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「主は生きておられます」

2020年6月28日(日)
新城教会牧師 上條実
ピリピ4章6節~7節

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 ハレルヤ!今日も新型コロナウイルスのため、二部制の礼拝になっております。まだインターネットにて礼拝参加されておられる方もおられる状況ですが、皆さんと顔と顔を合わせて礼拝ができるようになったことは心から感謝します。早く終息し、皆一つ所に集まって礼拝し、大声で賛美し、ともに祈り、お交わりが出来たら良いと願っております

 先週の礼拝後、素晴らしいプログラムがありました。それはY兄とA姉の結婚式が行われました。お二人のこれからが主にあって守られますようにお祈り下さい。

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 彼らは名古屋市に住居を構えられるそうです。ぜひお祈り下さい。それでは今日は、先ほど読んでいただきました、ピリピ四章六節~七節のみことばから「主は生きておられます」というタイトルでみことばを学んでいきたいと思います。私はよくリビングバイブルを読むのですが、ピリピ四章六節~七節をリビングバイブルでお読みさせていただきます。

『何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。神様にお願いしなさい。そして、祈りに答えてくださる神様に感謝するのを、忘れてはなりません。そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神様の平安を経験できます。キリスト・イエスに頼る時、その平安は、あなたがたの心と思いとを静め、安らかにしてくれるのです。』

 リビングバイブルは現代のことばで書いてありますので、分かり良いのですが、ここにとても魅力的なことばが今ありました。

『何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。神様にお願いしなさい。』

というのです。何でも祈ったら答えてくださるというのです。私たちはいつも祈っております。そして祈りが答えられて、素晴らしい祝福を沢山頂いております。私たちは今日真の神であり、すべての人の救い主であられるイエス・キリストを礼拝するため。主の名を賛美するため集りました。主は生きておられる。父なる神さま、イエスさま、聖霊さまがいつも私たちと共にいて、いつも働いてくださることを今日もう一度学んでいきたいと思います。

 イザヤ五十五章十節~十一節に、こんなみことばがあります。

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 というみことばがあります。今朝も雨が降りましたが、主が語られたみことばは雨や雪は天から降って来て、地をうるおし、穀物を成長させ、農夫には種を与え、空腹な人にはパンを与えます。聖書も同じだとこのみことばは言っています。雨などを送り出せば必ず実を結ぶ。聖書に書かれてある、主が語られたみことばは必ず成就して下さるとあります。

 最初に読んでいただいたピリピ四章六節には『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、』とありますが、『何も思い煩わないで、』ということはとても難しいことです。何も思い煩わないで生活できたら、なんと幸せかと思います。私たちは毎日平穏無事で、楽しく、喜びの生活を送りたいと願っていますが、歳が重なれば重なるほど毎日心配事、重荷が増してきます。

 いつも家内の為にお祈りいただいて感謝いたします。今家内は、治療の為に二週間前から入院しております。やはり私は家内のことを考えると心配し、「癒されたらすばらしいのに・・・・」と毎日毎日心配し、主に願っています。詩篇六十八篇十九節に、

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

このみことばから言うと、私たちは心配したり、思い煩ってはいけないということではありません。このみことばから言うと、『日々、私たちのために、重荷をになわれる主。』とありますから、日々、私たちには重荷があるが、その心配事や重荷を主が担ってくださるというのです。先ほどもリビングバイブルでお読みしましたがピリピ四章六節(リビングバイブル)、

『何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。神様にお願いしなさい。そして、祈りに答えてくださる神様に感謝するのを、忘れてはなりません。』

とあります。私たちの心配事を、どんなことでも祈りなさいとあります。真の神であり、私たちの救い主であるイエスさまに何でも祈ることができるということは、これは本当に感謝なことです。自分で悩み、ずっと心に溜め込んでいたら、とても精神的に辛いし、苦しい事です。しかし私たちクリスチャンは特権として生きておられる主。イエスさまに祈ることができる。それも制限なしに何でも祈ることができるとあります。しかし祈って何でも答えられたら良いのですが、なかなか答えられない祈りもあります。私たちは新型コロナウイルスが早く終息して、「三密」なども気にせずに、今まで通りに礼拝ができたら良いのにと思います。思い切り声を出して賛美し、祈ることができたら何とすばらしいと思います。またともに食事をして、お交わりができたらと願って祈っています。しかし祈りの答えを頂くことができていません。このまま生活様式が変わってしまうのではと思ってしまいます。

 また私たち、病気。また経済的なことなど様々な心配事、願い事があります。「祈ったら答えられる!」そのみことばを信じて祈ってはいますが、なかなか答えられません。なぜ答えられないのかな?と、思う時があります。

 比べてはいけないのですが、滝元順牧師の奧さまの病気も、ビックリするほどの奇跡が起きつつある事を、先週の礼拝で伺いました。人間的にはありえないことが起こっています。病気の数値が正常値になったとお聞きしました。ここで気を抜くことなく祈らなくてはいけませんが、薬の効果だけでなく、確実に祈りの答えであると信じます。しかし自分の家内に目を移せば今も入院していると考えると、やはり心が重たく、なぜ主は私の祈りに答えて下さらないのかと不平を言ってしまう事もあります。そんな時第二コリント二章十一節

『これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

そして第一ペテロ五章八節~九節を教えてくださいました。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

私たちはサタンに欺かれないようにしなくてはいけない。サタンは策略を巡らせて、私たちが主から目を離すように、不信仰をいだくように、様々な手段を使って主から離れていくように仕向けて来ます。祈りが答えられないと「おまえの信仰が薄いんじゃないの?愛されていないんじゃないの?」そんな声が聞こえて来ます。しかし今日、私たちは霊的戦いをしっかり意識して、悪魔に対抗して勝利を頂かなくてはなりません。先ほども読みましたピリピ四章六節(リビングバイブル)に、

『何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。』

とあります。策略で心配をさせてきますが、心配は主にゆだねて、大胆に祈り、その祈りの答えを待ち続けたいと思います。ヨハネ十五章七節には、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

とあります。すばらしいみことばです。ここに、『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でも』とあります。まずは主にとどまることが大切です。そして「何でも」です。何でも主に祈ったら、その祈りは答えてくださるから祈れとみことばは言っています。私たちは蓋を閉めて諦めてしまっている祈りの課題。人間的に考えたなら絶対に不可能なことでも、イエスに目を向けて、祈りの答えを頂きましょう。

 先日ある牧師先生のブログを読んで、私はすごく励まされました。祈りに対する神さまの聞かれ方が三種類あると書いてありました。その第一番目、一つ目は、これ当たり前のことですが、

「❶Yes!…‥祈りの通りにしてあげるよ!」

という事でした。祈ったらすぐ答えられるというのは、本当に素晴らしいことだと思います。このことを読んだとき今からだいぶ前の事になりますが、一つの出来事を思い出しました。それは子どもの集会を畳の部屋で行っていました。賛美をして、そして「みんなしっかり座って、お祈りしましょう」と言いましたら、一人の女の子がしっかり座らないのです。その子にどうしたのかと聞くと、「足を怪我して、痛くて、痛くて座れない。」と言いました。そして半べそをかきながら「明日運動会なんだけど、痛くて動かすこともできない。走れないし・・・」と言っていました。「じゃぁイエスさまに祈ろうよ。」と言って、私は本当に短くですが、「イエスさま、この子どもの足が癒やされるように。イエスさま助けてください。お願いします。アーメン!」と言って、プログラムを続けていました。そしてメッセージの途中で、ふっと見たら、その座れないと言って、泣いていた女の子が正座をしてメッセージを聞いていました。「えっ!どうしたの?」と聞きましたら、「知らないけど治ってる。」主は祈りを応えてくださるのです。そして次の日彼女は、ニコニコして徒競走は何位だったとか、すべてのプログラムに参加できたことを喜んで報告してくれました。Yes!すぐ祈りが聞かれることは幸せです。

 そして、祈りの答えの第二番目は

「❷Wait! …祈りの通りにしてあげるけど、今じゃない。待ちなさい。」

ということです。伝道者の書三章十一節には

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・』

というみことばがあります。私たちは子どもがお腹がすいたと言っても、手を汚し、真っ黒い手のままでおやつや食事を食べようとしたら、「手を洗って来なさい。綺麗にして来てから食べようね。」とストップさせます。子どもの衛生上いくらすぐに食べたいと言っても、「今すぐには食べれない。手をキレイにしてから。」と待たせます。それと同じように、一番主の栄光が現される時に祈りを答えて下さるのが主です。「待ちなさい。」と主が言われる時があることを語ってくださることを聞いていただきたいと思います。

 そしてもう一つ、

「❸No!…‥I have more better plan for you.その祈りの内容はあなたにとって良くない。あなたのためにもっと良いことを計画している。それを受け取りなさい。」

とありました。「No!」だというのです。自分であれこれ考えて、「こうなったらいい!」と思って、私たちは祈ります。そして、「No!」となると、先ほども言いましたが「なぜ答えられないんだ?」と、落胆し、不信仰になり、悪魔の策略にまんまとはまってしまいます。不信仰を抱いてしまいます。しかしたとえNo!であっても、私たちは期待していきましょう。主は必ず、私たちにさらに優れた祈りの答えを用意していてくださいます。あなたに答えてあげるから忍耐を持って待ちなさい。忍耐が練られて品性を生むとありますが、主の大いなる主のみわざが、忍耐の中で大きな勝利を見せてくださることを信じます。そして忍耐の中で一番良いことをして下さるのです。

 しかしよく祈りのメッセージを聞く時に語られることが、自己実現的祈りは聞かれないと言われます。先ほど、主の祈りをささげた時、「みこころが天であるように地でもなされるように。」と私たちは祈りました。天におられる主のプランが、この地上でなされることが一番の安全です。祝福です。
 しかし知らない間に、「このように答えてほしい!」という願いが強すぎ、自分中心の思いを持って、「こうあるべきだ。」と私たちは願ってしまいます。自分の利益だけを考えて、願ってしまいます。しかし、私たちクリスチャンは、イエスさまが十字架に架かり、葬られ、三日目によみがえってくださったという、イエスキリストの犠牲の故に救われています。信仰というのは不思議です。普通は受けたら嬉しい。プレゼントされたら嬉しい。それが普通ですが、聖書はそうではないのです。使徒の働き二十章三十五節に、

『・・・・受けるよりも与えるほうが幸いである・・・・』

というみことばがあります。先ほども言いましたが私たちは受けることは嬉しいものです。私たちは受けることばかり考えて、与えるという事はなかなかしません。聖書は受けるよりも与える方が幸いである。と言っています。このみことばを思う時に、「良きサマリヤ人」の聖書箇所を思い出します。エルサレムからエリコへ旅をしていたユダヤ人が、強盗に襲われたとあります。強盗は、身ぐるみはぎ取り、あり金全部を奪い、殴ったり、蹴ったりして半殺しにし、道ばたに放り出して逃げて行きました。そこへ、ユダヤの祭司、今でいう牧師が通りかかりました。しかし道の反対側へ回り通り過ぎてしまったというのです。続いてレビ人(神殿で奉仕する人)今で言う教会スタッフが通りかかりました。しかし彼も祭司と同じように行ってしまいました。しかし日頃ユダヤ人に軽べつされていたサマリヤ人であり、一切交わりもしないサマリヤ人がたまたま通りかかり、旅人を見つけました。彼は気の毒に思い、心から同情したサマリヤ人は、傷口に薬をぬり、包帯を巻いて応急手当をし、自分のろばに乗せ、宿屋まで運んで、一晩中、看病してあげました。翌日宿屋の主人にデナリ二つを渡し、『あの人を介抱してあげてください。足りない分は、帰りに寄ってお払いしますから』と頼んだというのです。サマリヤ人は良き隣人として「受けるよりも与えるようにしなさい。」というみことばを実行しました。私たちは良き隣人として、与える器になりたいと思います。

 新城教会は今年、宣教七十周年を迎えます。今日の午後は「宣教七十周年証し会Vol.Ⅱ」が行われます。ぜひお時間をつくってご参加ください。インターネットでも配信します。今まで七十年間、主がこの教会になしてくださった素晴らしい祝福の証しを、六名の方がお証しくださいます。是非ご参加ください。何故今迄新城教会がここまで祝福を頂いたかというと、よくここで語られますが、一九九二年二月に聖霊さまが訪れてくださったからです。そして来週水曜日から七月になりますが、七月九日になりますと、霊的戦い開戦記念の日があります。この教会に聖霊が臨まれた後、霊的戦いの祈りが開かれました。そして戦い続けてきた結果、今の祝福があります。この聖霊の訪れと霊的戦いを考えるとき、
受けるよりも与えるほうが幸いだというみことばがあったからこそ、実現したと思います。それは何かというと、第二次世界大戦時には多くの諸国。特に東南アジアの国々に大変迷惑をかけました。多くの国を侵略してきました。特に韓国にはご迷惑をお掛けしました。しかし韓国の牧師先生が日本を愛して、何回も来て下さり、励ましメッセージしてくださいました。そして特別「祈り」について教えてくださいました。今ある韓国のリバイバルは早天祈祷会やか徹夜祈祷など、祈りによってリバイバルを勝ち取ったと語ってくださいました。祈りによって素晴らしい祝福頂いたとワクワクするような主が起こしてくださった奇跡の証しやメッセージを語ってくださいました。今までも祈ってきましたが、更に新城教会は祈るようになりました。そして新城教会が変わりました。聖霊さまが訪れてくださって、霊的戦いも開いて下さいました。韓国に私たちは多大な迷惑をかけたにもかかわらず、韓国からキリストにあって日本を愛して、多くの宣教師や牧師先生が新城教会に足を運んでくださいました。そのことによって私たちは祝福を頂きました。受けるよりも与えるとき大きな祝福がある事を知りました。自己実現的な祈りではなく、与える器になる時祈りを聞いて下さるのです。私たちは神の国の実現のため、主が栄光を受けて下さるように、主のみながあがめられるように祈り続けて行きたいと思います。


 一九九二年七月九日に霊的戦いが開かれました。その日はレッツプレイズという中高生の集会のチラシ配布の為に朝早く出かけることになっていました。しかし突如主が語って下さり、集合時間よりももっと早く教会に集められ、祈ってから出かけるようにとの事で、配布するスタッフが集められました。その中で、チラシ配布のために出かけて行く各学校のすぐ近くには、学校を束縛している神社とか寺がたくさんある。それも三百年、四百年と、その地域の人がずっと拝んでいる場所である。ただチラシ配布をするだけでなく、そういった神社仏閣にまず行って、そこに働く悪魔を打ち砕く祈りをしてからチラシ配布をするように。」と主に教えられ、皆で整えの祈りをし、また聖餐式をして出かけて行来ました。
 私は新城市の真ん中に豊川という川が流れていますが、その南側に位置する八名地区にある中学校にチラシを配布することとなり、私を含め三人の方々と出かけて行きました。そして中学校と小学校が同じ敷地にあるのですが、学校の敷地じゃないかと思われるような所に神社があり、後から知った事ですが、その地域の核となるような神社で、祭りがある所でした。
初めての霊的戦いの祈りでしたので、地域の人が生活の為に動き始める前の朝六時同時に各学校で祈りましょうという事になり、同時に祈りました。真剣に、「ここにいる悪魔が打ち砕かれるように!」と、初めてでしたが祈る事ができました。そして、チラシ配布をしましたが、いつもと違って、いつもよりチラシを取ってくれるという感触でした。そして数日後、レッツプレイズという集会の日を迎えました。なぜかその日は、私がメッセージをさせて頂きました。いつも語っているような言葉を、つたないメッセージでしたが、精一杯語らせていただきました。そして最後の決心の祈りの時になって、「目を閉じてください。」と言って、「今日イエスさまを信じたい人、手を挙げてください。」と決心を募りました。中高生はなかなか聞いているようで聞いていないようなところもあるので、いつもは全く手を挙げる方はいませんでした。だから私は常に「目を閉じてください。」とうながし、みんな目を閉じているので、「イエスさまを信じたい人は手を挙げてください。」と言って、誰も手を挙げはいなくても上げて下さった方がいた様に「ありがとうございます。」と言って、それが呼び水になってみんな手を挙げるような方法をとろうと思って構えていました。その日、イエスさまのみことばを普通に語って、「イエスさまを信じたい人、手を挙げてください。」と言ったら、なんと本当に驚きました。そこにいた人、ほとんどの人が「はい!」と、まじめな気持ちで手を挙げてくれました。今までになかったことが起こりました。ビックリしました。なんでこんなに違うのか!と思うほど、霊的に解放されて、人々の心が柔らかくなって、主は生きている!と感じました。その時、霊的戦いの祈りには力があることを知りました。

今日誰かに福音を伝えたり、教会や集会に誘おうとするとき、あなたも是非みことばの剣を持って、みことばを宣言して祈りましょう。私たちが宣言していく時、主が生きていて働き、祈ってきた方々が導かれ、救われていくことを信じます。

 また、皆さんの励ましになると思ってお証しをさせていただきたいと思います。

先週の午後の結婚式はとても祝福された時を持つことができました。そしてこの教会にもっと結婚され方々が与えられればとお祈りさせて頂きました。私たち夫婦は結婚して今年で三十九年を迎えました。私自身の結婚について証しをしたことはないのですが、私たち夫婦が結婚に導かれた証しをしたいと思います。
 私たち夫婦は一九八一年の四月に結婚しました。その数年前、学生時代から、今の岡本先生をはじめ、同じ年代の人が集い、夜いつも寝食を共にしていました。自宅に自分の部屋があるのにも関わらず、学校から帰ったら教会に集まりいつも交わりをし、教会に泊まって朝そこから学校へ行くという生活を送っていました。その交わりの中で時々恋話のようなことも話しました。誰が好きだとか、あの人は誰が好きみたいだぞとか、夜中までよく話していました。そんな中岡本先生をはじめ、私の弟も結婚に向けてがんばっていました。そして岡本先生ご夫妻はこの会堂で、献堂式をする前に、結婚式をあげました。しかし私はまだ結婚なんて考えられないなと思っていました。「あと二、三年先かな。」と思っていました。
 
 この会堂の献堂式は一九八〇年の八月十五日が献堂式だったと思うのですが、その献堂式の前日、韓国からチョン・ウンサンという先生が来られ、夜に聖会を持ってくださいました。私はその時、二階にある調整室で音響をしながら参加していました。チョン・ウンサン牧師先生はハガイ書の二章からメッセージして下さいました。韓国の先生でしたが日本語で、ハガイ書二章を初めから最後まで全部読んでからメッセージされました。しかし先生が中心に語ったみことばは二章九節でした。ハガイ書二章九節、

『この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。──万軍の主の御告げ──」』

 『この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。』以前の教会よりも、今度の会堂は祝福されると励ましのみことばを語ってくださり、素晴らしい聖会を持つことができました。

その時チョン牧師ハガイ二章全部読んで下さいましたが、ハガイ書二章十九節

『種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。』

 というみことばを先生が読まれた時、そのみことばが私の心に飛び込んできました。『きょうから後、わたしは祝福しよう。』というみことばを読んだ時に、不思議でしたが、「あっ!いい言葉だ!」と思いました。そして、『きょうから後、わたしは祝福しよう。』ということは、「明日だ。」と思いました。「明日いいことが起きるぞ!」と思って、次の日を迎えました。

 しかし次の日は教団のカンファレンスや、献堂式もあったので、忙しくて忘れていたのですが、集会と集会の合間に、浜松にいる姉が突然私の所に来て唐突にこう言いました。「おい、実。結婚のことどう思ってる?」と言うのです。「えっ?まだ二・三年はいいよ。」と答えました。すると「上條直美さんの事どう思う?」と言うのです。何を言うかと思いました。でも正直私は祈っていましたが、高嶺の花だろうなと思ったし、諦めておりましたが、「良いと思って祈ってるけどね。」とだけ答えました。すると姉は「じゃぁ決まりだね。」と言うのです。「何が決まりよ?」と言うと、「あんたの結婚。」と言うのです。「何?誰と?」と言うと、「上條直美さんと。」と言うのです。「えっ?なんで?」とビックリしました。姉は浜松で教会をしているのですが、当時うちの家内は就職のため東京から浜松に来ていました。だから私の了承もなく、家内に結婚の事を聞いていました。「実の事どう思う?」と聞いていたのです。そうしたら彼女のほうは、「断食して祈っていました。」と言ってくれたらしく、じゃあ実に聞いてみるという事で、私に聞いてきたのです。そして「今日集会が終わった後、話をしなさい。」と言われました。そして初めて彼女と夜に出会った時、何と言ったと思います?今になれば彼女に失礼だったと思いますが、「なんか私たち、決まったみたいですね?」と人ごとのように言って、結婚の話が始まりました。彼女とはそれまで二回しか話した事がありませんでした。しかしその前の日、『きょうから後、わたしは祝福しよう。』というみことばがあったから、私は結婚を承諾しました。主は不思議です。「きょうから後、わたしは祝福しよう。」というみことばがあったからこそ、結婚しました。みことばは生きています。みことばに従う時祝福を受けます。

 もう一つお証しをしたいと思います。我が家の次男の事ですが、彼は今東京でギターリストとして仕事をしています。彼は中学校に入ってから、非行防止というか、レッツプレイズのためにバンドを作りなさいという事で音楽を始めました。始めドラムがやりたかったみたいでしたが、先に寛太兄に取られて、残ったギターをすることとなりました。そして高校受験になって、すぐ近くの高校に入学しました。彼はソフトテニスに燃えていて、その高校がソフトテニスが強かったので頑張って勉強し、入部しました。しかしすぐに顧問の先生と大げんかをしたみたいです。それで「俺はやめる!」とあっさりやめてしまったみたいです。部活がなくなり時間ができたので、いつも教会に来てはギターを弾いていたそうです。そして彼は次第に、「将来ギターリストになりたい。」という夢を持ちました。私は初めて聞いた時、「やめろ!そんなの無理!」と、単刀直入に語りました。「絶対無理!たくさんの人がギターリストになりたいと思って頑張っている。成功するのはほんの一握りの人たちだ。無理だ。」と言いました。そうしたら彼はこう言いました。「求めなさい。そうすれば与えられるって言うじゃないか。反対しないで祈ってくれよ。」と言われました。彼は彼なりに真剣に祈り、ギターを練習していました。ある時、彼が高校を卒業した時だったでしょうか、ロン・ブラウンさんが新城教会に来られてコンサートをして下さいました。ロンさんとともに世界一流の方々が演奏してくださったのですが、そのリハーサルに、次男もいました。彼は前のほうで演奏をかぶりつきながら見ていました。私は後ろのカウンターにいてリハーサルを見ていました。リハーサルが終わった時に、次男がロンさんの所に行って、「ねぇロンさん、誰かアメリカでギターを教えてくれる人紹介してもらえない?」と尋ねました。するとロンさんは「居ませんね。」と、はっきり断っていました。私は後ろで、「やった!ロンさんありがとう!」と思うような気持ちでした。
 これで彼もあきらめてしっかりした仕事についてくれるのではと思いました。しかし次の日でした。ロンさんが興奮して私の所に来ました。そして、「昨晩コンサートを終えてメールを開いてみたら、ドック・パウエルという本当にすごい超有名なギターリストが「初めてだけれども弟子を取りたいので、誰か紹介してくれないか?」というメールが入っていました。もしよかったら次男を紹介していいですか?」と言われ、紹介してもらい、彼はアメリカに約二年間行き、帰国後東京の家内の実家に下宿させてもらいながら、バイトしつつ音楽活動をしました。不思議ですが、今ギターリストとして頑張っています。彼の今の祝福は祈りにあります。主が答えて下さいました。それしか考えられません。主は生きていて祈りを答えて下さいました。
 
 主は生きています。私たちは自分の思いでは絶対に無理だと思って、祈ることを止めてしまうかも分かりません。またふたを閉めてしまい祈る事を辞めてしまっていることもあります。今日不思議を起こしてください。見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだことのない主の祝福がありますように。私や家族に答えてください。また霊的戦いの祈りで勝利し、みことばを信じるときその通りになることを信じます。今日心配しないで、なんでも祈りましょう。主に期待しましょう。みことばは生きて、今も働いておられます。みことばを握りしめ、みことばの剣で勝利しましょう。ピリピ四章六節~八節、

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 またエレミヤ三十三章三節、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

 また有名なみことばです。イザヤ四十三章四節、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 私たちは愛されていないのではない。私の代わりに他の人を身代わりにしてでも、あなたを愛するという約束です。また有名な、ヨハネ三章十六節、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 私のために、あなたの為に十字架に架かって死んでくださり、死を打ち破りよみがえって下さいました。イザヤ四十九章十五節~十六節、

『「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』

 主が手のひらに私やあなたの名前を刻んでくださっています。第一コリント二章九節、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 見たことも、聞いたことも、思い浮かんだことのないものを神は、私たちの為に備えていてくださいます。
 家内のために祈っていただいて本当に感謝です。まだ答えられない、なんで癒されないのだろうと心配しますが、主は、「wait!」もしくは、「No!」と言っていると信じます。私は信じています。家内の癒しの為に祈っていますが、見たことも、聞いたことも、思い浮かんだことのないような、主の栄光のために、必ず成就して下さる。私は祈り続けて求めて行きたいと思います。主のみこころがなります。驚くような勝利を見せて下さると期待します。ローマ二章十一節

『神にはえこひいきなどはないからです。』、

このみことばを信じます。Aを愛してBは愛さないという神ではありません。すべての人の為に命をささげて下さった主が「えこひいきなどはないからです。」とあります。みことばを信じ、祈りは必ず答えられることを信じてすすんでいきたいと思います。時間ですのでお祈りして終わりにしたいと思います。

「愛する天の父なる神さま、あなたのみことばは今も働き、生きておられることを信じます。私はあなたに目を向けます。どんなことでも祈ります。願い続けます。主よ、あなたご自身が、Yes!でも、Wait!でも、No!であっても、主のみこころをなし、私たちを祝福してください。主よ祈りに答えてくださることを感謝します。またみことばを与えて下さい。今日一人一人にみことばで語ってください。そしてみことばが成就しますように。今あなたは生きておられます。一人ひとりに、またこの新城教会に、また日本に答えて下さい。主が触れてください。祝福を与えて下さい。主イエスさまが生きていることを信じ、また体験できますように。様々な心配や重荷がありますが主にゆだねます。あなたが生きておられることを体験させてください。感謝します。信じます。主イエスキリストの聖名によってお祈りをおささげいたします。アーメン。」