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「あなたは良いもので満たされます! パート7 
〜良い知らせを宣言しよう〜」

2017年3月19(日)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書40章9節〜11節

『シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。春らしくなり、すばらしい季節になってきました。明日は春分の日で休みでもあります。今日は一日、リラックスして、教会でお過ごしいただきたいと思います。
 今日は夜八時から「二十五時間連鎖賛美」があります。今年は聖霊が注がれて二十五年目の記念の年です。それを記念して、二十五時間、主を賛美しよう!という企画です。ぜひ、お出かけくださり、共に主を賛美していただきたいと思います。

 今朝、早く起きて、この近所を歩いたら、春になっていました。朝撮った写真ですが、菜の花も咲いていますし、梅や桜も咲いていました。

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 本当に春っていいなぁと思います。長い冬をくぐり抜けて、命が息づいています。このようなすばらしい季節を迎えることができて感謝します。この季節、主が良くしてくださることに感謝し、期待して、歩んでいきたいと願っています。

 今年は、主からいただいた「詩篇百三篇」のみ言葉をメインに語らせていただいています。詩篇百三篇一節〜五節を、もう一度読んでみたいと思います。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 この言葉を、主から直接語られている言葉として受け取りたいと思います。ここに、「あなたの一生を良いもので満たされる。」とありますが、聖書の中で、「良いもの」とは、「福音」と表現されています。
 「福音」とは、どういう意味かといいますと、「良い知らせ!」です。私たちは教会に来て、神からの良い知らせを聞くのです。私たちの神様は悪い方ではありません。良い知らせを私たちに届けてくださる方です。
 「福音」という言葉が、どのような言語的意味を持っているかというと、

『福音という言葉は、古代ギリシャ、ローマの世界では、結婚など何かに関する良い知らせを宣言するもの』

 元々「福音」とは、ギリシャやローマの世界で使われていた言葉でした。では、どのように使われていたのかというと、「良い知らせをふれ回る」という意味でした。
 今週の週報に出ていますが、来週は、岡本泉さんと中山君の結婚式があると掲載されています。結婚式を沖縄でやるそうです。新城教会でやればよかったのに、沖縄まで行ってやるそうです。ご主人となる方の実家が沖縄ということで、沖縄で結婚式を挙げられるそうです。
 私は、結婚式に残念ながら出席することができません。なぜなら、ネパールに行くからです。来週の日曜日から、私たちはネパールに行きます。毎年、岡本泉さんはネパール宣教の調整役をしてくれていたので、私は一つの提案をしました。「結婚式、沖縄でやらないで、ネパールの山の上でやったらどう?私が司式します。」と言ったら、彼らは、「それはいいね!」と、結構、本気になりました。でもやっぱり、ご両親がそこまで行くことができないという問題点もありまして、中止になったようです。しかしこれは、良い知らせです。「結婚式がありますよ!」って、良い知らせです。

 今日読んでいただきました、イザヤ書四十章は、九節から、『シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。』とあります。高い山に登って、「良い知らせがあります!」と、大きな声で宣言するのが、当時使用されていた「福音」の意味です。
 福音とは、「宣言」なのです。良い知らせを高い山に登って、より多くの人たちに宣言する、すべての人たちに届くように宣言するという意味です。
 来週、私たちは高い山に登って、福音を宣言するつもりです。ぜひ祈っていただきたいと思います。

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 私は去年、ネパールに行き、山を下る時に決心しました。「二度とここには来ないはずだ!」と。しかし、また行くことになりました。私にも主が、「高い山に登って福音を宣言しなさい!」と語られているのかと思います。

 実は、先週、大変すばらしい知らせがありました。それは何かというと、「高校受験生全員合格!」という良い知らせです。今日、受かった子どもたちは、教会に来ていますか?実は二週間前、私は受験生たちに呼ばれたのです。なぜかというと、「祈ってくれ!」と言うわけです。
 新城教会の働きって、知らないところでいろいろな働きがなされています。その一つに、大学生のお兄さん、お姉さんたちが、高校受験生のために、礼拝が終わってから、勉強を教えてくれていたのです。何か月も前から、一生懸命教えてくれました。勉強を教えた、兄さん姉さん方も集まって、高校受験をする子どもたちも集まって、祈ってくれと言うわけです。
 この時代に新城教会に、受験生として生まれていたら、私の人生は変わったのではないかと思います。
 会場に行きましたら、一人の少年が祈りの輪の中に入らないで、部屋の片隅にうずくまっていました。よほどの不安があったのでしょう。すると勉強を教えていた先生方が言いました。「このメンバーが全員受かるのは、神の奇跡以外にはありえない!」と。それを聞いて「困ったな」と思いました。その中の何名か、誰だか知りませんが、神の奇跡が起こらない限り、受験戦争に勝つことはできない!と勉強を見ていた先生たちがいうのですから本当です。そんな子たちもいたみたいです。だから、これは真剣に祈らなくちゃいけないと思って、うずくまっていた少年をみんなで引き出して、「元気を出せ。」と輪の中に入れて、一緒に祈りました。

 その時に、今まで祈ったことのない祈りを、主は与えてくださいました。「受かるように祈ってください!」と言われたら、どう祈りますか?「どうかこの子たちが受かりますように!」と真剣に祈ります。

 でも、その時、ふっと与えられた祈りは、この子たちが受かると、他の誰かがすべるわけです。先ほどの少年のように、部屋の片隅でうずくまる子どもがいるはずです。教会の子どもたちが受かることはすばらしいけれど、どこかで泣く子たちが発生するわけです。室の片隅でうずくまっていた少年は、それを預言的に現しているかのようでした。
 それで何を祈ったのかというと、「受かる人によって、すべる人の人生が、おかしくなり、人生を儚んで自殺したりとかしないように」と、すべる人たちの祝福を祈りました。
 その祈りが良かったのです。私もそんな事、まったく考えてはいませんでした。しかし、ふっと、うずくまっている少年を見て思ったのです。普通ならば、「他がすべって、この子たちが受かるように!」と祈るはずですが、すべる人たちが幸せな人生を送ることができるようにと祈りました。結構、感動的な祈りでした。
 この中にも奇蹟が起きずにすべる子がいる、という想定もあったのですが。
 しかしそのように祈った結果でしょうか。なんと、すごいニュースが伝わりました。新城教会の受験生「全員合格」でした。
 ちょっと耳を疑いました。「絶対に無理だ!」という子たちがいましたから。その子たちも、ちゃんと受かりました。

 また、受験を前にして、もう一つのことを祈りました。テストとは、どんな有名大学の試験でも、答案用紙に出題される問題さえ、答えることができたら入れるのです。いくら頭が良くても、その中の問いに答えることができなかったら、不合格です。ということは、主は、出題される問題を知っておられるはずですから、試験までの勉強で、出題される問題を勉強できるように!と祈りました。そうしたら、なんと、祈ったとおりに、その後に、勉強した問題が出たそうです!
 主は、私たちに良いことをしてくださいます。私たちは管理人です。すべての領域で良い知らせを宣言することは、「福音」であり、重要なことです。
 これから願い事があったら、自分だけが良ければいいというのではなくて、自分が受かった場合、すべった人たちの祝福を祈ったらどうでしょうか?そのように祈られたら、神様も祈りを聞かざるを得ないかもしれません。

 私たちは、「福音」という言葉をよく使うのですが、近頃、「福音とは何か?」というテーマに関して、語らせていただいています。マルコ十六章十五節、

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』

 これは私たちに与えられた、イエス様からの一大命令です。「福音を伝えなさい!」です。しかし、福音そのものの理解が、案外あいまいなのです。教会は「福音を語っていますよ!」と言っていますが、案外、福音理解が曖昧で、正しく受け入れられ、理解されていないのです。福音を伝えても、なかなか伝わらない原因が、そこにあるのではないか、というのです。
 コロサイ人への手紙一章六節、

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 福音は、イエス様によって完成されたのですが、二千年の歴史の中、語られ続けられ、私たちの所まで来ているのですが、イエス様が始められた、初代教会の弟子たちが語っていた福音と、現代の教会が語っている福音が、イコールかどうかは別問題なのです。
 イエス様が告げられた福音を、また、弟子たちが語っていた福音を、今日の福音としないと、本当の意味で、福音を理解していない事になります。ゆえに福音が広がらないというわけです。

 以前にも一冊の本を紹介しました。『福音の再発見』という本です。興味があったら読んでいただきたいのですが、「なぜ多くの若いキリスト者が今日、教会を去ってしまうのか?」とあります。すばらしい福音を聞いたはずなのに、教会を去ってしまう人たちが多いというのです。
 その理由に、福音の一部を、福音のすべてと勘違いしているのではないか?という指摘です。

 今まで教会は、「イエスを信じたら救われる。これが福音のすべて」としていたというのです。イエス・キリストを信じたら永遠のいのちが与えられるのですから、こんなすごいことはありません。今日ここにおられるお一人お一人、イエス・キリストを信じるならば、あなたのいのちは決してなくならないのです。そして、やがて「地球から天国に避難できる。」のです。今日も礼拝の中で賛美をしましたが、「もうまもなく、主の日が来る。天国に行ける!」という希望を歌っていました。あの聖歌も、ある意味で、この概念に基づいています。

 イエス様を信じたら救われ、この苦しい世から逃れて、宇宙の彼方にある天国に避難できる、という理解です。しかし、信じなかったら、地獄の火で燃えてしまうぞ!という恐ろしい面もあります。これらも聖書が述べていますから、間違いではありません。
 しかし、教会は、「これが福音のすべて」であり、「人間の救いこそ、福音なんだ!」と理解してきました。
 けれども、聖書をよく読むと、福音とは、「全宇宙、地球、自然、すべての生物、社会制度、被造物全体の回復」と教えています。
 しかも人類は、被造物全体の回復のために、管理人として創造されたというのです。ゆえに、人類の救いが重要なのです。クリスチャンは何をするのか、それは本来人に、与えられた役割のために働くということです。

 二週間前も引用させていただいたのですが、詩篇八篇三節〜九節、

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』

 「人とは何者なのでしょう。」という問いに対する答えがここにあります。
 人とは神に次ぐ存在として造られたのです。神は天の高い所から、地のどん底まで、どれほど多くを創造されたのか分かりません。しかし、神が造られた被造物を、なんと、「人の足下に置かれた」というのです。それはなんのためでしょうか?神が造られたものを人が管理する為でした。
 人間は、神の代理人として、万物を神から委託されているのです。

 『福音の再発見』という本を読んだら、人間はどういう存在かについて語られていました。著者はスコット・マクナイトという人ですが、彼は優秀な神学者です。特に新約学、初期のキリスト教史、史的イエス研究で高名な学者です。彼は、イエス様が地上におられた頃の社会的状況とかを、よく研究している人で、聖書が告げる福音がどのようなものであるのかを、詳しく調べたのです。
 結論として、現代の教会が語っている福音と、聖書が告げている福音を照らし合わせると、結構違う!ということに気づいたわけです。もしも現代の教会が聖書の時代と違った福音を伝えていたら、いくらクリスチャンになったとしても、教会から去ってしまう結果にもなりかねない!というのです。
 彼はこのように記していました。「福音の再発見/一九四ページ」

“人間の責任は、神、自分自身、他者との間に関係を持つことであり、また神と共に支配するものとして、神の宇宙的神殿における、神の臨在の仲介者として、世界と関わることである。”

 少し難しい表現ですが、気が遠くなるような宇宙規模の福音が表現されています。神の神殿は全宇宙に広がっているわけですが、その臨在の仲介者として、人は世界と関わる存在だというのです。神と人との間にも、自分自身に対しても、また他者との間にも、私たちが管理人として、神から委託された権限を行使する役割として、造られたのです。
 今まで、「福音を伝える」という理解は、ただ単に、人が地獄に行かないように、滅びないように!救い主を紹介することが福音だ!と考えていましたが、それだけではないのです。福音を宣べ伝えるとは、被造物全体に対する視点が必要なのです。

 一人一人の職業は、何らかの回復のためにあります。人々の生活がよりスムーズになるため、豊かになるように、何らかの問題解決の手段として、職業はあります。ということは、福音を伝えるとは、会社に行って周りの同僚たちにイエス様のことを話してあげることも福音の伝達ですが、関わっている仕事そのものが、なんらかの回復のためにあるならば、福音宣教そのものです。
 一人一人が遣わされた場所で、「ここが私の宣教地だ!」という意識で、福音を宣言するのです。今日、ここにおられる全員は宣教師であり、あなたしか登ることが出来ない山と、入ることができない領域があるのです。その場所を管理し、福音を宣言する役割が与えられているのです。

 イエス様の十字架は、人類の罪の身代わりだけではなく、万物との和解と回復のためであったと、前回、紹介しました。コロサイ一章二十節、

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

 イエス様の十字架の血は、人間のためだけではないのです。万物と神との間の壁を砕いてくださったのです。
 ローマ人への手紙八章に、こんな言葉があります。ローマ八章十八節〜二十二節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』

 やがてイエス様がこの地上に帰って来られ、新しい天と新しい地が創造される時、被造物全体が栄光の中に入れられる日が来ます。神が造られたものすべてが、その日を目指して、共にうめき、産みの苦しみをしているというのです。それが現代社会です。
 世界にいろいろな問題が起こっていますが、ある意味、被造物全体の産みの苦しみです。そんな中、私たちクリスチャンが何をすべきか、それは主がいち早く帰って来られて、王となってくださることを祈り、そのために働くのです。

 来月、四月十六日は復活祭です。是非ともスケジュールを入れておいてくださいね。四月十六日の復活祭は、大変すばらしいプログラムが用意されています。朝は召天者記念礼拝が九時半からあり、その後、復活祭礼拝があります。また、ゴスペルランチもあって、楽しく交わりをすることが出来ます。特別な音楽のプログラムもあります。その日には良い知らせ、婚約式もあります。誰が婚約するのかは、誰かに聞いてください。洗礼式もあります。いろんな楽しいプログラムがあるのですが、復活祭とは、イエス様が十字架について死なれただけでなく、よみがえられた!という事実を記念する日です。
 実は、この頃、教会が「復活」のことを、あまり語っていないと指摘されています。イエス様の身代わりの死については語っても、「復活された!」ということは語っていないというのです。
 福音の中で最も重要なことは、復活です。イエス様は死にっぱなしではなく、死の三日後によみがえって、今も生きておられるのです。こんなすごいことはないです。
 クリスマスよりも本来は、復活祭の方をお祝いしないといけないのです。けれども、教会は、復活のことはあまり強調しなくなってしまったのです。復活なんか持ち出すと信じてくれないと思うからかもしれません。よみがえられたイエス様は、やがて、帰って来られ、すべての束縛を打ち砕き、被造物全体を解放されるのです。その日に向けて、教会は準備するのです。クリスチャンはそのために選ばれているのです。

 先ほど読んだローマ人への手紙八章二十二節を、リビングバイブルで読むと、このようになっています。

『動物や植物のような自然界のものでさえ、このすばらしい日を待ち望みながら、病気や死の苦しみにうめいていることを、私たちは知っています。』

 人間だけが苦しんでいるように思うかもしれませんが、そうではありません。今の時代、被造物全体がうめき、苦しんでいるのです。
 しかし、イエス様が帰って来られる日が、被造物全体の解放の日です。その鍵を持っているのが、他でもない教会であり、クリスチャンです。
 福音を宣べ伝えるとは、天地創造から、新しい天と新しい地の創造に渡る物語のすべてを宣言することです。そして、初代教会はこれを福音としていたのです。

 しかし、それが今の時代は変わってしまったとマクナイトは語っています。『福音の再発見』の中で、こんな記述があります。

 「救いの文化と福音の文化は同じではない。救いの文化が福音の文化と同じだと考えるなら、福音の真の意味や、福音の文化が私たちの世界に、今どのような意味を持ち得るのかという認識を、著しく欠くことになる。聖書に戻り、もう一度福音の文化を発見し直し、福音の文化を教会の中心に据える必要がある。」

 考えてみれば、現代の教会の文化は「救いの文化」です。魂が救われるという、人の救いを中心軸とした文化形成が行われています。教会の一年の活動といったら、人々が教会に来て、永遠のいのちを持つために、ゴスペルコンサートをやったり、礼拝も、様々な集会も、皆、救いを中心に計画が立てられます。新城教会にはカフェがあったり、雲の柱があったり、いろいろな活動をしていますが、中心に「人の救い」があります。そうすれば、その概念を中心軸とする文化が形成されます。
 しかし、これではいけない!というのです。救いの文化と、福音の文化は同じではないというのです。私たちは福音の文化を、教会の中心に据えなければならないのです。
 パウロがどのような福音理解をしていたのか。

「その核心においては、偽りの神々に対抗する真実の神を宣言するものであった」

 これがパウロの福音理解だったのです。甲子園ミッションの時、エレミヤ書十章十三節のみ言葉が与えられました。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 主が声を出すと〜♪と、歌いまくりました。今でも歌っています。このみ言葉を掲げて、甲子園ミッションは始まったのですが、エレミヤ書十章十一節、

『あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる」と。』

 甲子園ミッションの時、「天と地を造らぬ神々は、この地からも天の下からも滅びる」という賛美も歌いまくり、今も歌っています。パウロの持っていた福音理解は、「偽りの神々に本物の神を宣言する」・・・それが、福音だったわけです。それは霊的戦いそのものです。
 時々、この賛美をしたり、目に見えない暗闇の力を打ち破る祈りをすると、福音とは関係ない、というような意見も聞くのですが、そうではありません。パウロが持っていた福音理解とは、偽りの神々に対して、真の神を宣言することでした。これが福音そのものであったのです。

 日本には、偽りの神々が満ちています。そんな中でイエスキリストを信じます!と宣言することは、時には大変ですが、それは福音宣教そのものです。
 多少、迫害があったとしても、福音を宣言する時、主が喜んでくださるわけです。

 NTライトという、有名な神学者がいますが、彼は「福音とは何か?」に関して、次のように言っています。

“紀元一世紀の文脈における「福音」という言葉は「宣言」を意味した。それは、主は王である!という宣言であり、同時に「ローマ皇帝カエサルは王ではない」という宣言であった。”

 紀元一世紀頃、イエス様がお生まれになった頃、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、植民地でした。そんな中、主は王である!イエスは救い主だ!という宣言がどのような意味を持ったかといえば、「ローマ皇帝カエサルは王ではない!」という宣言だったのです。
 当時はギリシャ神話の神々や、ローマ神話の神々が満ちていたのですが、そんな中で「主は王である!」という宣言は、当時の社会的環境に対する挑戦であったわけです。
 現代の教会がこのような時代にあって、同じ福音理解を持っているかといったら、そうでもないみたいです。あまり問題を起こさないように、少しは妥協しながら福音を伝えましょうというところがあります。しかし初代教会ではそうではなく、命をかけて福音を伝えていたのです。
 パウロにとっての福音は、こんなふうにも書いてありました。

“パウロにとっての福音は、「救いをもたらすイエスの物語」であり、それは「旧約聖書に記されている通り」に、イスラエルの物語を完成させるものである。福音を宣べ伝えるとは、「この物語を宣言する」こと。”

 旧約聖書には、やがて救い主が現れて救いをもたらす!という預言の書でもありました。預言の通りにイエス様が来られて、旧約で預言されていた事柄を成就され、宣言されたのです。
 一世紀頃のクリスチャンは、どのような福音理解を持っていたかというと、旧約聖書全てのストーリーと、イエス様が地上でなされたすべてのストーリーを一つとして、「それ全体が福音」として、受け入れていたわけです。
 そして、旧約聖書から、新約聖書にいたる壮大なストーリーを宣言することが「福音」でした。
 これは重要な点です。紀元一世紀頃の福音とは、「聖書に記されているイスラエルの物語の成就としてのイエスの物語であった。」というのです。「この福音の物語が、初期のキリスト者たちの文化を形づくり、枠組みとなった。」のです。「救われた人たちとは、イエス・キリストの福音の物語を受け入れた人たちであった。福音の文化の中で、救いの文化というサブ・カルチャーが生まれた。」のです。

 今はどうでしょうか。サブ・カルチャーのほうが中心となって、福音の文化は影を潜めています。旧約聖書から新約聖書、全体のストーリーが福音です。それをそのまま宣言するのが、福音を伝えることです。
 簡潔にいえば、「天地創造から、新しい天と新しい地の創造」という、神の物語を宣言し、それをとどめる暗闇の力に対する挑戦です。
 福音とは、ただ単に人間の救いと捉えていてはいけないのです。被造物すべての解放です。

 おもしろい事が書かれていました。ダラス・ウィラードという、この方も有名な神学者の方ですが、現代人の福音理解を、「罪を処理するための福音」と表現していました。

 “神がバーコードスキャナーを持っており、私たちが正しいバーコードを示すならば、天国に行ける。「罪を処理するための福音」では、キリストの役割はもっぱら、人類を贖う事だけで、他にさしたる重要な働きはない。人々はキリストの、わずかばかりの血を求め、あとは天国に行くまでイエスとなんの関わりも持つ気はない、吸血鬼クリスチャンを育ててしまった。”

 イエス様を信じたら、バーコードをもらい、死んだ時、天国の入り口ゲートでバーコードをかざすと、チャリーンといって、ゲートが開き天国に入ることができる、これが福音だと考えている人が多いという指摘です。

 福音とは、宇宙規模のもので、神の被造物全体の回復に通ずるものです。その使命が与えられているのが人類です。人類が回復されなければ、他の被造物は回復に至りません。まず、私たち人類が救われるべきであったわけです。私たちはスタートラインに着いて、万物の管理人として、遣わされた領域で福音を宣言することが使命です。

“イエスはご自分のミッションをはっきりと神の国に結びつけておられた。イエスは神の国は歴史の中に表れると信じていて、「神の国は近くなった。」マルコ一章十五節は、「すっかり近くなった。」「とても近くなった。」という意味で、イエスは、「しかしわたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのであれば、もう神の国はあなた方の所に来ているのです。」と言われた。ここで使われているギリシャ語は、「今ちょうど出会った。」という意味である。
 ここでイエスは、明らかに、「悪霊追い出し」を「長い間待たされていた神の国の到来の現れ」として考えていた''というのです。

 今から二十五年前、新城教会に聖霊が注がれて、霊的戦いが始まりました。あれには本当に大きな意味があったのです。イエス様から言わせれば、「神の国の到来」です。
 この戦いを続けて行くならば、主の再臨につながり、新しい天と新しい地の創造につながるわけです。
 今、与えられている福音の豊かさを回復して、聖書に述べられている全福音を受け取って、宣言する者にならなければいけないのです。

 なぜ、こんなにまで福音が矮小化されたのかということです。父とか田中先生、またリバイバルミッションで行ってきた事柄も、考えてみれば、魂の救いに特化された働きでした。今も、私たちは、日本縦断リバイバルミッションを開催しています。一人でも多くの人たちが主を信じる決心をして、地獄の火から救われるようにという働きですが、この働きだけで終わってはいけないのです。福音の全体像を理解しないといけないのです。

 創造から始まり、新しい天と新しい地を創造するという、全体ストーリーが福音です。これを人々に投げかけなければいけない!というわけです。ちょっぴりの十字架の血を吸血鬼のように吸って、バーコードをもらって天国に入るというのは、福音の全体ではないのです。これは矮小化された福音であり、この路線で突っ走っても、神の国は広がらないのです。
 なぜ、福音はこんなに矮小化されたのか。悪魔は巧みだと思います。イエス様が帰って来られたら、自分たちは終わりになりますから、それをとどめるために、真剣に働いていると思います。それで、豊かな福音、被造物全体の回復を、人間の回復だけに特化して、それだけに焦点を合わせさせ、他のことを考えさせないようにする策略を持っていたと思われます。

 今年は、キリスト教界の中では、大きな意味を持った年です。それは何かというと、「宗教改革五百年記念」という特別な年です。

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 マルチン・ルターから始まった宗教改革。一五一七年に火蓋が切られて、今年は二〇一七年ですから、宗教改革から五百年が経ったわけです。一つの節目の年ですが、スコット・マクナイトに言わせると、「信仰のみ」というルター神学の強調が、豊かな福音を矮小化させたと主張しています。
 十六世紀までローマ・カトリック教会が世界を支配していました。彼らは、「良い行いによって、人は救われる」という「行為義認」を説いていたわけです。これに対抗して、ルターは、「良いことをしたら救われるとか、カトリック教会の言いなりになって救われるのではなく、信仰によってのみ救われる」と対抗したのです。その主張により、宗教改革が広がったのですが、信仰によってのみ救われるという強調は、より強く個人にフォーカスを当て、豊かな福音が縮小されてしまったと語っています。
 図にするとこういう事だと思います。

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 神はイスラエルに対して、大きな計画を持っていました。その計画とは、やがて来たるべき神の国を現していたわけです。それがイエス様によって成就し、豊かな神の国の福音が実現したのです。
 しかしキリスト教が、ローマ・カトリックに飲み込まれて、四世紀から十六世紀くらいまで、その本質が失われたわけです。しかし、宗教改革で信仰のみという、個人にフォーカスが当たった為に、福音は矮小化され、それが霊的覚醒運動、リバイバル運動によって、世界中に広がったのです。けれども、今日、この豊かな福音が回復されなければいけないのです。

 福音を、ただ単に人間の救いに焦点を合わせるのではなく、万物の回復と救いに関して理解しなければいけないのです。人類は、万物に対しての責任を果たさなければならないのです。
 創世記一章二十六節〜二十八節に、こんな言葉があります。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』

 人間を創造されたとき、神が人にどのような命令をなされたのか、それは、「すべてのものを支配しなさい!」と命令されたのです。

『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 』

 人間はすべての生き物を支配するために造られました。また、二章十五節では、

『神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』

とあります。神の園に敵が侵入することがないように、ガードマンのように園を守る役割として人を造られたわけです。しかしそこに蛇が侵入して、人間が持っていた権限を奪ったのです。
 エデンの園で何が起こったのか、難しい言葉で表現すると、悪魔による簒奪(さんだつ)が起こったというのです。簒奪とは、どういう意味か。

“本来君主の地位の継承資格がない者が、君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。”

 元々人間は神に次ぐポジションとして造られたのに、悪魔によってその地位を奪われたのです。しかしイエス・キリストを信じるとは、地位をもう一度回復することであり、被造物を管理する役割が人間に回復されるのです。そんな重要な役割として、人類は創造されたのです。

 今日、神の代理人としての使命が我々には与えられています。被造物全体を管理する、権限が与えられているのです。

 具体的にいったら、まず一つは「職業」だと思います。神からゆだねられた職業は、その人しか入ることができない領域です。そこで福音を宣言し、パウロの理解のように、偽りの神々の力を打ち破り、主の御名の勝利を宣言するとりなし手にならなければいけないと思います。
 前回もお話しさせていただきましたが、人類に与えられた最も強力な武器は、「祈り」です。祈りは神が代理人に与えた、最も強力な武器です。
 祈りには、二つの方向性と領域があると話しました。
 一つは「神への願い」の領域ですが、一番大事な祈りの領域は、「敵に対して神から与えられた権威を行使する」という領域にあります。この世は悪魔の手に陥っていますから、神の民が悪魔が支配する領域に入って行って、与えられた権限を行使して、「おまえたちはその領域にとどまることはできない!手を離せ!」と宣言すること、これが管理人の使命です。

 職業、仕事は、福音宣教の現場そのものです。あなたしか見えない、気づくことができない悪魔の策略が見えると思います。そこに祈りをもって、敵に対して神から与えられた権限を行使するのが福音宣教そのものです。
 あなたしか登ることができない高い山があります。「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ!」と、あなたしか見ることができない領域があります。そこに全幅の福音を宣言する、神から与えられた権限を行使することは、福音宣教そのものであり、その働きの結集により、イエス様はこの地に帰って来られ、新しい天と新しい地が創造されるのです。

 いよいよ来週の日曜日から、ネパール宣教が始まります。私もちょっと緊張しています。あの道を走らなければいけないのか、また、登って行かなければならないのかって、ちょっと憂鬱な所があります。
 今までネパールについて、この山の人たちに関して、文明から取り残された人たちで、助けてあげなくちゃいけないというような、ちょっと高ぶった思いがありました。
 しかし、去年行った時、この人たちって、大事な人たちじゃないかなって、思うようになりました。

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 この方々は、自然とうまく調和しながら生きています。別に自然を壊すわけではない。自然を正しく管理しながら生きているのです。私たちはどうでしょうか。どんどん自然を破壊して、いらないものをどんどん造って、化学物質をまき散らして生活しています。しかし、ここの人たちはそんなことはしません。狩りをする時は、自分たちの食べる分だけ取ります。多く獲物を捕って売るわけでもなく、自然とうまく調和して生きています。
 こういう人たちの中に、最も強力な、自然界を管理する賜物が残されていると思います。私たちはこの方々に仕えるために行くのです。

 現代社会の最も大きな問題は、金の問題です。貨幣経済は人類が造り出した、詐欺システムの中で最も大きなものだと言われます。金のためなら何でもやるのが今の世界でしょう。金で人生狂った!という人、山ほどいるわけです。金のために命を落とした人もいっぱいです。
 しかし、この山の人たちの世界には、貨幣経済がありません。お金が流通することもありません。物々交換です。ということはどうでしょうか。今、世界は「金」で狂っているとしたら、この山の人たちが管理人としての立場に気づいて、世界に対して全幅の福音を宣言するようになったらどうでしょうか?世界は変わるかもしれないのです。

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 私たちがTシャツをあげたりとか、いろいろしているのですが、本来、それが良いのか悪いのか?分からないです。子どもたちは木の枝を上手に取って来て、ご飯を炊く手伝いをしてくれます。火を起こすのもうまいです。私たちでは何時間やっても付かないのが、彼らにやってもらうと、あっという間に火がつくのです。今回、この子どもたちとまた会えることも嬉しいです。

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 私たちはチェパン族の人たちにお仕えし、彼らの賜物が回復して、神に次ぐ存在として、自然界を管理する人たちになるよう、手助けがしたいです。この方々がまずはイエス・キリストを信じて救われ、管理人となるように、その手助けができたら最高だと思っています。ぜひ祈っていただきたいと思います。

 来週の日曜日、十二時半には第一陣が出発します。今回は同じ便が取れなくて、現地集合です。四チームくらいでネパールに行くのです。是非お祈りしていただきたいと思います。
 世界宣教のLINEに参加していただきましたら、その様子を知ることができると思います。
 最後にみなさんでお祈りしたいと思いますが、私たちが救われたのは、ただ単に、地獄の火から救われる為ではなく、被造物全体の回復の為です。今から聖餐式を行いたいと思いますが、一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝をいたします。今日、私たちに与えられている豊かな福音を、心から感謝します。イスラエルにはじまり、イエス様によって完成された聖書全体の福音を、福音として宣言します。主よ、あなたが帰って来られる道を備えるために働くことができるようにしてください。今日ここにおられますお一人お一人の上に、特別な祝福がありますように。今からの聖餐式を主にゆだねて、尊きイエス様の御名によって祈ります。アーメン。