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「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜時を取り戻せ~」

2019年1月6(火)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙5章15節〜20節

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』


 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。そして、新年あけましておめでとうございます。
 二〇一九年が始まって六日間が経ちましたが、先週は主を賛美し、祈り、みことばに浸って一年を始めることが出来て感謝しています。

 今年一年間、どんな年になるのか分かりませんが、信仰を持って進んでいきたいと願います。お隣の方に、「今年はあなたにとって最高の年になります!」と信じ切って、宣言してあげてください。
 信仰の宣言が未来をつくります。今年は最低の年になるなんて宣言しないでください。今年は最高の年になります!

 新年の六日間、教会ではさまざまな集まりがあり、大変忙しい一週間でした。そんな中にも、主の守りとタイミングを感じることができました。
 実は先週、召天式がありました。豊田から来られているHさんのお父さんが八十六歳で亡くなられたからです。
十二月のクリスマスの週でしたが、ちょっと危ないということを聞いて、忙しかったけれど、今週中に絶対にお父さんの所に行って伝道しないといけないと感じて、病院を訪問しました。
 すでに息子さんご夫妻がお父さんにイエスさまを受け入れるお祈りをしていたのですが、私は病室に入った途端に、「今日はこの人に、はっきりとイエスさまを告白させ、バプテスマを授けなければいけない!」と強く思いました。
 病室に入ってすぐに、「お父さん、イエスさまを信じたら永遠のいのちが与えられますよ!」と語り、ヨハネの福音書十四章を読んで、それから、「信じてバプテスマを受ける者は救われる、と聖書にありますから、バプテスマを受けましょう!」と言って、死にかけた病人を水の中に浸けるわけにはいきませんから、頭に水を注いでお祈りさせていただきました。
 バプテスマの前に、水を入れる容器はないかなと探したら、おじいちゃんの入れ歯を入れる容器があったので、そこに水を汲んで来て「父と子と聖霊の名によって、バプテスマを授けます!」と宣言して、授けさせていただきました。お父様は深くうなづいて、たいへん喜んでおられました。
 その後、意識がなくなられ、一月二日に安らかに天に帰って行かれました。いや〜、あの日に訪問して良かったなと感謝しました。
 そして、先週はご自宅で召天式を行わせていただきました。

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 自宅での召天式のわりにはクオリティーが高かったです。ピアノの演奏や、詩の朗読があったり、お父さんとは思い出がありましたのでメッセージも語りやすかったです。
 この方はすごい方で、サランラップを開発した科学者です。ギリギリでイエスさまを信じて、滑り込みセーフ!みたいですが、今頃、神の国で喜んでおられるのではないかと思います。
 やはり機会をつかまえていかなければいけないですね。今、読んでいただきました聖書箇所に、

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』

とあります。「悪い時代」の「悪」とは、究極的には、「本来、邪悪な意図を持った存在」と説明されていました。「悪」とは概念ではなく、存在なのです。悪魔•悪霊どもはどのように働くのかと言えば、神のタイミングをずらす働きです。タイミングさえずらしたら、神のみこころは成就しませんから、その為に悪魔は真剣に働いていると思います。
 もしも私が十二月二十四日に、お父さんの所に行かなければ、お父さんの永遠が変わっていたかもしれないです。あのタイミングで、洗礼も授けさせていただいて本当に良かったです。
 ご家族が、私がお父さんに洗礼を授ける場面を動画に撮っておられて、召天式で流されました。ジャンバーを着込んで帽子をかぶって、変な格好で洗礼式をやっていました。もう少し厳粛にやればよかったなと思いましたが、あの時しかタイミングはなかったです。

『ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』

とありますが、主のみこころってどこにあるのか、それは、時の流れの中の一瞬のタイミングだと思います。
 そのタイミングを掴むか掴まないかで、未来が大きく変わるのです。ですから私たちは常に祈り心を持って賢く歩まなければいけません。

 二〇一九年、エペソ五章にあるように、『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、』を点検して始めたいですね。
「賢く歩む」とは、神が用意してくださっている、絶妙なタイミングを掴まえることです。機会を十分に生かすの「機会」は、ギリシャ語では「カイロス」といいます。ギリシャ語には時の概念が二つあって、「クロノス」と「カイロス」とに分かれます。
 「クロノス」とは、時の流れですが、「カイロス」とは「特定の時」です。いわば「神の時」です。
 それを掴まえることができるか否かが、一年を賢く生きるか否かにかかって来ます。ゆえに、カイロスを掴むためには祈りが必要です。祈りがあれば、神のみこころと共に歩むことができます。カイロスを掴み損ねると、回復するまでに時間がかかるということではないでしょうか。

 今月の日曜日の午後は愛知県民の森に行って、皆で祈るプログラムです。午後一時半にバスが出ますから、県民の森に行って、賢く生きることができるようにお祈りしていただきたいです。
 昨日は子どもたちが新城市全体が見える雁峰山に登って、この町の祝福を祈ってくれました。「この町に主イエスを!」と、先ほども賛美しましたが、「この町にイエスさま来てください!」と子どもたちが真剣に叫んで祈ってくれました。
 私もよくこの場所に祈りに行きます。新城市を始め、東三河一円が見えますから、イエスさまがエルサレムを見て涙を流して祈られたように、私たちも町全体が見渡せる所に立っての祈りは、大変重要です。
 それも自分たちのためだけでなく、町に住む人たち全員が祝福され、健康で生きることができるように祈る役割です。
 なぜならクリスチャンは、神が造られた被造物の管理人だからです。創世記一章二十八節、

『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

この地の管理人として、使命を果たさなければいけないですね。自分さえ良ければいい!というのではなくて、神が造られた被造物全体が祝福されて、喜びに満たされ賛美する世界、宇宙になったら、その中に住む私たちも幸せに生きることができるからです。
 天の高き所から、地に満ちるすべてを管理するのは、他でもない、私たちクリスチャンの役割です。そのような意識を持って賢く生きていくべきです。

 しかし悪魔は、人々を神のみこころから引き離し、悪魔のタイミングで世界を牛耳ろうとしています。悪い時代だから、気を付けろ!と聖書は語っています。

 賢い人とはどういう人かが、五章に記されています。
 一つは、「神のみこころが何であるかをよく悟りなさい。」とあるように、神のみこころを悟る、クロノスという時間の流れの中の、カイロス、神の時を掴む人です。

 昨年もいろいろ神のわざを見せていただきましたが、神のわざって、聖霊に満たされて頭から湯気が出るような状態の時に起こるというよりも、何気ない中でふっと出てくるものです。カジュアルに神の時は現れるのです。ですからある意味、油断できないです。
 断食して祈っている最中に神の時が現れれば分かりやすいですが、普段の生活のただ中に糸口が出てくる事が多いからです。ゆえに、刻一刻を主とともに過ごす必要があります。そのためにも十八節、

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』

 酔っ払いは酒に支配されています。昔は道端で酔っ払いのおっさんをよく見かけました。この頃はあまり見かけなくなりましたが、よっぱらいがドブの臭い水の中にはまって「いい湯だな」と勘違いして、温泉のように思っている人がいました。どうしてそんな勘違いをするのかといったら、酒に支配されているからです。それは悪い勘違いです。

 聖霊さまに支配されると、悪いものの支配ではなくて、聖霊の支配で賢く生きることができるのです。ですから聖書は「酒を飲むな」と言っています。
 日本は酒の席でビジネスが決まったり、酒が人と人とをつなぐ要素みたいになっていますが、クリスチャンになったら、酒を飲んでは駄目です。なぜなら酒は、悪魔が使う常套手段だからです。

 パウロはなぜ『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。』と語ったのかというと、当時、地中海沿岸では、ぶどう酒を多く醸造していました。そして、ぶどう酒を作る時には必ず、一つの儀式がありました。それは酒神バッカスを祀り、酒とバッカス神を関連付けて、ぶどう酒が作られていたからです。ゆえにぶどう酒は、悪霊の飲み物となっていたわけです。
 偶像にささげた食べ物とか肉に関してパウロは「悪霊と交わることになる」と語っていますが、実に、ぶどう酒が、バッカス神を招いて醸造されていたわけで、悪霊と交わる飲み物となっていたわけです。ただ単にアルコールによって人格を奪われるというよりも、悪魔に心を奪われる危険性があったのです。だから、「酒を飲んでは駄目だ!」と告げたわけです。

 実はこの話は、今から二千年前の話だけではありません。現在の日本も同じです。日本の酒作りには必ず、日本神話の神々を祀るのです。奈良県に大神神社という神社があり、三輪山という山があります。そこには酒神、大物主が祭られ、全国の酒樽が捧げられています。三輪山に霊を降ろして、酒作りを始めます。
 だから酒は、日本においては悪霊と関係づけられた飲み物です。ゆえに知らない内に、悪霊に心を占領されるのです。そして聖霊の満たしから遠ざかり、悪霊に心を奪われ、人生を奪われていくのです。クリスチャンになったら、「私は酒を飲みません!」と、はっきりと宣言する事が大切です。酒の席に行って、「一杯飲みなさい。」『あっ、今日は車で来てますから。』とかではなくて、『私はクリスチャンですから飲みません!』と、はっきり宣言したほうがいいのです。
 悪魔は、単純な方法で人に関わる方法を知っています。人に酒さえ飲ませておけば関連ができるからです。
 賢く生きるために、『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』
そして十九節、

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』

 賛美は賢く生きる為のアイテムです。私たちが常に祈り、主への賛美の中で生きるのは素晴らしいですね。

 昨年は一日に七回賛美する勧めがありました。七回はなかなか難しかったですね。朝起きて歌って、朝ご飯食べて歌って、十時に、昼に、とやっていましたが、忘れて二回分、三回分とか歌いましたが、常に賛美が溢れているのは大切です。

 以前にも話しましたが、詩篇一四九篇に「最高の賛美」が示されています。最高の賛美は、どこから出てくるのかというと、「床の上」というのです。
 朝、起きがけに頭の中をめぐる賛美、あれは主と1日を関連付けるテーマの賛美ではないかと思います。
 朝起きた時に、自分が歌おうと思っていないのに賛美が巡っている、寝床の上で与えられる賛美は、詩篇一四九篇に出てくる、『彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。』という、両刃の剣の賛美だと思います。
 今年みなさん、毎日を賛美で満たしていただきたいです。

 先ほども聖歌隊の賛美、すばらしかったですね。いずくまでもいかん。「いずく」ってどこかなと思いましたが、どこまでも付いて行く!ということでしょうか。イエスさまにどこまでも付いて行く!賛美と共に付いて行く!賛美に満たされた生活をしたら、絶対に間違いないです。

 何が心を支配しているのかが、人生を決めるのです。
 先日、ある小話を読んだら、こんなのがありました。ある船が沈没しそうになり、もう駄目だ、脱出できない。全員が死ぬということで、船長が皆を集めて、最後の遺言を録音させたというのです。
 まずアメリカ人が、「家族に伝えてくれ。みんな大事に思っているよ。」と録音したそうです。
 次にイタリア人が、「恋人に伝えてくれ。永遠に君を愛しているよ。」と録音しました。
 最後に日本人が来たというのです。すると日本人は、「本社に伝えてくれ。商談途中でこんなことになって申し訳ない。」と言って、録音を終えたというのです。
 国々によって心の価値観が違うわけです。アメリカ人は家庭のことを思っている人が多いみたいです。イタリア人は恋人の事ばかり思っているみたいです。しかし日本人はどうでしょうか。会社のことが中心です。みなさん会社に魂を抜き取られないようにして下さい。
 私たち労働者は、労働力を会社に売って仕事している者達です。会社ではなく、私たちが主体です。ですから会社に献身度を深めると、魂を抜き取られます。常にイエスさまを第一にして、心の中が賛美と祈りで満たされる生活ならば、人生はうまくいくはずです。

 十二月三十一日のカウントダウンワーシップの時に5人の牧師たちが2019年に向けて、指針となるみことばを語り大変恵まれました。
 実は今日すでに、カウントダウンワーシップで語られたメッセージと、ニューイヤーセレブレーションで私が語ったメッセージが印刷され、できあがっています。すごいでしょう。私は来週か再来週くらいかなと思っていたら素早いです。あっという間に、テープ起こしをして、校正して、印刷までできあがっています。
 神さまは今年のみことばを、かなり重要に考えておられるようです。是非とも持ち帰って、じっくりと読んでいただきたいです。
 ここで語っている時よりもクオリティーが上がっていますから。間違ったところは修正し、欠けている所は足していますから、そのほうがよく分かると思います。
時々言われます。「順先生のメッセージは後から読んだほうがよく分かる。」そりゃぁ、修正しているからです。聞いて、その後、読むとしっかりご理解いただけます。

 フェルナンド先生は、「新しい年に入る前に準備なさい!」と語っていました。「そのまま入るのではない!」とね。私たちはよく備えて、主との関係をちゃんと正して、聖くなって、イエスさまをお迎えして、それから新しい年を迎えるようにと語られました。霊的にリセットして、新しい年を迎えるのは大切です。

 次に、四元雅也先生が語ったのは、福音宣教は多少ストレスがあっても、どうしてもしなければならない使命だと語っていました。
 今年も国内宣教と世界宣教があります。三月にはネパール宣教もあります。まだネパールに行ったことがない方、是非とも行っていただきたいです。ネパールに行きますと、心が変わります。人間って本来こういうものなんだろうなぁという気持ちにさせられて、心がリセットされる気がします。
 チェパン族という山の中に住んでいる、近代文明を頑なに拒んでいた人たちですが、そこに福音が入って、私たちは七年、八年にわたり、毎年、宣教活動をしています。最近では、チェパン族のお宅にホームステイさせていただいたりして、良い関係になっています。
 やっぱりそこに行くとストレスがあります。ネパールの空港に着いたとたん、「家に帰りたい!」と思いますが、多少ストレスでもやることが神のみこころなのです。ストレスから逃げないで!と、私は付け加えて話させていただきました。

 上條先生は、今年、神は私たちと結んでくださった契約を実現してくださるという、希望のメッセージでした。
 今まで叫び、涙を流してきたけれど、なかなか動かなかった領域について、あなたと結んだ契約を忘れていませんよ!今年は、契約を実現しますよ!という励ましのメッセージでした。

 次に岡本信弘先生が、そのメッセージを受けるかのように、約束を手に入れるためには、信仰が必要だと話しました。
 祈りの答えはすでに、未来に実態としてできています。しかし、それを勝ち取るためには信仰が必要です。見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないことを神はしてくださると語りました。
 また、この国のために祈れというメッセージが与えられました。

 そして最後に、滝元開先生が、途中で諦めないで、繰り返して続けなさいというメッセージでした。途中で諦めそうな時がありますが、諦めずに私たちは続けなければいけない。祈り続ける、賛美し続ける、みことばを語り続けるという、態度が必要だと教えられました。黙り込んではいけない!と語られました。

 そして私に今年、主から与えられていると信じているみことばは、「ルカ十章十七節〜二十一節」です。復習も兼ねていますが、私が今年、主から印象深く与えられているみことばを、ご紹介したいと思います。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』

 以前もこの箇所に心が止まり、語ったことがあるのですが、もう一度この箇所を示されました。
 イエスさまには十二弟子という、有名な弟子たちがいたのですが、ここに出てくるのは「七十人の弟子たち」という、野球でいうなら、二軍のような人たちです。七十人の弟子が誰であったのかは記されていません。他の箇所では七十二人と書かれている所もありますから、七十人から七十二人に変動するような、そんな人たちの中に起こった出来事です。
 イエスさまがこの七十人の弟子たちを、二人で一組にして、ご自分がやがて行こうとされている町々、村々に派遣したのです。派遣する前、イエスさまは、この弟子たちに一つの注意を与えました。それは何かというと、「あなたがたを町々、村々に送るのは、オオカミの群れの中に小羊を送るようなものだから、よくよく気を付けなさい!」と言われたのです。
 そんなことを言われて、七十人の弟子たちは、相当びびったはずです。一軍が行くならまだしも、二軍である自分たちが、イエスさまがこれから行こうとしている町々•村々に、事前に生け贄のような形で、オオカミの群れの中に小羊が入っていく、そんな恐ろしいこと、とてもじゃないと、びくついたと思います。
 しかし彼らが帰って来た時には、イエスさまが言われた注意を忘れ去るような、大勝利と共に帰って来たのです。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』

 彼らが町々•村々に入って行き、イエスさまの名前を使ったら、悪霊どもも、そのみ名の下にひれ伏したというのです。
 七十人の弟子たちは、イエスさまが悪霊を追い出す光景を何度も見ていたと思われます。悪霊どもがイエスさまにひれ伏して、命乞いをする場面を何度も目撃したと思います。しかし「俺たちにはこんなことはできないな、、」と思っていた事でしょう。
 なんと、脅されて行ったら、予想に反して、イエスさまが一緒に行ったのと同じ現象が起こったのです。
それでイエスさまは何と言われたのかというと、

『「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

こんなすごいことばを語ってくれたわけです。「こういうことは先に言ってよ!」という感じですが、私たちクリスチャンは、皆、同じです。
二〇一九年を始めるにあたり、一抹の不安があることも確かです。二〇一九年は、どんな年になるのかなぁってね。世の中も荒れているし、自分の人生もどうなるか分からない。歳を取ってきたから、今年は倒れるかもしれない、病気になるかもしれない、事故が起こるかもしれない、家族の中に問題が起こるかもしれない、、。オオカミの群れの中に小羊が入っていくようなものだと、鴨が葱を背負っていくようなものだ!という不安ってあると思います。
 しかし不安はあってもいいのです。「注意して入れよ!」とイエスさまが言われたからです。私たちは注意深く、祈り心で、みこころを求め、賛美しつつ、聖霊に満たされて入っていくことは重要です。
 しかし同時に知らなければいけないのは、イエス・キリストを信じている者たちには「権威が与えられている」ということです。
 どういう権威かといったら、十章十九節です。ちょっとみなさんで十章十九節を、自分のこととして読んでみましょうか。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 すばらしいみことばですね。私たちもある意味、びくつきながら二〇一九年に足を踏み入れていますが、私たちには神の約束があります。それは「害を加えるものは何一つない!」ということです。
次に、イエスさまが語られたのは二十節、

『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

案外、このことばは「霊的戦いの勝利もすばらしいけれど、最も感謝しなければいけないのは、我々が救われて天国に行くことができる、天に名が記されている事を喜べとイエスさまは言われたじゃないのか?だから現象的に勝利したことで喜んでいてはいけない」という意見です。しかし、それは当時の人たちが持っていた名前に対する世界観を知らないと、このような間違った理解になってしまうのです。

 私たちに付いている名前は、ある意味、一つの記号です。私は「順!」と呼ばれると、雑踏の中でも振り向きます。みなさんもそうですよね。自分の名前を呼ばれたら、振り向きます。名前の法則ってすごいです。
 先日も、こども園に孫を迎えに行ったのですが、どの子がうちの孫かさっぱり分かりませんでした。園児たちは、同じ帽子をかぶり、同じ臭いがするし、同じ動きをするのです。でも名前を呼ぶと出てくるのです。名前がなかったら、どうやって特定するのだろうと思いました。名前を知っていたら一発で呼び出せます。
 名前は一つの記号みたいなもので、それである人を特定できるというのが私たちの中心にあります。

 しかし、ヘブル的理解、イスラエルにおいては、名前にはもっと深い意味がありました。それは「名は体を現す、名前はその人自身」という考えでした。
 ということは、「天に名がしるされている」というのは、イエスさまは天において、すべての権威をお持ちの方ですが、天にあなたの名がしるされているとは、「あなたはイエスの名前とイコールです。」と言う意味になります。
 「イエスさま」という名は体を現し、イエスの名前で悪霊は出て行くし、病は癒やされるとしたなら、天に名がしるされているというのは、「あなたは滝元順ではない、イエスだ!」というのと同じです。しかしそれは、あくまでも、天に名が記されている結果としての事実です。言いかえれば、「イエスさまという名の中に、滝元順が含まれている。」ということです。
私が行くようだけど、イエスさまが一緒に行ってくれる。名は体を現しますから、イエスさまの名前を使えば、イエスさまが来たのと同じことが起きるということです。これが名が天に記されているという意味です。
 「あなたはイエスの名前の中に含まれていますよ!それゆえに天で起きること、イエスさまによって起きることが、地上で起きるんですよ!」ということです。

 みなさんはすでに、イエスの名前の中に含まれています。ゆえに、あなたに害を加えるものは何一つありません!ということになるわけです。
 私たちはイエスの名前と共に、二〇一九年という未知の領域に踏み込んで行きたいです。

 しかしここでイエスさまが不思議なことを語られました。十章十八節に、

『イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。』

 どうもイエスさまは、七十人の弟子たちを伝道に遣わして、自分はどこかで休暇をとっていたわけではないみたいです。イエスさまは七十人の弟子たちが宣教している間、霊的には彼らと一緒に行かれたみたいです。
 そうしたら一つの光景を目撃したというのです。それは、「あなた方が村々、町々で伝道している時、天からサタンが落ちるのを見ました!」と言ったわけです。「わたしが見ていると、サタンがいなずまのように天から落ちた!その光景を見た!」というわけです。
 イエスさまは、本当に目撃したのでしょう。それゆえに勝利があった、ということです。

 人生の勝利は、天で支配権を行使しているサタンを落としたら勝利するのです。ヨブ記に出てくるように、天の会議にサタンが入り込むと人生は負けるのです。しかし、天の領域から訴えるものが落ちたら、人生の中に勝利が来るのです。この法則を知らないといけないです。
 イエスさまが一緒に行ってくれると、天で訴えるものがいなずまのように地に落ちるのです。ゆえに、あなた方は勝利を勝ち取ることができたのですよと。
 目に見えない世界での勝利が、地上の勝利になるのです。見えない世界で敗北すると、地上の敗北です。だからクリスチャンは、見えない世界で勝つか否かが勝負です。
 今年、何を優先にしなければいけないかといったら、目に見える世界ではなく、見えない世界を優先しなければならないのです。

 しかし、サタンが地に落とされたのは、創世の初め、天地創造の場面のどこかです。なぜならエデンの園にアダムとエバが造られた時、すでにヘビがいたからです。

 そしてもう一つ、サタンが天から落とされるのは、世の終わりに起きると聖書は告げています。黙示録十二章七節〜十節に、そのことが書かれています。

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。』

 悪魔•悪霊どもは『私たちの兄弟たちの告発者、』とありますから、天でクリスチャンを告発しているみたいです。しかしサタンが落とされると勝利するのです。
 聖書全体から見れば、創世の初めと世の終わりにはサタンが天から落ちる記述はあるけれど、その間はどうなのかということです。
 しかし、イエスさまは宣教のただ中でサタンが天から落ちるのを目撃されたのです。

 実は聖書を読んでいて、時々、混乱することがあります。あれ〜、この記述って、旧約聖書の記述なのに、なぜ今、支配を現しているのか、新約聖書にアブラハム、イサク、ヤコブが出てきたり、時制が前後しているような記述が結構あります。それはイエスさまの発言の中にもあります。あれ?イエスさまはどのような時間的概念を持っておられたのかな?と、聖書を読みながら疑問を持つことがあります。

 一月一日にもお話しさせていただいたのですが、先日、私は「舟の右側」という雑誌の一月号に、私の記事が出ているので読んだら、興味深い記事が載っていました。
 それは、山口という先生が、日本の神学者で「大貫隆」という教授がいるのですが、その人の本を紹介していました。それが「イエスの時」という著作でした。私も早速それを取り寄せて、彼が論じている論文なども読んでみたら、イエスさまが持っていた時間的概念がどういうものかが、明らかにされていました。こんなふうに書かれていました。

“イエスの今においては、過去と未来が一つになっている。私はこの今を「全時的今」と呼ぶことを提唱した。”

イエスさまの「今」は、「今」と言っても、過去と未来をすべて包括する時間的概念を持っておられたと言うのです。
私たちは今と言ったら今ですね。現在、そして現在進行形の今です。今とは時の流れの一断面です。しかしイエスさまの「今」とは、過去と未来を包括して、「今」と呼んでいたというのです。

 だからサタンが地に落ちたというのも、聖書の始まりと終わりに記されているけれど、それも含めて全時的今の概念で捉えておられたわけです。
 もしも私たちが、イエスさまの名前の中に含まれるのであれば、同じように、時間を超越する領域の中で歩むことができるはずです。
 最初に読んだエペソ人への手紙五章十六節に、

『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』

と勧められているのですが、「機会を十分に生かせ」というこのことばは、原文においては「時間を贖え!時間を取り返せ!」という意味です。
 宗教改革者カルバンは、「時間をサタンから奪い返せ!贖い返せ!」と解釈しました。新改訳では、「機会を十分に生かして用いなさい。」と訳されています。「時間を勝ち取れ!」みたいに訳すと、大丈夫かみたいに思う人がいるから、そのように訳したのでしょうか。キングジェームス訳では、「Redeeming the time, because the days are evil. 」とそのまま訳しています。本来は、「時間を贖う、または時間を勝ち取る、取り戻す。」という意味です。

 イエスさまは過去、現在、未来に支配されていたのではなく、全時的今と呼ばれるような、過去から現在、未来をすべて包括して「今」と表現され、時間のすべてに対して、勝利をもたらされた方であるということです。
 「機会を十分に生かして用いろ。」とは「時間を勝ち取れ!」という意味です。

 どうでしょうか。過去のさまざまの生活の中で、「あそこで負けたな、、」ってあるじゃないですか。「あの時に負けたから、今がある。」「あの時に割れてしまった!」という事柄って誰でも多少はありますよね。
去年は、私たちの教会の中に時間ということに関して、とりなし祈る種が蒔かれたと思います。割れてしまった腕時計が直った奇跡も起こりました。それは何を意味しているのかと言えば、イエスさまは時間に束縛される方ではないということです。
 私たちも時間に捕らわれて生きているようだけど、実は、過去も現在も未来もすべて包括するイエスさまと同じ時間を生きているのです。

 二十世紀になって「相対性理論」が発見されて、時間とか空間は、不変で一定のものではないことが証明されました。時間とは、伸びたり縮んだりするものなのです。
 「一般相対性理論」によれば、過去、現在、未来は、同時存在していると考えないと、世界は成り立たないわけです。私の生きている時間と、みなさんの生きている時間は、微少ですがずれているのです。空間を動いていたり、重力が違ったりすると、時間はずれるのです。高い所に登ったりすると時間がずれます。以前にも話しましたが、東京スカイツリー六百三十四メートルの頂上に行きますと、頂上のほうが重力が弱くなりますから、時間が早く進みます。四十五万年に一秒しか進まないので、実際には影響はないですけれども。
 でも高さとか距離とか動きで、一人ひとりに時間のずれは生じるわけです。
 だから極端なことを言えば、今、十二時近くなってきましたが、私は十二時に生きていて、みなさんを見ているのですが、もしかしたら私は、みなさんの過去、十時半を見ているかもしれないし、みなさんは私の十二時半の未来を見ているのかもしれないという事実が、一般相対性理論で判明したのです。
 ということは、時間も、空間も、神の被造物だということです。

 やがてイエスさまが帰って来られる時には、すべての人が神の前に出て裁きを受けなければいけないのです。怖いですね。どういう裁きかについて、黙示録二十章に記されています。これはヨハネが見た幻です。
黙示録二十章十一節〜十五節、

『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』

 これが最後の審判の場面です。歴史上のすべての人類は、神の前に立たなければならない厳粛な瞬間が来るのです。天に名がしるされていなかったら、火の池に投げ込まれるというのです。恐ろしいです。
 しかし神は、むやみやたらに人を火の池に投げ込むわけではないです。書物が開かれ、自分の行いに応じて裁かれたというのです。
 これは何かといったら、私たちが今まで過ごしてきた過去の領域が消えていない事を意味しています。過去も厳然として残っているのです。見たくない場面もすべて見させられるのでしょう。「おまえは言い開きができるか?できないだろう?」それで、「この証拠のゆえに、おまえは神の国に入ることができない!」ということになるわけです。
 ということはどうでしょうか。過去が消えてしまったものならば、この記述は成り立たちません。物理学でも証明されているように、過去も現在も未来も、大きな「時空」という入れ物の中で今も残っているということです。
 ということは、逆に言えば、過去は取り戻すことができないように考えるかもしれないけれど、取り戻す事も可能になります。もしも過去に罪を犯したならば、その場面は今も厳然として、ある時点にあるのです。時間差のある人があなたの過去を現在として見れば、その場面を目撃されてしまう可能性だってあるわけです。
 しかし、イエスさまが全時的今というような、過去も現在も未来も、分け目なく扱われるならば、私たちにとって取り戻すことのできない過去の時間も、贖い、取り戻すことができるはずです。

 最近はデジタル化してしまったので馴染みが薄くなりましたが、今までは映画はフィルムでした。フィルムは平面です。二次元です。私たちは三次元空間に生きているので、例えば、あの四コマの場面は良くないな、見たくないと思ったら、切り取って編集できます。そして新しく継なぐことができます。私の中からあの部分を消したい!それが二次元だったら、消して新しくすることができます。
 私たちは時空の中に住んでいますが、それ以上の領域に住んでいる神さま、イエスさまは、時間を贖うことができるお方です。過去の中で、取り戻せない、どうにもならない場面も、映画のフィルムなら編集して、いらない所は切り取り、結ぶことができるように、私たちの過去だって切り取り、聖くすることができるのです。
 賢い人とは、機会を十分に生かして用いる人を越えて、時を取り戻す人です。

 イエス・キリストを信じるならば、罪が赦されるわけですが、罪の赦しとはどういうものか。

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 時空の入れ物には、過去、現在、未来、特に過去に犯した罪が、今でも汚点となって影響を与えているわけです。
 しかし時を取り戻すとは、過去にあった悪しき部分を全て切り取って下さるのです。それらをなくしてくださり、聖いものとしてくださるのです。

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 恐竜なんかも絶滅したり、人間の罪で多くの生物が消えました。これで完全になくなって消えてしまったら神の負けです。絶対、どこかに残っているはずです。
 イエスさまの十字架は、全宇宙的な勝利ですから、この時空の中の悪しきものを取り去り、勝ち取ることができる。これがイエスさまの十字架の勝利です。

 賢い人、それは時空の中に今も残っているような過去の罪をすべて取り払って何もなかったかのようにしていただける人です。それが真に賢い人ではないでしょうか。
 あるユダヤ教の旧約聖書の専門家がこんなことを語っています。ユダヤ教の神学者だから、割り引かなければいけませんが、ちょっと難しい言葉です。

「救済された人類にして、初めてその過去が完全な形で与えられる。ということはつまり、救済、解放された人類にして初めて自らの過去のどの瞬間も呼び出すことができる。人類が生きた全ての瞬間が、議事日程に呼び出されるものとなる。この日こそ最後の審判の日に他ならない。この最後の審判の日以前の、その都度の現在時に、かすかながらも、メシヤ的力、すなわち過去をイメージとして解放し、現在回帰させる力が宿るのは、他でもないその最後の審判の日を待つ完全なメシヤ的解放の力が現在へ射し込んでくるからである。こうして過去は超越的未来、終わりから到来する指標の下で、初めて読解可能なものとなる。その解読の瞬間が現在時なのだ。」

このように論じられていますけれど、この神学者はユダヤ教ですから、最後の審判を信じています。ユダヤ教の人たちも旧約聖書を勉強していますから、微かながら過去を取り戻す感覚があるのでしょう。
 しかし私たちは、微かではないのです。イエスさまの十字架の勝利がありますから、過去も現在も未来も全て扱うことのできるはずです。十字架の勝利によって、すべて時を贖うことを可能にしてくださったのが、イエス・キリストです。
 やがてすべての被造物が、主の前に出て賛美する瞬間を迎えます。黙示録五章十三節、

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

 創世の初めから世の終わりまで、地上に現れたすべての生き物が主を賛美する日が来るわけです。この賛美集会を準備するのが、他でもない、私たちクリスチャンと教会の使命であるのです。
 賢い人、それは時を贖うことができる人です。イエスさまの名前の中に私たちが含まれているならば、時さえも勝ち取ってくださる。自分の過去はただの記憶の中だけではなく、厳然として残っているはずです。

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 その領域を二次元的に示せば、フィルムの中に書き込まれて、このまま写し出されたら恥ずかしくて、どこに隠れていいのかというような部分も勝ち取って、何もなく、聖くしていただくことができる特権を心から感謝して一年間、時を贖い、勝ち取っていく者になっていきたいと願っています。

 それを与えてくださったのがイエスさまの十字架です。今から聖餐式を持ちたいと思いますが、イエスさまの十字架は時空の中に現実的に残っているすべてを勝ち取って下さると信じて、聖餐にあずかりたいと思います。

 ガラテヤ人への手紙六章十四節、

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』

 ハレルヤ。天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。あなたは時空を越えて、私たちに働きかけることができる方ですから感謝します。イエスさま、あなたの名前の中に私たちが含まれているならば、時空を越えて、時を取り戻し、贖うことができます。
 今日は年の始まりに聖餐式を持つことができますことを感謝します。これを小さなものとして矮小化することなく、時空を越えて贖うものであることを信じます。
 過去のすべての罪も汚れも、十字架の血潮によって切り取ってください。イエス・キリストのみ名によって、聖餐式を始めます。アーメン。