったかと思うのですが一つの事が起きました。
 中学時代の同級生の女の子から連絡がきまして、その女の子は僕と別の高校に行っていたのですが、電話をして来て、「私の友達にボーイフレンドを探している女の子がいるんだけど、雅也君、どう?」と言ってきたわけです。人生十五年、イコール彼女いない歴だったので、ぱぁーっとなって、チャンスだと思いました。
嬉しくなったのですが、でも同時に、なぜか心に不安が出てきました。なんでかな、優柔不断だからかなぁ、彼女というものを持ったことがないからかなぁとか、いろいろ考えました。「一回会ってみない?」と言われたのですが、ずっと、「うーん」とか言って、十五分くらい電話でもじもじしていたら、その内友達も嫌気がさしてきたのか、「もうやめたら?」と言ってくれて、「うん、それじゃぁやめる。」と言って、やめました。それで僕は彼女を得るチャンスをなくしてしまったわけです。けれども、僕が高校の時は、高校生の休日は日曜日のみでした。今は土日と休みです。それで、救われてから振り返ってみると、「あの時聖霊さまが助けてくださったのかなぁ。」と思うのです。聖霊さまが僕に、「だめだよ。だめだよ。そっちに行っちゃったら礼拝に出られなくなるでしょ。」と、僕の中に不安を吹き込んでくださったのかなぁと思うのです。僕は訳も分からず断ったのですが、それで礼拝を休まずに参加することができて、一年後くらいにハッキリと救いの確信をいただくことができました。本当に神さまの助けに感謝しています。

 そのようにして僕の人生、いろいろと振り返ってみても、要所々々で神さまが助けてくだいました。
献身へと進むときにも、実は高校出るくらいから献身したかったのですが、いろいろな事情で六年くらいその機会がありませんでした。でもある日突然、みことばが来て、「あなたはどのような時にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の勤めを十分に果たしなさい」という第二テモテ四章五節が与えられて、「来年から教会のスタッフになろう!」と、前触れもなくふっと決断して、そしたら不思議と条件が整って、翌年からスタートすることができました。その年は九二年の霊的戦いが始まった年でありました。ですから、その機会を逃さずに、そのように導かれたということは、僕にとってのカイロスだったなぁと、神さまに感謝しているわけですね。本当に今日、ここにいらっしゃる皆さんがカイロスを受け取る、そんな時になったらいいなぁと思います。

 今年の初め、新年礼拝で、順先生はこんな話をされました。ちょっとホームページに載っていたものから抜粋して読んでみたいと思います。

 “私たちも、「宣教七十周年」ですが、ある意味、七十年経った今が、大きな岐路であり、新たなる戦いの火蓋が切られる時である事を、しっかりと受け止め、理解しなければいけないと思います。現在、起こっている様々な戦いも、宣教七十周年と同期しているような気がします。そして、祈っている中で与えられたみことばは、エレミヤ書二十九章十節〜十一節、
 『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』“

 そして先生は続けてこう話されました。

 “私たちが過ごしている時間は、不変のものではありません。昨年も話したのですが、時間とか空間は物質です。それが今日の物理学で分かってきたわけです。私たちの時間は、過去→現在→未来に流れる、と考えますが、これも神が創造された物質そのものです。空間も神が造られた作品です。被造物です。ということは、時間も私たち管理人に任されているものであると信じます。
 霊的存在は、私たちのように、過去・現在・未来に囚われずに、過去も現在も未来も、縦横無尽に動き回れる存在であると思います。悪魔は過去に犯された罪や問題をうまく駆使しながら、我々の未来に、障害物を置くのではないかと思われます。
 本来は、二〇二〇年に、神さまの幸いな計画があって、私たちはそこに向かって歩んでいくはずです。しかし、悪魔は二〇二〇年の道のりのただ中に、障害物を置いて苦しめようと待っているような気がするのです。
 しかし、災いではなくて「将来と希望だ」と聖書は告げています。私たちは未来に置かれている、暗闇の力を打ち破り、神が与えたゴールに直結しなければいけないと思います。”

 このように語られています。そして今年、順先生の礼拝メッセージのタイトルには全て、「宣教七十周年-二〇二〇 明日に向かって『将来と希望』」とかけられています。
 私たちは神さまの時を受け取りながら、悪魔の時を排除して進んでいかなければならないわけです。エペソ人への手紙四章二十七節には、このように書かれています。

『悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 ここにも「機会」という言葉が使われていますが、この言葉は、原語では先ほどのκαιρός (カイロス)ではなくて、Τοπον (トポス)という言葉が使われています。これは、場所・空間・地点、英語でいうと「スポット」という意味合いのある言葉です。これが悪魔にとっての「機会」だというのです。私たちにとっては、機会を失い、悪魔にとって居場所を、スポットを、空間をもたらすということがあるということです。「罪」によってそれが現れていくということであります。

 イエスさまの十字架を信じ、神の子どもとなった私たちは、この人生に、「はじめに神さまが」と言われた神さまの計画が現される、神の支配が与えられます。神さまが私たちの人生に良い計画を現してくださって、良い実が結ばれて、そのようにして私たちの人生に神さまの栄光が現されるようになっていくわけです。本当にすばらしい、エキサイティングな歩みが神さまに寄り頼んで進んでいく時に私たちの人生にもたらされていきます。
 しかし悪魔に機会(トポス)を与えること、これは罪を通して起きることですが、栄光ある神さまのものとなった私たちの一部が悪魔の手に落ち、そしてそこから悪魔は私たちの中にカイロスが実現することがないようにと、様々な邪魔をして影響を与えてくるわけです。ですから私たちは神さまに立ち返って、この悪魔に立ち向かわなければならない。そして主に寄り頼んで、みことばに寄り頼んで歩んでいく時に、悪魔に取られた私たちの時間が回復されていくということであります。

 七月、この教会ではバプテスマがありました。合計五名の方がクリスチャンになりました。本当にすばらしいことであります。コロナ禍の元でも主は働いておられるわけです。実は来週の八月九日にも、一人の人がバプテスマを受ける予定で準備しています。川口さきさんという姉妹です。本当に感謝なことですよね。この時期にバプテスマを受けられるというのは、やっぱりいろいろと不安もあるのではないかなぁ、大変じゃないかなぁと感じるのですが、ぜひ皆さん、無事にバプテスマを持てるように今週祈っていただきたいと思います。
 あまり詳しいことは言えないのですが、彼女が救われてバプテスマを受けることになった経緯にも、コロナ禍にきっかけがあるのです。コロナに対する社会の憂いが彼女を取り巻く環境の中に変化を与えて、彼女が主の元に導かれるきっかけとなりました。そしてバプテスマを受けることを決断させたのです。
 コロナの問題は生半可ではないわけですが、このことを通しても神さまは動かれ、私たちにカイロスを与え、私たちを動かしてくださるのです。神さまが、『すべてのことを相働かせて益としてくださる』というみことばがありますが、本当にそのようなことが起こったわけですね。

 この二〇二〇年前半、教会にとってある意味で手足をもがれたような期間だったかもしれません。礼拝をはじめ集会は全てリモート、個人伝道も密を避けるために十分にできない、とりなしの祈りもステイホームでできない、そして伝道集会は全て中止。教会もミッションもそんな中だったわけですが、しかし、神さまは不思議な方法で、そのような中から救われる魂を起こしてくださっています。本当に感謝です。また享子さんの病にも、主が奇跡的なわざを現し続けておられる。
 二〇二〇年後半に、さらに神さまが私たちの中にカイロスを現してくださるように、そしてお一人お一人を通して、神のわざがさらに現され、この地に神の国がもたらされていくように、そして悪魔にトポスが渡ることのないように、お互いに戦い、前進していきたいと思います。

 最後になりますが、我が家では順先生・享子さんご夫妻をお手本に、夕食時に聖餐式を持つようになりました。家内が準備してくれています。お祈りをして、パンを食べて、そして、私も処方箋があるので、神さまに祈りながら食事の前に薬を飲んで、食事をして、そしてぶどうジュース飲むことを実践しております。簡単にできることですので、皆さんも真似されたら良いと思います。神さまに期待して、さらに神の国がお一人お一人の人生を通して現されることを求めて前進し続けていきたいと、そのように思わされています。

最後に一言お祈りします。

 ハレルヤ、天のお父さま、あなたのみ名をあがめて心から感謝します。今日まであなたが私たちを支え、導いてくださる、このコロナ禍において私たちは様々な困難の中に、またある意味で試練の中におかれましたが、主が助けてくださって、今日まで導いておられることを心から感謝をいたします。
 どうかここにおられるお一人お一人が、この時、大変な中で、あなたを求めて、主よ、あなたのカイロスを、その歩みの中に受け取り、またこの地に神の栄光が現されるために用いられていくお一人お一人となることができますようにお願いいたします。今困難な中にあるすべての兄弟姉妹の上にカイロスが特別今日示されますように。
今から持たれます祈り、また聖餐を豊かに祝福してくださいますように。すべての栄光をお返しし、感謝し、尊きイエスさまのみ名によって、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。