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「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート8
〜このことを信じますか?〜」

2018年4月15(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネ11章25節〜26節

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』

 素晴らしい賛美を感謝いたします。開&典子も、Back 2 EdenもCDを出していますから、よろしければお買い求めになって下さい。
 先日ネパールに行ったとき、チェパン族の子ども達に、開&典子が歌い、典子さんが証しをしました。それが結構、子どもたちに受けました。彼女は三歳までパラグアイにいました。パラグアイ生まれです。だからちょっとキャラが違います。「私、十七歳です!」と子ども達に言ったら、子どもたちは笑っていました。
 でも、彼女の話は子どもたちに通じました。なぜなら、「私は三歳まで、みんなと同じように裸足で走りまわっていました。」という話でした。そして、「どうして神様を信じたのか、それはある日、細い道を走っていたら、前からよだれを垂らした野良犬が襲いかかって来ました。」と言うわけです。それで、反対方向に逃げよう!と思ったら、そこには蛇が舌を出して狙っていたというのです。もう絶体絶命。前にも後ろにも逃げられないそんな時に、彼女は祈ったというのです。「もしも神様がおられるなら、私を助けてください!」と叫んだそうです。そうしたら奇跡が起こって、今までよだれを垂らして襲いかかりそうな野良犬が、にこっ、と笑って去って行ったというのです。本当に犬が笑ったかなと思うのですが、チェパン族の子どもたちにはぴったりの話でした。子どもたちは、いつもそういう事に遭遇していますから、子どもたちは、「イエス様を信じたい!」と言って一緒に祈りました。
 人には、いろいろな歴史があり、背景がありますが、すべてが相働いて益となるのです。

 今日は大変素晴らしい日です。なぜなら、「復活祭」といって、イエス様が死を打ち破り、よみがえられた記念日だからです。
 実は、復活祭は、毎年変わります。クリスマスのように十二月二十五日みたいに固定されてはいません。それで分かりづらいのですが、今年は四月一日でした。しかし新城教会ではネパールに行っていましたから、二週間遅れの、今日を復活祭とさせていただきました。

 今、読んでいただきました聖書箇所は、イエス様がラザロという青年をよみがえらせた奇跡の中で語られた言葉です。
 ラザロという青年は、死んで四日も経ち、腐っていました。絶対に生きかえりっこない、そんな状況の中で、イエス様は、「ラザロよ、出て来い!」と、墓に向かって命じた時、当時、埋葬の時に遺体は包帯でぐるぐる巻きにされて、ミイラみたいになっていたのですが、そのまま墓から出て来たのです。
 その時にイエス様はなんと語られたのかというと、ヨハネ十一章二十五節〜二十六節、

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』

 もしも私たちが、ラザロのよみがえりの場面にいたとしたら、絶対にイエス様を主として信じるはずです。なぜなら、死んで四日後の人がイエス様によってよみがえったからです。イエス様がよみがえりであり、いのちであることは明らかです。
 聖書はおとぎ話ではなくて、事実です。ラザロのよみがえりは、後に、イエス様が人類の身代わりとなり、いや、被造物全体の贖いのために、命を捨て、よみがえることを表していたわけです。

 イエス・キリストのよみがえりは、決して、おとぎ話ではなく、事実です。そして、一つ、間違えてはいけないのは、イエス様のよみがえりは、蘇生ではありません。栄光のからだへのよみがえりです。
 ラザロのよみがえりは、蘇生です。生き返ったけれど、やがて、寿命で死んでしまいました。しかしイエス様のよみがえりは、蘇生ではないのです。栄光のからだへのよみがえりであって、二度と死なない、「永遠のいのち」によみがえられたのです。
 これが事実なら、本当にすごいじゃないですか。イエス・キリストが十字架にかかり、死んでよみがえられたのは、誰のためかといったら、人類のためであり、またすべての被造物の贖いの為であったのです。

 何年か前に、イギリスのBBCが「地球伝説」という番組を制作し、日本でもBSか何かで放映されました。三回シリーズで、アメリカのプロのマジシャン、ブロック・ギルがホストとなって、イエスが行った奇跡の一つ一つを検証していきました。
 そして第三回目は、イエス様が起こした奇跡の中で、人類の歴史を変えた奇跡とも言える、復活について検証したのです。その番組を見られた人もいると思いますが、彼はクリスチャンで、プロのマジシャンです。どんなマジックをその時に行ったかというと、キリストが墓から消える場面を、ステージ上で再現したのです。墓の中に閉じ込められたままの人が、瞬時に消えて、別の場所に現れるイリュージョンを披露しました。よみがえりを実際に演じて見せたわけです。
 しかし彼はこう語りました。「このイリュージョンを行うためには、膨大な準備の時間と、多くの裏方がいないとできない。」

 そして、その番組では、「イエスがよみがえった」と聖書に記述されているけれど、あらゆる角度から、本当かどうかを検証して行きました。五つくらいの項目で検証しました。
 第一に、「墓から遺体が消えたのが、マジックだった可能性」をやっていました。しかしこれは、絶対に当時では不可能だったという結論でした。
 二番目に、「弟子たちが遺体を盗み出した可能性」についても検討しました。しかしそれも当時の状況から考えて、ローマ政府がイエスの処刑を実行し、ローマ兵が遺体を管理していた中、墓の中から盗み出すことは不可能だと結論づけました。
 三番目に、「遺体は捨てられていて、元々墓にはなかったという可能性」についても、大勢の人たちがイエスの十字架刑を目撃していましたから、こっそり他の場所に捨てるのは無理だという結論でした。
 それから、「よみがえったキリストを見たというのが、福音書の書き手、記者、弟子たちの作り話だった」という可能性についても検討しましたが、これも様々な角度から検討すれば、事実を記述したのに違いないという結論でした。
 そして最後に、「『イエスに生きていて欲しい』と願うあまり、幻覚だった可能性」も検討しました。しかしそれも、イエス様がよみがえった後に、五百人くらいの人たちに同時に現れたりしています。結論的に、福音書に出てくるイエスのよみがえりは、「事実を記録したものだ」という結論でした。
 これをイギリスのBBCの番組でやっていました。

 私たちはよみがえりを信じていますが、おとぎ話を信じているのではありません。事実起こった事柄を、信じているのです。みなさん安心してください。イエス様がよみがえられたのは事実です。
 そして、イエスを信じるなら、あなたも生きると言われたのです。

 番組の中でも語られていたのですが、イエス様はよみがえられてから、四十日間多くの人たちに現れて、やがて天に帰られ、姿を消されたのです。
 しかしその後の、弟子たちの行動が、普通では解せないというのです。
 普通は、教祖がいなくなると、宗教団体は、だんだん衰退していくというわけです。
 しかしキリスト教は、いつから広がったのかと言えば、イエス様が姿を消した後、急速に広がったというのです。使徒の働き四章三十二節〜三十五節に次のように記録されています。

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。』

 教祖がいなくなったのに、なんと当時のクリスチャンたちは、自分の持ち物も全て共有にして、よみがえりのイエス様を命がけで「非常に力強く」世界に証しして回ったのです。当時、キリスト教は危険視されていたわけです。ローマからも、ユダヤ人の中からも危険分子として、迫害の対象でした。
 しかし彼らはイエス様が姿を消してから、力強く世界に出て行ったのです。それは、イエスがよみがえったのが事実であり、彼らがその第一目撃者であった証拠だというのです。
 イエス様が天にお帰りになってからこのかた二千年、今、世界中にイエスの福音は広がっています。これはなぜかというと、イエス様が死を打ち破り、みがえったという事実があるからです。
 私たちの信仰は、神話や、架空の土台ではなく、しっかりとした事実に立脚しているのです。
 イエス様が死を打ち破ってくださったのは、永遠のいのちが地上に用意されているからです。
 イエス・キリストを信じる時、永遠のいのちを得ることができる、誰も打ち破ることができなかった死を、イエス様は打ち破られましたが、私たちもそれを同じように受け取ることができる証拠です。その先駆けとして、イエス様はよみがえられたのです。
 今日は、その事実を祝いし、記念する復活祭です。

 人生には三つの坂があると言われます。一つは、けわしい上り坂です。

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 これは本当の写真でしょうか。人生って、上り坂が結構多いです。息を切らせて上らなければならない坂が多くあります。
 それだけでなく、急な下り坂もあります。上りがあれば下りもあるのです。今までの人生の中で、「あの時は辛かったなぁ」という、上り坂も、急な下り坂にも出会われたと思います。
 そして、もう一つの坂は、「まさか!」という坂です。突然の「まさか!」という坂があるというのです。

 先週は、まさか!という坂がありました。それは、先週まで、共に礼拝を守っておられた伊庭喜代司さんが、突然、天に帰られたからです。八十九歳でした。心筋梗塞で天に帰られました。
 先週はその近所に座っておられました。お昼のカレーも、たくさん食べておられたそうです。しかし、先週の火曜日、突然心臓の具合が悪くなって、帰らぬ人になったわけです。いや〜人生って本当に分からないです。
 八十九年間の人生でしたから、平均寿命を遙かに超えておられます。ある意味、本人にとってはすばらしい瞬間ではなかったかと思います。私たちも、死ぬなら、そういう死に方をしたいです。月曜日には奥様と二人で、買い物に行かれたそうです。そんなにお元気だったのですが、気がついたら、主の側にいたということでしょうか。
 先週は、召天式が行われたのですが、私たちにとって、ある意味、「まさか!」という坂でした。本当に寂しい思いがします。

 先週私は、「詩篇九十篇」を、何度も読んでいました。その内容が心に留まっていました。そんな中で、伊庭兄弟が天に帰られましたから、感慨深いものがありました。詩篇九十篇を読んでみますと、私たちの人生そのものが描かれています。詩篇九十篇一節〜六節までは、こうなっています。

『主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。』

 詩篇九十篇は、神の永遠性と、限りのある人間を並行して描いています。
 人の命には限りがあります。朝は咲いていても、夕暮れに枯れてしまう花のようだというのです。
 伊庭さんもまさに、朝は咲いていたのですが、夕暮れになって枯れてしまったわけです。これはやがて、全員に言えることです。
 また九節から、

『まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。』

 詩篇90編は誰が詠んだかというと、最初を見たら分かりますが、「神の人、モーセ」と記されています。出エジプトを導いたモーセが詠んだ詩です。
 モーセはエジプトから、イスラエルの民を二百万人くらい脱出させた勇士でした。あの力ある人物がこの詩を詠んだとは、不思議な気がします。結構、弱気ですよね。モーセが出エジプトを導いたのは、今から何千年も前のことなのですが、人間って、あまり進歩していないですね。当時の寿命も、今の寿命も大して変わりません。モーセは寿命について、「七十年、長生きしても八十年」と語っています。

 現代はどうでしょうか。この頃、結構、寿命が延びて来たと言われますが、健康寿命、自由に仕事ができる寿命となると、平均寿命より十歳くらい落ちるのです。みなさん、引き算できますか?もちろんですよね。ちょっと引き算してみましょう。

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 ここに、「都道府県別健康寿命ランキング二〇一六年」があります。健康寿命で男性で一番長く生きるのは、山梨県の男性達だそうです。でも愛知県は、第三位にくい込んでいます。まずは男性の場合です。愛知県男性の健康寿命は七十三歳です。私は今年で六十七ですが、私の寿命は「たったの六年かよ〜」という感じです。
 平均寿命は八十一歳くらいですから、八年間は要介護です。先日、介護保険の保険証が送られて来て、間違いではないかと思いましたが、私の保険証でした。介護を受けない時は、保険料を払えと言うのですから、年金は全てそっちに行っちゃうのです。変な国だと思います。
 でも、愛知県の女性はすごいです。健康寿命日本一、平均寿命でも世界一。地球で最も長く生きる存在です。平均寿命八十七歳。今日、八十七から年齢を引くと、どうですか。あと何年、生きることができますか。
 しかし健康寿命は七十六・三歳です。と言うことは、愛知県女性は、十年近く騙し騙し、苦しんで生きていかなければならないのです。
 そうなると、やはりモーセが言うように、寿命は、普通では七十歳です。七十引く自分の年齢。引き算してください。私は、七十引く六十七、あと三年です。ひぇー!みなさんとお目にかかれるのは、あと三年しかないとすると、ぞっとします。

 今年、新城教会で葬式は四度目です。私、葬式牧師になったんじゃないかという感じです。
 新城教会は、今年で六十五年の歴史です。結構、お年寄りの方々もおられて、やっぱり同年代は、同時期に姿を消していかれます。このような現実を突きつけられると、ちょっと人生、希望がなくなります。
 モーセが語っているように、『その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。』というのです。

 いつも話しますが、「つい先日まで、東郷西小学校、東郷中学校に通っていた!」と思うのですが、あっという間に、この姿です。人生って寂しいなと思います。しかしいくら人生が早く過ぎ去ったとしても、永遠の世界があるならば、希望を持てます。やがて私たちは、永遠の世界で、死も苦しみも悲しみもない場所で、共に過ごすことができるなら、そんな大きな希望はないです。
 天国は死後の世界ではありません。やがてこの地上にできるのです。イエス様がよみがえったのは、霊的世界とか、月の世界とか、他の天体によみがえったのではないのです。この地球によみがえりました。
 それも蘇生ではなく、永遠のからだでよみがえられたのです。それは何を意味するのか。やがて神の国は、現在、私たちが過ごしている地球に出来る!ということを立証するために、イエス様はよみがえられたのです。

 現在、新城教会の納骨堂は満室です。先週、伊庭さんが亡くなられて、最後一つだけ残っていた、納骨堂ボックスが満たされてしまいました。ですからみなさん、死なないでくださいね。みなさんが入る場所がありませんから。しばらくは我慢していただきたいと思うのですが、新城教会、死後の世界の新城教会と、地上の新城教会の人口の均衡が取れてきたようなところがあります。

 しかし、「クリスチャンの死は無駄じゃない」ということを、伊庭さんの召天式の中で語られた気がしました。テモテへの手紙第二、四章六節〜八節にこんな言葉があります。
 パウロが死ぬことを予感した時に語った言葉ですが、四章六節〜八節。

『私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。』

 すごいですね。イエス・キリストを信じて地上から去るのは、決して無駄ではないのです。
 先ほど、この教会に属していて、天に帰られた方々のお元気な頃の写真を拝見したのですが、あの写真を見ると、毎回、悲しくなります。写真の中のお一人一人は、みんな、ほほえんでおられます。ある方は満面の笑顔です。しかし今、その笑顔を見たくても、見ることができないわけです。
 それぞれの人生があり、背景があるけれど、死によって、すべてが消えてしまうとしたら、本当に悲しいです。しかしパウロは、自分の死を目前として、

『私は今や注ぎの供え物となります。』

と言いました。旧約時代、神を礼拝するためには、必ず、生け贄が必要でした。祭壇があって、祭壇の上に生け贄を置いて、動物の血を流し、燃やして、人は神を礼拝をしました。
 今はイエス様が、初めで最後の生け贄となってくださいましたから、生け贄は必要ありません。あえて言うなら、賛美が生け贄です。旧約時代は、イエス様の十字架は完成していませんでしたから、生け贄が必要だったわけです。
 生け贄を捧げる時に、イスラエルの人たちは、最初、石の祭壇の上に「注ぎの供え物」を捧げたみたいです。注ぎの供え物とは、強いぶどう酒であったり、オリーブ油が使われたようです。これは、「祭壇を聖める」という意味があったみたいです。
 実に、主を信じて地上を去った人たちは、注ぎの供え物だというのです。
 ということは、天に帰られた聖徒たちは、祭壇を聖める役割があったということです。新城教会も今年で六十五周年です。しかし私は、あんまり記念日づくのは嫌です。イエス様が帰って来られる日が記念日です。ですから、何周年というのは、どっちでもいいと思っています。しかし六十五年が経ちました。その間、多くの方々が一緒に主を礼拝しましたが、先に天に帰って行かれました。

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 先日も写真を見ましたら、十年くらい前の写真でしょうか。伊庭兄妹も、私の両親もここに立っていました。
 彼らの死は、「注ぎの供え物」でした。天の人口が増えるのは、地上においては寂しいですが、彼らが天に帰ったことにより、地上に残されている教会はさらに聖められるのです。主が帰られる道を用意するために、彼らは、重要な役割を果たしているのです。
 また、ヘブル人への手紙十二章一節に、こんなふうに書かれています。

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

 『多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている』とは、先に主の元に召された人たちを意味します。
 この地上から死後の世界に入った人たちは、花園で寝転んでピクニックをしているわけではないのです。今この時点も、地上に残されている、私たちの競技を真剣にとりなし祈っているということです。
 そして聖徒たちの死は、決して無駄ではなく、祭壇が聖められるのです。

 教会も六十五年継続できたのは、地上の努力だけではなく、注ぎの供え物となった兄弟姉妹のとりなしの祈りがあるわけです。
 私たちは常に、天からの声援を受け、毎日を歩んでいることを忘れてはいけないです。
 しかしながら現実の人生は、普通は七十年、八十年であり、誇りにできるのは苦しんだことだとモーセは語っているわけです。

 詩篇九十篇に戻りますと、十二節からこんなふうにモーセは神の前に祈っています。

『それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。』

 彼の祈りは、本当にすばらしいです。私たちも、この祈りを自分の祈りに加えたいものです。
 十二節、『私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。』と祈っています。パウロは自分の日を正しく数えていました。まもなく主の元に帰るということを、ちゃんと予期していました。まさかの突然の出来事で死んだわけではないのです。自分の日を正しく知っていたわけです。
 私たちも、まさかの出来事でびっくりするのではなくて、「主よ私たちに日を、年を教えてください。正しく数えることができますように。」と、モーセが祈ったように祈りたいですね。
 ある意味、伊庭さんは正しく年を数えておられたと思います。三月にこの場に出て、誕生日者紹介の時、「私は自分で棺桶に入る練習をしています。」というようなジョークを言っていましたが、やはり彼は感じていたのではないでしょうか。私はもうしばらくしたら主の元に行くだろう・・・ってね。彼の中に準備があったと思います。私たちも、まさかの出来事ではなく、主から正しく数える知恵が与えられるように祈りたいです。

 モーセの祈りは十三節で、「帰って来てください、主よ。」と祈っています。
 人類の苦しみと悲しみはどこで終結するのか。それはイエス様が再び地上に帰って来てくださらないと、どうにもならないです。人類がいくら努力しても、苦しみ、悲しみは解決しません。私たちは、「マラナタ、主よ来てください。主よ帰って来てください。」という祈りを、心の底から主の前に捧げるべきです。
 祈りの中に、「主よ、帰って来てください。」という祈りを、必ず加えていただきたいです。
 次にモーセは何と祈ったかというと、

『どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。』

 と祈りました。
 モーセがこの詩を詠んだ時、何歳だったのかなぁと考えます。何歳の時に詠んだとは記録されていませんから分かりません。しかし推測は出来ます。たぶん七十歳から八十歳の間ではないかと思われます。彼が、「七十歳くらいで人生って終わりなんだ。健康に生きても八十くらいだ」と語っていますから、八十歳過ぎていたらこうは言わないと思います。もしかしたら、私と同じくらいの歳で作った詩ではないかとも思います。

 さて、みなさん。このモーセの祈りは、きかれたでしょうか、きかれなかったでしょうか。モーセの祈りは神に聞き届けられ、答えられたのです。

 モーセは、パロというエジプトの権力者の娘に拾われて、四十年間王宮で過ごしました。彼はヘブル人の子どもで、当時、ヘブル人は殺せ!というおふれが出ていたので、母親はそっとモーセをナイル川に流したのですが、パロの娘が拾って王宮で育てられました。
 しかし、彼が四十歳になった時、自分の同胞が奴隷として苦しんでいる姿を見て、迫害しているエジプト人を殺して大問題になったのです。
 四十歳にして、彼はエジプトから荒野に逃亡しました。そして四十年間に及ぶ、苦しみの荒野生活を体験させられたわけです。
 先週も四国の離れ島に刑務所からの逃亡者が逃げ込み、島の人たちは戦々恐々としています。
 逃亡者本人も大変だろうと思います。モーセはエジプトという当時の大国から追われて、荒野で四十年間、羊飼いとなって隠れ住んだわけです。相当大変だったと思われます。しかし彼は荒野で八十歳くらいまで生き延びるわけです。たぶん、詩篇九十篇は、荒野の四十年の経験の中で詠まれたのではないかと思われます。

 しかしモーセは、八十歳になった時に、神と出会うわけです。どんな光景で神と出会ったかと言えば、荒野には「柴」という植物があり、時々風で揺れて、摩擦熱で燃えるのです。山火事みたいな感じで、砂漠で起きる自然現象です。しかし普通は燃え切ってしまう柴が、燃え尽きないで、ずっと燃えていたのです。それで、不思議に思って見に行ったわけです。「なんだあれは?普通は燃え切るのに、なんで燃え切らないんだ?」と見に行ったら、それは神の火で、消えない火でした。
 芝の中から、「モーセ!モーセ!」という声を聞いて、彼はかつて、八十歳で人生は終わりだ、と告白した八十歳の時に神に出会ってしまうわけです。
 それで八十歳にして、エジプトに戻って、四百三十年も捕らえられていたヘブル民族を解放し、カナンの地まで連れて行くという大役が与えられたのです。
 かつて隠遁生活を送っていた荒野に、彼は紅海を真っ二つに引き裂いて、二百万人もの民を連れ出したのです。そこで彼は何年過ごしたと思いますか。
 実はモーセが死んだのは、百二十歳です。ということは、荒野で苦しんだ四十年の後、もう一度荒野に出て、神の奇跡と共に四十年を過ごしたのです。モーセの人生は三分割出来ます。四十年、四十年、四十年です。
 彼の祈りは見事に実現したのです。「私たちが悩まされた日々と、私たちが災いにあった年月に応じて、私たちを楽しませてくれ!」と神に叫びましたが、四十年間隠れ住んだ荒野で、彼は神と共に四十年を過ごし、天に帰ったのです。それは神との直接的出会いがあった後に起こった、回復の奇跡です。

 七十歳から自分の数字を引くと、あと三年か…、ある方はマイナスという方もおられるかもしれません。しかし、私たちには希望があります。それは永遠の世界だけではなく、地上にも希望があるからです。
 どのくらい苦労されましたか?何年、苦労し、悲しんでこられましたか?その年月に応じて、あなたを楽しませてあげます、というのが約束です。
 今日、多くの苦しみに出会いながら、教会に来られた方がおられるならば、ある意味、「おめでとうございます!」ということです。なぜなら、苦しみが長ければ長いほど、それだけあなたを祝福してあげます、というのです。これから期待して下さい。

 モーセの祈りを、私たちの祈りにしなければなりません。人生は苦しみだけで終わるものではなく、主が共におられるならば、荒野も、全く様相が変わるのです。
 残された人生においても、今まで悩み苦しんだ日々に応じて、楽しませて下さり、地上から出て行っても、死後の世界があります。死後の世界は、よみがえり待合所みたいなものです。そこでも、とりなしの祈りの役割があり、やがて、この地上が天国となって、イエス様が永遠のからだでよみがえったように、私たちも地上によみがえり、二度と死も苦しみも悲しみもない地で、永遠に共に暮らすことが出来るのです!それが聖書が告げる救いです。その時には、被造物全体も回復します。

 イエス・キリストとの出会いはただごとじゃ、ありません。すごいです。そのきっかけとなったのが、イエス様の十字架の死と復活です。
 私たちは、イエス様の十字架と復活、やがてイエス様がこの地上に帰って来られる日を常に待ち望んで、生活しなければいけません。

 ある人がこんな言葉を語りました。
 Live as if Christ died yesterday and is coming back today!
「あたかもキリストが昨日死なれ、今日戻って来られるかのように生活しましょう!」と言葉を残しましたが、イエス様が昨日、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死なれ、よみがえってくださったことを心に留めながら、今日、イエス様が帰って来られることを期待して生活する、これがクリスチャン生活です。
 希望を持って、残された人生を進んでいきたいと願っています。

 最後にみなさんと共にお祈りをしたいと思います。イエス・キリストを信じておられない方がおられたら、是非、今日イエス様を受け入れ、信じてください。すばらしい永遠のいのちを得ることができます。

「わたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 「信じますか。」と、あなたに質問が投げかけられています。「信じます。」と宣言したら、あなたにはいのちがあります。でも私たちには自由意志がありますから、「結構です。明日にします。」と言われたら、救いは遠のいてしまいます。ある意味、救いは自己責任です。
 イエス様を自分の救い主として、心にお迎えし、今日イエス様が帰って来られてもいいように、準備をしたいと願っています。
 最後に、お立ち上がりいただけますか。そして、一緒にお祈りの時を持ちたいと思います。今、私がお祈りしますので、私の後について、お祈りしてください。口で告白する時に救われます。心に信じて義と認められ、口で告白して救われるとありますから、「イエス様!私の救い主、私の神となってください!」と告白してお祈りしたいと思います。
 力強く、声に出して、告白してください。ではお祈りしましょう。

 イエス様!私の神となってください。あなたはいのちです。よみがえりのいのちを、私にも与えてください。私のすべての罪を聖めてください。聖い者として受け入れてください。永遠のいのちを与え、よみがえりにあずかるものとしてください。私が苦しんだ年月に応じて、残りの人生を楽しませてください。モーセの祈りを、私の祈りにします。イエス様の名前でお祈りします。アーメン。

 では、私がお祈りします。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。今日は天に帰った兄弟姉妹を思いながら、そのとりなしの祈りに支えられ、私たちはここにあることを感謝します。しかし何よりもイエス様が十字架にかかって、命を捨ててくださり、よみがえり、今も生きてくださっている事実の中で、生きることを許されている恵みを心から感謝します。
 今日、私たちはモーセのように祈ります。今までの人生の中で様々なことがありましたが、どうか、私たちが悩んだ日々と、災いにあった年月に応じて、これからは私たちを楽しませてください。同じ荒野に住んでも、モーセのように、全く違った体験をすることができますように。
 ここにおられるお一人一人を祝福してください。一刻も早く、イエス様、帰って来て下さい。マラナタ、主をお待ちします。
 願わくは、私たちが生きている間に、主がこの地に帰って来てくださいますように。
 主よ、誰一人として、突然の出来事で苦しむ人がいませんように。主が守りを与えてくださいますように。この時を心から感謝して、すべての栄光をお返しして、イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。