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「—2017年あなたは良いもので満たされます— パート17
   ~あなたを主と同じかたちに変えられます。~」

2017年7月16(日)
新城教会主任牧師 滝元順
コリント人への手紙第二、3章15節〜18節

『かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。「オーバーカマーズ」の演奏、すごかったですね。プロみたいですね。メンバー二人が留学されるそうです。まどかちゃんはスイス、けんと君がアルメニアに行くそうです。すごい所にまで行きます。これから若者たちが世界中に出て行って、世界を勝ち取るために用いられてほしいと願います。新しい世代だなぁと思います。私には、とてもついて行けない、新しい世界が未来にはあると思うのですが、主の御言葉は、いつまでも変わることがありません。

 みなさんのお祈りに支えられて、「日本縦断リバイバルミッション」で奉仕させていただきました。今回は、北海道で奉仕をさせていただきました。北海道は、結構涼しいだろうと、ちょっと期待して行きました。着いた時は気温が十八度でした。長袖を持って来なくてまずかったな、と思ったのですが、それは出迎えのちょっとした歓迎でした。すぐに気温は上がりまして、次の日からは、三十二度から三十五度くらいでした。北海道の人たちは、そういう温度に慣れていないので、苦しんでいました。私たちにとっては、普通でしたが、せっかく北海道に来たのにこの温度か!と思いましたが、集会はすばらしかったです。

 北海道の方々って、義理堅いと言いますか、本州では集会が始まると、徐々に集まってきますが、北海道は、七時半の集会ならば、七時半にはほとんど全員集まります。沖縄は違います。七時半の集会のために、教会に電話があります。「もしもし、今日の七時半の集会って、何時から始まるんですか?」と。
 これは文化の違いだと思うのですが、北海道は時間どおりに始まって終わらないと、吹雪になったりして、命に関わったりするわけです。しかし、沖縄などは、別に電車があるわけじゃないし、ゆったりしているわけです。

 北海道では、どこに行っても多くの人たちが集まって、祝福されたミッションとなりました。これはみなさんが祈ってくださっている結果で、祝福の中で仕事ができるのは感動です。どこに行っても、祝福があり、心から感謝したいと思います。
 これからも続いていきますので、ぜひ、祈っていただきたいと思います。

 今回は韓国から来てくださった、チェ先生と一緒に回りました。どこでも彼は人気があって、大変良い働きでした。
 今回の集会の写真をお見せしたいと思います。

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 北海道は、そもそも、どこにあるか知っていますか?

 今日はみなさんと一緒に、「—二〇一七年あなたは良いもので満たされます— パート十七 ~あなたを主と同じかたちに変えられます。~」というタイトルで学びます。
 いや〜聖書には、すごい約束が記されていますね。信じられないです。第二コリント四章、特に十八節に、

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

 私たちクリスチャンは、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くというのです。自然界の法則は、歳を取れば取るほど、どんどん失っていきます。昔はふさふさの髪の毛があったのですが、だんだん少なくなって、今はこのような素顔で勝負!になってしまいました。
 歯もちゃんとあったのですが、一本抜け、二本抜け、三本抜け・・・、記憶もどんどん薄れていきます。
 人間の体は、自然界の法則には、なかなか打ち勝つことができないです。しかし人の本質は、見えない部分にあるわけです。心の中は、逆に、栄光から栄光へと、イエス様と同じように変えられていくわけです。
 人格も、小さい頃は大変ですが、だんだんと安定して、一般的には歳を取れば人格的に豊かになります。子どもの頃と同じような性格で、大人になって、年をとったら大変です。人間って、だんだんと丸くなるわけです。これは、内側は、栄光から栄光へと変えられる、一つの証拠でもあるわけです。

 私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられる路線上にあるのです。やがてイエス様が帰って来られた時は、イエス様と一緒に、この地を相続するわけですから、その時は、イエス様と同じ身丈まで、成長していなければ、相続は不可能です。
 しかしこの御言葉は、いろいろな側面を教えています。コリント人への手紙第二、三章十三節〜十四節。

『そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。』

 栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるには、おおいが取られる事が必要であることを教えています。神の栄光が私たちに届かない理由に、「おおい」があるというわけです。そのおおいが、一枚、二枚、三枚、四枚と取られていく時、内側から主の栄光が輝き出し、また、主の栄光が私たちに届くのです。「おおい」が取りのけられることが、主と同じ姿に変えられていくために必要です。

 今読んだところに、モーセという人物が出て来ます。モーセは、「消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように」、顔におおいを掛けたというのです。
 モーセという人物は、神と直接出会って、十戒を受け取った人物です。十戒は、ある意味、聖書の基礎ですから、覚えたほうがいいと思います。十戒、知っていますか?十回以上聞いた!という人も多いと思いますが、ご一緒に読んでみたいと思います。

一、あなたは、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない。
二、あなたは、自分のために、刻んだ像を作ってはならない。
三、あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
四、安息日を覚えて、これを聖とせよ。
五、あなたの父と母を敬え。
六、あなたは、殺してはならない。
七、あなたは、姦淫してはならない。
八、あなたは、盗んではならない。
九、あなたは、隣人について、偽証してはならない。
十、あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。

 モーセが十戒を授かった時、日本的に言えば、モーセに後光が差していたというか、光輝いて、モーセの顔を、まともに見ることができなかったのです。なぜなら、モーセは、神と直接出会ったからです。そのため、神の栄光が、鏡のようにモーセに反射して、光っていたわけです。ある意味、モーセは、栄光から栄光へと変えられた、究極的な姿を表しているわけです。

 山から下りて来た時、モーセは、おおいをかけなければならないほど、光り輝いていたのです。モーセを見たら、栄光で輝いていて、モーセを直視した人は、その光線でやられて、倒れてしまうからおおいをかけたように思うのですが、そうではなさそうです。
 モーセは、栄光がだんだんと消えていくのを、体験したのです。モーセは、「これはまずいな!」ってね。はじめは百パーセントの輝きがあったのが、二日目になったら九十パーセント・・・!スマホのように、ちょっと目減りしたぞ!三日目になったら、八十パーセントになった・・・。だんだん減って来た!「このまま権威を保つのは難しい・・・」と、栄光の目減りを隠す為に、おおいをかけたと、パウロは述べているわけです。「消え失せるものの最後をイスラエルの人々に見せないように」です。

 ある意味、これは、クリスチャンの姿を現しているかのようです。どうでしょうか。イエス様を信じたばかりの時って、神の栄光百パーセントで輝いていて、多くの人たちに福音を語り、「私はイエス様を信じて救われましたよ!変えられましたよ!」とやっているのですが、クリスチャン生活が長くなると、おおいをかけないと、やっていけなくなります。情熱も少しずつ失ってくるし、クリスチャンではない人たちとの関わりも少なくなるから、ちょっと自分をカモフラージュしないと生きていけないところって、あると思います。

 今回も北海道を回らせていただいて、いくつかの教会に寄らせていただいたのですが、ある教会は祝福されているのですが、「なかなか大変なんですよね〜」という教会もあるわけです。
 ある所に行ったら、「うちの信徒さんたち、みんな歳を取ってしまって、伝道どころじゃありませんよ。それも、長いクリスチャン生活で、一般の世界とも関わりがなくなって、伝道もなかなかできません。みんな、初めは喜んで教会に人を連れて来たけど・・・。」と言うわけです。それを聞いて、そういう部分あるなぁと思うのです。

 モーセと同じように、初めは光っていたけれど、光が消えていくのを、カモフラージュしなければならない、おおいを付けないとクリスチャンって、生きていけないところがあるのではないか、と思うのです。
 しかしここでは、そのおおいを取ってあげます!と述べているわけです。おおいを取り除いて、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えてあげます!と約束されています。すべての領域において、私たちを、イエス様と同じレベルまで、引き上げてくださるというのですから、すごいです。

 聖書は、章とか節があって、区切られていますから、前後のつながりが分からなくなる傾向があります。しかし、元々聖書は、章とか節は付いていなかったのです。読みやすいように、整理するために、後に章とか節を付けたわけです。
 第二コリントも、三章と四章とで区切りが入っていますから、おおいに関しての論点が断ち切られ、はっきりしません。
 第二コリント人への手紙四章一節〜四節、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

 先ほども述べましたように、栄光が消えていく中、それでも勇気をふりしぼって、自分自身を多くの人の前に推薦し、「私はクリスチャンです!」と、がんばってやっているのにも関わらず、うまくいかない原因、覆われている原因がどこであるのかを、ここで述べています。
 四章四節に、「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませている」とあります。おおいとは何か、それは、「この世の神だ」と教えているわけです。
 この世の神が働くことによって、すなわち、悪魔が働くことによって、人々に、おおいがかけられ、自分にもおおいがかけられて、光が輝き出ることもないし、百パーセント全開で主に仕えたとしても、人々は福音を聞こうとしないのです。その原因が、「この世の神」にあるというのです。すなわち、悪魔・悪霊どもの力が関わって、おおいとなっているのです。
 この主張に関連していると思われるのですが、ローマ書七章二十節に、こんな言葉があります。

『もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。』

 先ほど十戒を朗読しましたが、クリスチャンには、正しく生きていきたい、聖く生きていきたい、という気持ちは十分あります。しかし、罪の誘惑に負けてしまって、そちらの方向に引きずりこまれる自分がいるのも分かります。
 クリスチャンになると、その瞬間から、この世との戦いが始まります。私たちは常に、この世の価値観との戦いを強いられるわけです。
 教会から一歩外に出るなら、学校に行っても、会社に行っても、世の中に出て行けば、様々な誘惑がありますから、それらに打ち勝つためには、大きな力がいるものです。

 ここでパウロが述べているのは、「自分でもしたくないのにしてしまう」というようなことは、「もはや私ではなくて、私のうちに住む罪」というのです。
 これをどう解釈するかです。今までのキリスト教会は、自分の中には肉的な性質があるから、肉に打ち勝つ決断が必要だと理解していたわけです。これは正しい理解ですが、「私のうちに住む罪です。」とは、罪があたかも人格を持っているかのように描かれています。

 聖書の書かれた時代背景や、聖書成立当時、ユダヤ人達が共有していた世界観に、うまく波長を合わせるなら、真の意味をくみ取ることが出来、真理を引き出すことが出来ますが、著者の意図とか、目的から外れて、今日の世界観だけで理解しても、なかなか、真理には出会えないと思うのです。
 ですから聖書が最初、どういう意図で書かれて、誰に対して、どのような目的で記されたのかを研究することは、たいへん重要です。神学校では、それをやっているわけです。リバイバル聖書神学校も今年一年だけになりました。世界的な神学者である山崎ランサム先生が教えてくださっていますので、ぜひ、学びにいらして下さい。

 「日本福音主義神学会」という、神学を研究するグループがありまして、先日、関西のほうで、日本人ですが、世界的神学者の方が、ローマ書七章二十節の言葉を、当時のユダヤ的な世界観と合わせて、研究発表というか講演したことが出ていました。
 「舟の右側」という雑誌の、六月号と七月号を読んでみてください。「ユダヤ黙示的世界観から罪を見る」というタイトルでの講演が載っています。日本福音主義神学会西部部会の主催で行われました。「諸力としての罪」をテーマに、山口希生という先生が講演したのですが、この方は、NTライトという世界的神学者の門下生で、ライトにも影響を与えたという、山崎先生と同じくらい優秀な神学者です。

 彼が講演した内容を聞いて、偉い先生方が、結構ショックを受けたらしいのです。会を主催した先生が、最後に、こんなコメントしていました。
 「実に黙示的世界観とかパウロの世界観、突き詰めていくと聖書の世界、二十一世紀の日本に生きている私たちにとってある者にとっては、ものすごく違和感のある世界観であると思います。」と言うのです。

 山口先生が語った内容を聞いて、ある人たちにとっては、「ものすごく違和感があった」というのです。
 しかしコメントは続けて、「自分が当たり前だと思っていることが当たり前でない世界のテキストに向き合っている、テキストから語られていることをもう少しこれから考えていくことが大事ではないか。その世界理解が何であるかをもう一度問い直し、そこから神学を問い直す。それが最も大事ではないかということを思います。」と結んでいました。
 案外、聖書を、伝統的理解だけで教えられて、これが当然だ、普通だ、これでいいんだと考えているけれど、元々の意味は、そうではなかった!というところも結構、あるわけです。そうすると、真理の領域がおおわれてしまうのです。

 特に、「私の内に住む罪です」という表現が、人格を持っているかのように記されているのは、どういうことかをユダヤ的世界観と共に解説しています。そこで、罪には二つの方向性があると語られていました。
 十戒を守らないのは、自分自身が神の命令に違反する、自分自身の選択です。人間には、自由意志がありますから、自分の決断で罪を犯します。
 しかし、もう一つの方向性は、「神に反逆する、宇宙的諸力とのつながり」というものです。神に反逆する宇宙的諸力とのつながりが、今まで、聖書から読み取られていなかったのです。ゆえに、クリスチャンは、一生懸命努力するのですが、百パーセントが、九十、七十、六十と栄光の輝きを失ってしまい、おおいをつけようかという事になるわけです。自分をカモフラージュして、クリスチャンらしく装うことが必要になってしまうのではないでしょうか。
 実はその原因が、「神に反逆する宇宙的諸力」にあると、どのくらいのクリスチャンが理解しているでしょうか。それにより、おおいがかけられ、打ちのめされている現実があることを知らないと、たいへんな目に遭います。
 私は昔から、このことを話していますが、相手にしてもらえませんが、世界的な神学者が言うと結構、聞いてくださるようです。これは本当に重要な側面だと思います。

 私たちクリスチャンが霊的戦いに目覚めないと、引きずりおろされ、おおいがかけられ、信仰さえもままなりません。さらには教会も、栄光から栄光どころか、衰退から衰退へとなってしまうと思います。

 先週の信弘先生のメッセージでもありましたように、この七月は新城教会にとって、大きな扉を主が開いてくださった季節です。それは何かと言ったら、霊的戦いが一九九二年七月九日に突然始まったからです。その事に関しましては、「主が立ち上がられた日」という本に書きましたので、是非とも読んでいただきたいと思います。どのようにして、起こったのかをレポートさせていただきました。
 新城教会は伝統的な教えの中で長い間、過ごして来ました。父が教会をはじめて、開拓伝道がはじまって、今年で六十数年になるのではないかと思います。私は牧師の息子として生まれましたが、悪魔や悪霊どもが働くという世界観がありませんでした。
 しかし新城教会の歴史を振り返ってみて、「あの時期が一番大変だったな・・・」というのは、一九八〇年代ではなかったかと思われます。この会堂が出来た後です。会堂が完成したのは一九八〇年。甲子園ミッションが開催されたのが、一九九三年です。その間、無茶苦茶大変でした。これ以上無理、というような戦いがいくつもありました。
 しかし、それが霊的戦いだとは、全く気づきませんでした。特に八〇年代、教会内で悲しいことがいくつかありました。それは一緒に礼拝を守っていた若い兄弟姉妹三名が、時は前後しますが、突然事故で亡くなったり、病気で亡くなられたりしたことです。みんなで真剣に祈っても、祈りの甲斐なく、次から次へと亡くなった時期がありしました。その現実を見て私は、「神様って、本当に生きているんだろうか?一生懸命、癒やしを祈っていたじゃないか。でも癒やされなかった・・・。あんなに信仰深い人たちが、なぜあんなふうになるんだ?」という疑問を持ちました。

 三人が亡くなった直後、今度は、家内が原因不明の病気になりまして、どんどん痩せていきました。初めは四十数キロあった体重が、最後には三十数キロになりました。私は、「今度死ぬのは家内だ・・・」と思いました。ついに俺の所に来ちゃった!大きな恐れが心に来ました。「これは祈るしかない!」と思いました。
 その時、霊的戦いのことなんか、何も分かりませんでした。この事は、何回か話したことですが、ある夜のこと、私は愛知県民の森の山に出かけて行きました。一人で、愛知県民の森の山上に、家内のために祈るために登って行きました。自分でお茶をわかしてポットに入れて、おにぎりを二つ握って中に入れて、そして、聖書を入れたのですが、どうせ真っ暗で読めないし重いと思って出して、リュックを背負って山頂に登り、夜中の二時頃でしたが、教会なんかやっちゃおれんなと思いました。けれどもふっと、「もしかしたら、これら一連の問題は、悪霊的なものかな・・・」とも思いました。
 それで頂上で、「イエスの名によって、家内に病気の背後で働き、病を持ってきた悪霊よ、出て行け!」と、二、三回、大声で叫んでみました。
 すると突然ですが、目の前に真っ赤な顔をした天狗が、私を横目で睨むような形で現れました。超びっくりして、その後、どうやって山を下りて来たのか覚えていません。逃げて帰って来ました。
 次の日に、信弘先生をはじめ、みんなにその体験を話したら、笑われました。「夜中にそんな所に行って、悪霊よ出て行けなんて叫んだら、誰だって、そういう気持ちになる。」と言われました。そうかなぁ〜と思いましたが、しっぽを巻いて逃げてきたような感じだったので、このままではいかん!と思いました。

 それで次の週、同じ時刻に、一人だと怖いので、何人かの友達を誘って再び、同じ山に登って叫んで祈りました。その時は天狗が出るどころか、たいへん恵まれて、喜びに満たされて、それから毎週、月曜日、愛知県民の森の祈祷会が始まり、今まで続いています。すでに三十数年です。
 それ以来、家内の体調がだんだん良くなりました。あれ?ちょっと食べられるようになったぞ!四十キロになった!四十二キロ、四十三キロ、五十キロ、五十・・今の通りです。迫力あるでしょう。あの時から変わりました。「これは、もしかしたら霊的な力が働いているのかもしれない・・・」と思いましたが、しばらくすると、その事も忘れてしまいました。
 しかし一九九二年七月九日、突然、霊的戦いが始まりました。この地域で一生懸命伝道しても人々が救われないし、クリスチャンにも、いろいろ問題が起きる背後に、悪魔・悪霊どもが関わっていることを知らされました。これらに立ち向かうことがない限り、教会は勝利できません!オーバーカマーになることができない!と教えられて、どう説明していいか分かりませんが、七月九日の朝六時、地域に出て行って、地域にかかっているおおいを取り除きなさい!と主に語られて、町を覆っている宇宙的な諸力に対して立ち向かう、霊的戦いが始まりました。それから、二十五年が経ちました。
 今、主に心から感謝しています。これをさらに前進させていかなければならない!と強く感じています。

 以前にも話したことがあり、みなさんもよくご存じのところですが、マルコの福音書五章一節〜十節を読むと、イエス様がゲラサという街に行かれたことが書かれています。

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 聖書の記事は、神話でも何でもないのです。現地に行くと、書かれた情景が今でも残っています。また、どうしてこういう事が起こったのかを推測できる資料も、今日、残っているのです。

 ゲラサがどこにあるかというと、南のほうにガダラと名前がついている場所があるのですが、聖書は湖を渡ってゲラサに付いたとレポートしていますから、考古学者たちはヒッポス、または、SUSITAと呼ばれる場所がゲラサであったのではないかと、最近は考えられています。

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 昨年はこの場所に、ツアーで行ったとお話しさせていただきましたが、入口にスシータという看板が出ています。崖の上にある古代の街です。
 後に二千匹ほどの豚が崖から落ちて、湖で溺れ死んだと記述されていますが、上から見ると、下にガリラヤ湖が見えていて、聖書の記述通りの場所があります。
 イエス様がこの街に行くと、悪霊に憑かれた男がイエス様一行を迎えたのです。

『この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。』

 この記述を見ると、ゲラサの人たちは、相当、墓場に住んでいた男に苦しめられていたと思われます。『もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。』とありますし、『だれにも彼を押さえるだけの力がなかった。』とありますから、最強の男がこの街には君臨していたわけです。この男は、やりたい放題だったわけです。

 街の住民は墓場に住んでいた男によって、自分たちの生活など、あったもんじゃなく、苦しめられていたのです。
 もしもどうでしょうか。私たちの地域に、このような男が出現したら、それは大変だと思います。家庭にこんな人物がいたらどうですか?犯罪にまでは至らなくても、ある人を抑える力がないというか、特定の人物によって、ひどいめに合わされるというようなことが、現代でも、時々起こるわけです。
 また、国単位でも起こりえます。悪い指導者が出て、国全体が悪い方向に連れて行かれることもあります。日本の政治のためにも、祈らなければいけないです。近頃、共謀罪が成立して、これからどういう時代を迎えるのか、分からない怖い時代です。

 今、世界規模で人を支配するに有効な機材を、すべての人が持っているというのです。それが何かといったら、スマホです。スマホって、すごく便利だと思って使っていますが、スマホは世界中の人たちを支配するためには、最も有効なツールだというのです。スイッチを入れなくても、電源を入れていなくとも、あなたの写真を撮ることも、動画を撮ることも、あなたの話し声を聞くことも可能です。
 すでに今は、本人の承諾がなくても、警察が位置情報や、いろいろな情報を取ることが、法律的に可能になっています。嘘じゃないです。誰か一人が情報を握ったら、世界をコントロールできる。今まではSFの世界のことが、現実味を帯びて来た時代に生きているわけです。

 イエス様がゲラサに行くまでは、誰も彼を抑えることができなかったし、男が狂暴になった原因も、全く分からなかったのです。しかし、イエス様がそこに行った時に、この男が狂暴になった原因が明らかにされて、そればかりでなく、男を解放して、男ばかりでなくて、地域住民全員が解放されたのです。一人の男によって、住民全員が、ある意味、マインドコントロールされていたのです。

 その様子がレポートされています。イエス様は男を解放されたのですが、そんなすごいことをされたのにも関わらず、地域の住民は何と言ったでしょうか。マルコの福音書五章十七節を見ると、

『すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。』

というのです。イエス様に「出て行ってください」と願っています。住民の目には、イエス様はどのように映ったのでしょうか。自分たちがコントロールできない男が、イエス様の前にひれ伏して、何かを懇願している姿を、遠くから眺めていたと思われます。地域住民からしてみたら、男の大親分が来た!くらいにしか、映らなかったと思います。やばい!今まであの男に苦しめられてきたけれど、あの男がひれ伏すほどの人物が湖の向こう岸からやってきた!こりゃ大変だ、「この地方から出て行ってくれ」と頼んだのは、当然かもしれません。

 しかし、男が正常に戻っていることが分かった時、人々はマインドコントロールから解かれたのです。それがマルコの福音書五章二十節に書かれています。

『そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。』

 現実的に男が正常になっている姿に接して、住民のマインドコントロールが解けたのです。 そしてその背後に、レギオンという、地域をおさめていた悪霊的な力が働いていたわけです。五章九節と十節を見ると、

『それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 「懇願する」という意味は、「願いを聞いてもらうように、必死になって頼む様」です。レギオンがイエス様に、「この地方から追い出さないでくださいと懇願した」というのです。人というよりも、「この地方、ゲラサであり、デカポリス」から追い出さないでくれ!と懇願したのです。
 街全体におおいがかかっていたわけです。おおいが取られたことによって、福音の光が男にも、街全体にも広がった様を見ることができます。
 栄光から栄光へと変えていただく為には、自分の努力ではなく、おおいが取られることが大事です。
 レギオンは、「この地方から追い出さないでください!」と懇願したけれど、追い出されたわけです。それでこの街が変えられたのです。おおいをかける力が街に働いていることを理解しないと、結構、悪影響を受けると思われます。

 レギオンが街に侵入した原因が二つありました。先ほど十戒の中で最も大きな罪としてあげられていたのが、「偶像礼拝」の四文字です。
 日本語の聖書では、「神」という言葉自体に問題があります。神とは、本来、神道用語で、神道の神のことを指しますから、クリスチャンは、神という神道用語を、頭の中でキリスト教用語に変換しながら、聖書を読んでいるのです。本当は「創造主」とか、他の言葉に訳し直したほうがいいと思われます。しかし、この用語が定着していますから、難しいです。日本人は神と言ったら、「神々」と理解します。それらを拝むことが罪であり、偶像礼拝です。それが悪霊どもが侵入し、おおいが出来る原因となるのです。
 ゲラサは偶像礼拝によって、恐ろしい男が出現し、人々は苦しめられていたのです。
 しかしイエス様がやってきて、おおいを取ってくださったことによって、住民は光を見ることができたのです。

 教会に来て薄皮が取られるのは、今まで信じていた神々と呼ばれるものが、「偽物だった!」と分かる事です。それがただの偽物ではなくて、悪霊どもであった!と気づかされるのです。
 本物の神のようなふりをしながら、私たちを騙す存在だ!と分かるのです。

 近頃、オレオレ詐欺が流行っています。是非とも気を付けてください。特に、歳を取った方々の所に、電話がかかってくるみたいです。私の家にもかかって来ないかな、ってちょっと楽しみにしているところもあるのですが、家電には、近頃、なかなか電話かかってきません。家に電話がかかってきたら、ほとんどがセールスです。だから、たまにはオレオレ詐欺からも、かかってくるかなぁ?とかまえているところもあります。しかし、おじいちゃん、おばあちゃんが一人で住んでいたりすると、オレオレ!オレだよ!孫の誰々だよ!息子の誰々だよ!と言って電話がかかってきて、信用するとどうですか。二ヶ月に一度振り込まれる、大切な年金をだまし取られます。一瞬で奪われます。悪霊の手口も同じです。

 今は、盆の時期です。この近所は八月になりますが、盆ってどうですか?先祖が家に帰って来るという設定で、先祖の霊を歓迎します。本当に先祖が帰って来るのならば、歓迎したらいいです。私の親父とお袋がいなくなりましたが、年間一度家に戻って来るなら、一同集まって、歓迎したいと思います。しかし、先祖ではなくて、「オレオレ先祖」だったら、どうなりますか?
 「オレオレ!先祖、先祖!」と言う声を信用して、戸を開けたら、良いものを全て奪われる事になるでしょう。
 日本人は先祖崇拝は大切だと思っていますが、本来、命をくださった根源に感謝する所から始まったそうです。命をくださった根源とは誰ですか。天地を創造され、生命を創造された、創造主なる方です。しかし、人は、命をくれたのは両親だ、先祖だと考えて、礼拝してしまうわけです。
 聖書によれば、両親は敬えばいいのです。しかし、礼拝してはいけないのです。礼拝すると、「オレオレ先祖がやってくる」ということです。
 ゲラサの例を見ても、よく分かるのですが、

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 右のほうがゲラサの町です。左は墓です。見てください。町の郊外に墓があって、拡大するとこんな感じです。古代の墓です。

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 墓の前に広場があるでしょう。当時、ギリシャ系の住民たちが何をしていたかというと、先祖の命日に、広場にごちそうを持って来て、先祖の霊を呼んで礼拝する儀式を行っていました。祖先崇拝をやっていました。それが大きな原因で、墓場に住み着き、人々を苦しめる存在が生まれたと考えられます。
 先祖崇拝って、感情も関わりますから、離れるのが難しいように思うけれど、実際は人々を苦しめる、大きな力です。命を与えて下さった創造主を礼拝し、感謝するのです。しかし日本人は、「自分の両親が命をくれた」と考えます。両親が命を用意したわけではないです。命を用意してくれたのは、根源的なお方です。その方を礼拝して、父と母は敬うだけでいいのです。それが聖書の教えです。これを間違うと、オレオレ先祖がやってきて、騙されて、誰にも抑えることのできない、大きな問題が生ずる可能性があるのです。

 この事に気づいて、「これは先祖ではない!先祖のふりをしたオレオレ先祖だ!」と分かって、「悪霊ども、レギオンども、出て行け!」と立ち向かったら、おおいは取られて光が輝くわけです。今の時期、その事をしっかりと押さえなければいけないです。
 このように聖書の中に、情報があるわけです。二千年前のことだから、自分とは関係ないと思うけれど、ゲラサは、ヘレニズム文化といって、ギリシャ風の町だったのです。当時の人たちと、日本人の持っている霊的世界観は同じです。

 もう一つは、以前にも、話しましたが、街の中心には神殿がありました。

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 ギリシャ神殿がありました。ギリシャ神殿を地域住民全体で拝んでいました。どういう存在が祀られていたのか、ハイファ大学とアメリカの大学が発見した当時のコインから推測できます。コインには、馬に乗った女神が描かれています。この街は、スシータと呼ばれますが、「雌馬の町」という意味です。ギリシャ神話には、馬の頭をした女神がいます。それが「デメテル」です。また、ポセイドンが馬を作る過程で、失敗作がカバだと言われます。ヒッポスという名称にも関係があって、この街では、「豊穣神デメテル」が祀られていたと思われます。

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 デメテルが祀られていたと仮定すると、自然界が荒れくれて風が吹いたというのも、豚が滅ぼされたのも、理由も分かります。デメテルには聖獣がいて、それが豚でした。豚も礼拝の対象でした。デメテルが拝まれていたと仮定すると、聖書の記述の謎が解けます。
 いずれにしても、町の真ん中にある、日本で言ったら神社です。地域住民全員が拝む神殿が、レギオンを呼び込むもう一つの原因となっていたと考えられます。「祖先崇拝」と「ギリシャ神殿礼拝」という、「二つの偶像礼拝」が、地域に重大な問題を引き起こす原因となっていたと考えられます。
 イエス様が背後に働くレギオンを追い出したことによって、地域住民に光が輝いたのです。

 一九九二年七月九日、主が、新城で霊的戦いを始められました。設楽原は、戦いで一万六千人も死んだ場所です。神社仏閣のほとんどが、そのテーマで成り立っています。年間一度は、盛大な供養がなされているし、祖先崇拝が熱心になされています。その背後に、レギオンという力が働いて、町にはおおいがかかっている、クリスチャンが立ち上がって、悪霊どもに立ち向かったら、光が輝く!と教えてくださったのが一九九二年七月のことでした。
 今年はそれから、二十五年経ちます。これから、もっともっと、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられることを期待します。
 やがてイエス様が帰って来られる時には、この土地も、血なまぐさい土地ではなくて、神の国建設のための場所として、準備されていると信じます。

 今日は、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるためには、おおいが取られることが重要であることを学びました。
 罪にも二つの方向性があって、神に対する反逆、すなわち、自分自身の決断の領域と、宇宙的な諸力と関係する領域があることも学びました。私たちは決断と共に、宇宙的な諸力に、与えられた権威によって立ち向かっていく時、おおいが取られて、主と同じ姿に変えられていく、楽しいクリスチャン生活、幸せなクリスチャンホーム、幸せな地域が、国が出来ると信じます。霊的戦いは、そのために、重要な働きであると信じています。
 祈りを持って聖餐式にうつっていきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちのおおいを取ってくださり、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えてくださる約束を、心から感謝します。百パーセント、主の栄光を輝かす者になれますように。
 この地をおおっている、暗闇の力に対して、立ち向かい、勝利することができますように。今日は特に、レギオンが打ち砕かれるために、血潮を仰ぎ、聖餐式を持ちます。地域住民が関わっている偶像礼拝から働く、暗闇の力が打ち破られますように。祖先崇拝から働く、死の力、破壊の力が打ち破られ、主の勝利を見ることができますように。
 今、パンとぶどうのジュースを、御言葉と聖霊によって、主と一つになる機会としてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。