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「彼らに主の名をほめたたえさせよ!パート13 
 〜主を呼び求め、祈り、賛美し、宣言しよう! Part3〜」

2018年7月8(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章11節〜12節

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 ハレルヤ!
「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ」という意味ですが、今月は賛美月間です。一ヶ月間、毎晩、賛美が連続してささげられています。本当に恵まれた賛美です。是非とも、お越し下さい。これは昨日の写真です。今日は、八日目になります。主の臨在あふれる、すばらしい賛美集会になっています。

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 「主を賛美することは、あなたがたの力です!」とみ言葉にありますが、賛美は本当に大切です。

 最近、シリーズで賛美について学んでいますが、子どもたちが、CDを作りました。来週発売されるそうです。子どもたちはがんばって、自分たちで演奏もしましたし、歌も全てやりました。

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 元子どもたちも少しは入っているみたいですが、ほとんどが子どもたちの作品です。ちょっと聞いていただきたいと思います。そして来週は、ぜひ、お買い求めください。

<賛美>

 いいですね〜。子どもたちの賛美は、本当に恵まれます。今月は主を、力いっぱい賛美したいと思います。

 今週も、エレミヤ書二十九章十一節、十二節を中心に学びたいと思います。このみ言葉を、自分へのことばとして勝ち取ることができたら、人生は変わるはずです。もう一度、みなさんで読んでみましょう。特に強調点は、「わざわいではない!あなたがたに将来と希望を与える!」です。自分のこととして読んでみましょう。エレミヤ書二十九章十一節〜十二節、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 教会は祝福を受ける場所です。悪いことばや悪口ではなく、隣の方に、「祝福します!将来と希望を宣言します!」と宣言してあげて下さい。隣の方に責任を持って、「あなたを祝福します!主を賛美しなさい!」と宣言してください。
 いいですね。すばらしいです。これで身体は活性化したと思います。

 神のことばは、ことばが発せられた瞬間に、できあがるのです。なぜなら神は時間も空間も超えたお方だからです。
 同時に、悪魔や悪霊どもも、時間や空間の外に存在しますから、神のようには出来なくとも、時間空間を超えた働きをしているのではと思われます。
 過去も現在も未来も貫き、暗闇の力も働いているのではないかと思います。
 聖書を、そのような視点で読むと、そこには時空を超えた世界があります。第二列王記二十章九節〜十一節に、不思議なことばがあります。

『イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。』

 何気なく、この箇所を読み飛ばしてしまうのですが、よく読むと不思議な箇所です。ヒゼキヤ王様の所にイザヤが来て、「王様、あなたは死にます」と宣告しました。「あなたの家を整理しなさい」と言いました。こんなことを、直接言われたら、そりゃぁショックです。現代においても、病院で、「あと何か月の命です!」と宣告を受ける可能性もあるわけです。
 ヒゼキヤ王は、「あなたは死にます」と宣告された時、涙を流して、真剣に神の前に出て、命乞いをしました。そうしたら神が、「わかった。おまえの祈りを聞いてやる。それでは、あと十五年、寿命を延ばしてやる。」と神は言われました。
 時に、もうだめだ!というような事があったとしても、その時、主の前に出て真剣に取り組めば、主は祈りに応えてくださるのです。
 しかしヒゼキヤは、神の言葉が信じられませんでした。それで、「証拠を下さい。」と願ったわけです。すると、イザヤを通して主は何と語られたのかというと、「分かった。影が十度進むのがいいか、十度戻るのがいいか、どちらかを選べ。」と告げました。
 この記事に、どういうイメージを持ちますか。夕焼けの影が十度進むみたいに、簡単に考えるのですが、実は、これはすごいことなのです。
 アハズ王が日時計を作ったのですが、「十度」と述べられている箇所は、原語では「十段」となっています。それは階段のことです。聖書の欄外に「十段」となっています。この日時計は、花壇に見られるような日時計ではなく、階段の影で時刻を知るものでした。
 階段の影が十段前に進むのか、十段バックするのか、どちらか選べと言ったのです。その時に、ヒゼキヤは、「影が十段前に進むのは簡単」と言いました。しかし、バックするのは難しいから、十段影がバックする奇跡を行ってほしい!と主に願ったわけです。
 実はこれを、簡単に考えますが、先日、この解説を読みましたら、このように説明されていました。

“一般に日時計の影が「十度戻った」と訳されているが、原文は日時計の影が「十段戻った」とある。おそらくこの階段は二十段程度と思われ、一日の半分、十二時間、太陽が出て影ができるとすると、十段の影は六時間程度の地球の自転による影の移動となる。地球の自転は一日三百六十度、その四分の一、地球の自転が瞬時に、あるいは六時間にわたって、九十度逆転したという意味になる。赤道付近では、ほぼ一万キロメートルを瞬時に移動したことになる。”

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 地球が一万キロメートルも瞬間に逆転するのは、ありえないです。それが起こったわけです。
 ヒゼキヤは、「前に進むのは簡単だ」と言いました。なぜでしょうか。当時は預言者の時代でしたから、預言者たちは時間軸を未来に進み、情報を取る仕事でした。結構、時間軸を前に進むのは、簡単に考えていたのでしょう。しかし、時間を過去に戻すのは、そう簡単ではないみたいです。
 しかし神の手によるならば、時間も、空間も超えて、過去にも戻るし、未来にも行くし、寿命を十五年延ばすのは簡単!と言う事です。
 時々私たちは、「過去に戻りたい。あの時点からやり直したい」ということがあります。その時には、このみことばを思い出して、「時間よ、戻れ!」と命じたらいいのではないでしょうか。

 先日、ある方から電話があり、その方の娘さんが、ドラッグストアで買い物中にバッグを盗まれたというのです。その中には、クレジットカードから現金、免許証、その他重要なものが入っていたそうです。
 盗まれたら、ほとんど戻ってこないですよね。警察にも届け、ドラッグストアもいろいろと調べてもらったけれど、どこにもバックはありませんでした。
 その方は、「免許証だけでも返ってきたらいい。祈って下さい。」と言われました。それを聞いて、家内が大胆に祈っていました。「主よ、どうかこのバッグを見つけてください!今、盗まれた時点に戻り、バックを取り返します!」と祈っていました。
 そんなこと祈ってもいいのかな?大胆すぎるんじゃないか?と思ったのですが、みなさん、何が起こったと思います?
 なんとバックが、ドラッグストアから遠く離れた、神社の前に捨てられていたのです。それも、中身は全く変わっていなかったのです。お金も何もかもあったのです。
 あの祈りをした時に、主が過去に戻り、盗まれた時点で泥棒から、悪霊から、バックを取り戻して下さったのでしょう。悪霊は自分の姿を現しています。偶像の前でバックを落としたのですから。警察もびっくりしていたみたいです。普通では、ありえないと。盗んだのは泥棒ですから、金くらいは取るんじゃないですか。しかし、全て戻ってきたのです。何の為の泥棒だったのでしょう。
 私たちの主は、過去にも、現在にも、未来にも、希望を与えてくださる神です。私たちはあきらめてはいけないですね。

 あなたに将来と希望を与えます!と、語ってくださった時点で、すべての良いものが未来の時間軸上に、実態としてできあがるのです。
 また逆に言えば、悪魔も過去にあった様々な悪を軸にして、未来に災いをもたらす働きをせっせとやっているのではないかと思います。
 このみことばを掴んで、「ヒゼキヤに起こったことを、私たちにも起こしてください!」と祈る事が出来るはずです。

 今年は、新城で宣教が始まって六十五年目だとお話ししました。過去から現在にいたる時間軸を振り返ってみると、主は、本当に私たちを守ってくださったと、感動します。一時はいろいろあったけれど、それをも取り戻してくださったことを、心から感謝するわけです。
 何度も話をしていますから、ご存じだと思いますが、この地域は、日本のキリスト教の歴史の中でも、重要な地域です。

 ここから奥に入っていきますと、津具村という場所があります。現在は、設楽町津具です。

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 この家は、父が産まれた家ですが、津具村の入口です。ここを上がっていくと、集落があります。
 この村に「村井与三吉先生の碑」という石碑が建っているのですが、この人は牧師です。津具に、かつて三十年くらいの間、教会がありました。明治の初期、この村にリバイバルが起こって、村人の半分くらいがイエスさまを信じるような、リバイバルが起こったのです。

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 日本で最初のプロテスタント教会を作った、ジェームス・バラという宣教師がこの地を訪れ、宣教したことにより、この地域に福音が広がったのです。この村から、大変有名な人物が出ました。
 津具村に行きますと、こんな碑も建っています。

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 「一粒の麦」という石碑です。一粒の麦、死ななければ、豊かな実を結ばないと記されています。これは、賀川豊彦が津具で「一粒の麦」という小説を書いた事を記念する碑です。

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その小説のモデルとなったのが、村井先生でした。
 この小説が全国に広まり、賀川豊彦は有名になりました。彼はキリスト教社会運動家として、ノーベル賞候補としてノミネートされたくらいの人物になりました。
 この山奥で、一粒の麦が蒔かれたのです。それが実を結んだのです。
 村井先生の石碑の横に、もう一つ、小さな石碑が建っています。それは顕彰碑を建てるために金を出した村人のリストです。多くの人が名を連ねています。しかし、私の父の家は、名を連ねていません。なぜなら、村がキリスト教賛成派と、反対派に分かれたからです。この時代は国家神道が台頭した時代で、教会には迫害もあり、村井先生が亡くなった後は、リバイバルの火は消えてしまいました。

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 しかし反対派の一家に、ひとりの男が誕生しました。それが、私の父だったわけです。村井先生が亡くなって、二年後の出来事でした。

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 彼により、戦後、リバイバル運動が始まったのは、偶然じゃありません。やはり、一粒の麦が地に落ちたからです。実を結んでいるのです。それはみことばの実現です。

 この地で宣教が続けられたのは、主の恵み、主の憐れみとしか言いようがありません。主は、時間軸を超えて働いてくださるのです。歴史を振り返ると、その中に主の奇跡を見ることができます。

 しかし教会はなかなか大変です。なぜなら、教会を通して暗闇の勢力、悪魔と悪霊の力は打ち破られるからです。教会は軍事基地みたいなものです。軍事基地から戦闘機は発進しますし、兵隊たちも出て来ます。戦争では、基地を第一に叩かないと勝負にならないのと同じように、霊的な世界も同じです。
 教会は軍事基地と同じですから、悪魔の強力な攻撃にさらされるのです。その構図は日本中、世界中の教会、どこでも立場は同じです。自分たちが戦場にいるのか、ピクニックに来ているのか、どう捉えるかで、教会の未来は変わるのです。
 新城教会も、初期においては楽しくピクニックみたいに考えて過ごしていました。明日は七月九日ですが、一九九二年七月九日に、霊的戦いが突然始まり、教会の立場を気づかされたのです。
 そのとき、「教会は戦いの拠点である」と教えてくださり、教会は軍事基地で、全員が心を合わせて、目に見えない敵と戦わなければならないと、教えられました。
 私は、一連の事柄を、「主が立ち上がられた日」という本に書かせていただきましたので、ぜひとも読んでいただきたいと思います。感謝なことに、その本は英語と韓国語にも訳されて、広く読んでいただいています。これは私が書いたというよりも、この場所で主が始められた事を、ただ記録したのに過ぎません。

 振り返ってみれば、主は、特定の日を未来に設定しながら、そこに向けて人を訓練される方だと思います。
 突然すべてが始まっても、受け入れることが出来ませんが、その前に、ちょっとずつゴールに向けて訓練し、時至ると本格的な主の働きが始まるという事ではないかと思います。
 今までこの教会で一番大変だった時期は、一九八〇年代でした。会堂を建てた後、ずっと試練が続いたような気がします。

 そしてある年突然、様々な問題が教会の中に起こり始めました。若い方が何人か亡くなったり、病気になったり、特に、家内が体調を崩して、私は本当に落ち込んだことがあります。あんまり落ち込まなさそうに見えるかもしれませんが、こう見えても、気が小さいところがあり、毎日、暗い気持ちで過ごしていました。そういう事って、時々、あるのではないかと思います。

 話は変わるのですが、先日、「舟の右側」という雑誌から、「祈りについて書いてください」と依頼されました。「十回連載」と言われ、ちょっと躊躇したのですが、私は自分の祈りについて考えてみました。

 私は祈りがそもそも、好きではありませんでした。私の父はかつて、スウェーデン人宣教師たちと一緒に働いていました。それでスウェーデン人の家庭を訪問することが多く、スウェーデン人の文化を、我が家に持って来たわけです。
 どういう文化かというと、食前に、父親が家族全員を集めて、聖書を一章読んで、長い祈りをしてからご飯を食べさせてくれるという、拷問のような習慣でした。聖書の一節くらいならいいです。「わたしは道であり、真理であり、いのちです。アーメン!いただきます!」ならいいです。私は七人兄弟で、食糧難の時代でした。少ない食糧を目の前にして、聖書を一章読むのはないでしょう。
 しかし詩篇に入ったら頃からは嬉しかったです。短篇が続きますから。でも、心配なことがありました。それは詩編の百十九篇でした。ご存じですか?晩飯が朝飯になるかという感じでした。私は食前に、聖書を通読したことがあります。それで祈りが大嫌いになってしまいました。

 だから私は、親に反発していました。神さまは俺たちが祈ることよりも多くの情報を持っているんだから、祈ることはない!全て知っている!と思っていました。
 しかし原則は、変えることができません。エレミヤ書二十九章十二節に、

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 将来と希望を勝ち取るためには、また、わざわいから逃れるためには、「祈り」がどうしても必要です。

 その年、いろんな問題があって、まさに祈るしかないという感じでした。当時、韓国からリバイバル運動が入って来て、韓国の先生方が来て、「日本のリバイバルの鍵は祈りしかない!」と激しく叫んでいました。韓国のリバイバルの秘訣は祈りだ!韓国では徹夜祈祷会をやっています!早天祈祷をやっています!連鎖祈祷をやっています!断食祈祷をやっています!と、恐ろしいプログラムをどんどん紹介しました。私はそれを聞いて、冗談じゃないと思いました。
 私は韓国に調査に行きました。なんと韓国では、徹夜祈祷会をやりながら、早天祈祷会もやります。すると二つの祈祷会がくっつくのです。徹夜祈祷会から早天祈祷会に全員突入です。それでも、みんな「主よー!」と祈っているのです。日本から行った人たちはグロッキーでした。こんな難行苦行をしなかったらリバイバルは起きないのか・・・、リバイバルなんかいらん!という感じでした。
 しかし人は追い込まれると、やはり祈るものです。
 追い込まれている人がいたら、すでに祈っているでしょう。ハッピーな時って、ほとんど祈らないです。しかし、なんかあるとやはり祈ります。それも、恵みだと思います。

 私も、「これは祈るしかない!」と決断して、愛知県民の森に行って、ひとりで徹夜祈祷会をしてみました。

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 この広場はよく知っていると思いますが、ここから山を登って行くと、このような岩山になります。

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ここに夜、一人で行くとむちゃくちゃ気味が悪いです。風がヒューと吹いて、ガタガタ、バサバサ、動物も出て来ます。でも、そんなのかまっちゃいられませんでした。相当追い込まれていたのでしょう。
 暗くなるとこんな感じでしょうか。

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 私はこの山の頂上で、真剣に祈りました。
 当時、祈りとは神に嘆願する行為だと理解していました。困ったことがあったら、「神さま助けてください!」と。このようなタイプの祈りについても、聖書には出てきます。だから根を詰めて祈ることは大事です。しかし、山で祈っている時に、一連の問題って、霊的問題じゃないかなって思いました。悪霊が働いているのかな?と。
 うちの親父は、神さまのことは話しましたが、悪霊のことは語ってくれなかったです。しかし、ふっとそんな事が頭をよぎりました。それで吹きすさぶ寒風の中、一月のことでしたが、「イエスさまの名によって、教会から悪霊よ、出て行け!」と叫んでみました。

 その瞬間、私の目の前に天狗が出てきました。それが夢なのか、幻なのか、現実の目で見たのか、霊で見たのか分からないけれど、叫んだ瞬間に天狗が出てきて、本当にびっくりしました。その頃は髪の毛もあったのですが、総立ちです。
 その後、どう山を下りたのが全然覚えていません。嘘だと思ったら、この場所を紹介しますから、今晩あたり一人で行ってみて下さい。天狗に出会えるかどうかは知りませんけど。私は天狗を見て、逃げてきたのです。

 教会に戻って、仲間に話したら、みんな信用してくれませんでした。「そんなの気のせいだ」と言うのです。しかし私は、天狗を見て逃げてきたのですから、このままではいけないと思いました。クリスチャンホームの仲間たちに、「頼むから来週、同じ場所に一緒に行って祈ってくれ!」と頼みました。
 みんな顔を見合わせていたけれど、皆、愛があります。「行ってあげる」ということで、ひとりで行くのではなくて、十人くらいの仲間と一緒に、天狗を見た山に上って行きました。
 そうしたら、その晩は全く予想に反して、天狗は出てこないで、聖霊さまが注がれて、本当に恵まれました。祈りが止まらなくなりました。気がついたら、朝になったというくらい、祈りの霊が注がれました。
 みんな言いました。「いや〜、徹夜祈祷会は恵まれる。天狗を見たなんていうけれど、なんかの勘違いだ。こんなに徹夜祈祷会が恵まれるのならば、これから月曜日の夜は県民の森に来て祈ろう。」ということで、県民の森祈祷会が始まりました。今年で三十一年目です。
 天狗が出なかったら、祈祷会は始まらなかったです。山の上で、「悪霊よ。出て行け!」と、挑戦的な祈りをした事をきっかけに、いろんな問題が解けていきました。家内も、だんだん元気になりました。

 それで私は、「祈り」はただ、お願いだけでなくて、権威を使う領域があることに気づかされました。今日もみなさんと一緒に、主の祈りをささげました。
 主の祈りのイメージには、静かなイメージがあります。「天にまします我らの父よ、み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。地にもなさせたまえ。」と、たまえ、たまえと、たまえちゃんがいっぱい出てきます。なんとなく静かな感じがします。
 司会者の先生で、若干、主の祈りの入り口のタイミングが違うので面白いです。先生方の性格が出ます。それぞれの特徴があっていいと思うのですが、静かなイメージですよね。
 しかしこの祈りは命令形です。「みこころよ、なされよ!み国よ、来たれ!」と、本来は、地面を力強く踏みしめて宣言するイメージだというのです。
 そういえば、あの夜、権限を行使する祈りを行った後に、問題が解決していったと、今ならわかります。一足飛びには教えてくれないけれど、いろんな試練の中、主は、祈りについて教えて下さいました。

 しかし私には、一つ疑問がありました。「なぜ、天狗が出てきたのか?」という疑問でした。けれども、後になって、その理由が分かってきました。
 私が祈っていた場所は、鳳来寺山から峰々が続いている場所でした。鳳来寺山は古くから、「修験道」の山として有名です。修験者って知っていますか?それは天狗をモデルとしています。

 私が「悪霊よ出て行け!」と夜中に叫んだ頂上付近の岩は、修験者たちの修行場だったのです。それらは悪霊を降ろすシャーマニズムの拠点で、言わば、敵の領地の真ん中でした。そこで、「悪霊よ出て行け!」と言えば、天狗が出てくるのは当然かもしれません。その事から主は、霊的戦いについて教えてくださったわけです。
 同時に、なぜ私に、いろいろ試練があるのかを祈る中で、「あなたの父の家を調べなさい」と教えられました。
 津具に行って、父の家がどんな偶像礼拝をしていたのかを調べろ!という導きをもらって、出かけて行きました。私の父の家は津具村に入って、最初の一軒目です。そこに行ってびっくりしました。

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 見てください。「ようこそ!天狗の里へ!」と書いてあるわけです。「天狗の風を聞きながら、ゆっくり走ろう、津具の里」なんてあって、親父の家は天狗礼拝を長年、真剣にやっていた家だったのです。修験者たちが山で修業をして、親父の家に来て飲み食いして、最後の祈祷をして山を下って行く場所でした。
 私はそのような偶像礼拝の家系だったと、初めて気づかされました。私は、クリスチャンホームでしたから、偶像礼拝はしていなかったけれど、こういう事に関しても、ちゃんと祈らなくてはいけないと教えられたわけです。

 前回のメッセージでも語らせていただいたのですが、出エジプト記二十章三節〜六節は、十戒の中でも最も重要な箇所だと思います。神はここで直接、「神に従う祝福」と、「偶像礼拝における呪い」について語っておられるからです。

『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

 日本人は偶像礼拝を、ただの文化習慣だと思っていますから、簡単に考えています。しかし偶像礼拝こそ、人生を閉ざす最大の力です。このような田舎で、偶像礼拝から離れるのはすごく大変です。しかし偶像礼拝ほど、未来を閉ざす力は他にはないのです。
 それは悪霊どもが最も激しく背後で働く罪です。三代、四代にまで呪いが継続するというわけです。しかしそこから離れて、神の側について、偶像礼拝から完全に離れたら、「千代に至る祝福」というのですから、すごいです。

 前回もお話ししましたが、新改訳聖書では、『三代、四代にまで』と訳されています。「にまで」と訳されると、連続するイメージを持ちます。

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 クリスチャンになったら、代を重ねるにつれて、悪い影響は薄れ、だんだん弱くなると考えます。しかし最近、そうではないことに気づかされました。
 英語の聖書や、ヘブル語の聖書でこの箇所を見ると、ヘブル語も、近頃、アプリですぐ意味が分かります。「父親たちの偶像礼拝の罪の結果は、三代目と四代目の上に現れる。」というイメージの方が強いのです。原語では、「上に、上に、上に」と「アル」という前置詞が使われています。また、三代目と(and)四代目の上にと、「三代目と四代目」がターゲットとされる事を示唆しています。

 同時に、三代目、四代目が、私たちが日頃理解している数え方と違っていました。一般では、自分は一世、子ども達は二世、孫達は三世、続いて四世と考えるのですが、聖書の三代目、四代目とは、「三代目がひ孫世代」です。そして「四代目が玄孫世代」です。私たちの世代理解と一代、ずれるのです。聖書は息子世代を一代目の世代としています。それから二、三世代と続くわけです。
 ということは、偶像礼拝の結果が現れるのは、「ひ孫、玄孫」たちの上に現れるということになります。
 自分が攻撃されるのも、「三世代、四世代前」から弾が飛んでくる事になります。

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 ひいひいじいちゃん、ひいじいちゃんの偶像礼拝の結果として、自分にミサイルが飛んでくるわけです。また自分の偶像礼拝の結果が、玄孫とひ孫に影響を与えるわけです。だから、どこから弾が飛んでくるのか、分からないのです。一世代、二世代をすっ飛ばして弾が飛んで来ますから、結局、どこから飛んでくるのか特定できない状況になります。

 今、日本の教会で一番大きな問題は、「信仰継承がなされない」ということです。クリスチャンホームで生まれ育ったら、全員クリスチャンになればいいと思いますが、クリスチャンホームの子どもたちが、信仰から離れてしまうのです。親は一生懸命、信仰によって育てたのに、離れたらショックです。親の育て方が悪かったとか、いろいろ考えるかもしれないけれど、根底の理由はそうではないのです。二世代間を超えて、ミサイルが飛んで来ますから、基地を発見しない限り、常に攻撃されるのではないでしょうか。

 今、日本の教会は危機的状態です。二〇三〇年になると、日本基督教団という、日本で最大の教団は、信徒数が今の三分の一になるそうです。そして教会数は、半分になります。なぜなら、二〇三〇年には、今の信徒の方々が、平均寿命を超えるからだというのです。
 しかも若い世代はほとんど、教会にはいないそうです。それは日本基督教団だけではなくて、日本の福音派と呼ばれる教会も、同じ傾向だというのです。なぜかと言えば、クリスチャンホームの若者たちが、クリスチャンにならないからです。
 世の中が予想以上に悪いからとか、いろいろ言うけれど、根源に偶像礼拝が関わっていると私は考えています。特に、ひいじいちゃんとひいひいじいちゃんの所から飛んでくる火矢を、やっつける祈りは本当に大事だと思います。

 先週、私の弟が先に話しましたが、私は、先々週、このテーマについて話しましたが、自分の曾々爺さんの名前は、知りませんでした。しかし先週、何気なく、叔父さんの家を訪問しました。父の兄弟は皆、亡くなりましたが、求さんという叔父さんが、一人だけ九十二歳で生きています。

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 先日奧さんが亡なられて、新城教会で葬式をしました。寂しく一人で暮らしているので訪問してあげました。その時、叔父さんに聞きました。「私にとってのひいひいじいさんって知っていますか?」と聞くと、「知っている」と言うのです。「おまえのひいじいさんは徳治郎で、ひいひいじいさんは駒太郎だ。」と教えてくれました。墓場に行くと駒太郎の石塔がありました。

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 父の実家の裏山には、偶像がずらっと並んでいます。ここには、「瀧本徳治郎」と名前が刻まれています。

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私のひいじいちゃんも、ひいひいじいちゃんも、天狗を拝んでいたのです。修験道をやっていたようです。私は全く無防備でした。
 旧約聖書に出てくる律法は、新約聖書においてクリアされるのですが、理由を知らないと、そのまま継続されるのです。
 天地が滅びるまで、律法の一点一画も、地に落ちないとイエスさまは語られました。今の時代は、新しい契約と、古い契約の二本立てです。私たちが古い契約の内容を理解して、新しい契約を差し向けるなら勝利が訪れます。私は偶像礼拝の結果について、全く関心がなかったのです。気にもとめていなかったです。
 しかし、このことを知らされて、祈ることの大切さを知らされました。聖書も簡単に読むのではなくて、しっかりと読まなければいけないことも、改めて知らされました。

 将来に向かう時間軸に、わざわいが乗っていたら、常にわざわいに出会います。わざわいに出会えば、生きる勇気を失います。せっかく、祝福が約束されていても、神に仕え続けることができなくなります。
 将来のわざわいを取りのけるためには、三代目と四代目という、未来を攻撃する力を取り去らないと、常に将来に向かう時間軸上に、暗闇の力が働くわけです。

 最後に、究極的な「将来と希望」とは何でしょうか。私たちにとって、真の将来と希望とは何でしょうか。
 いくら健康であっても、年を取れば病気になります。お金があっても無くなる日が来ます。いくら麗しい家族があっても、だんだん、家族はばらけていきます。これらは真の将来と希望ではありません。
 クリスチャンの最終的な将来と希望は、イエスさまがこの地上に帰って来られる「再臨」にあります。この地に神の国が現れる事を、最終ゴールとしなければいけないのです。本当の意味での将来と希望は、主が帰って来られる日です。
 では、主が帰ってくださるために、私たちは何をしたらいいのでしょうか。その秘訣が「賛美」にあります。そして、「彼らに主の名をほめたたえさせる」働きは、重要なテーマです。今月は「主をほめたたえる」、特別な月です。

 しかし、ちまたでは、わざわいも多いです。先週の豪雨によって、死者が五十一名、七十六名が行方不明だと言われます。これからその数はさらに増えると予想されています。このような災害が起こったら、即、未来は閉ざされます。最近、地震も多いです。気象や土地に対しても、「天候よ。土地よ、主を賛美しろ!」と宣言することは大切だと思います。現在、被造物と人間の間には対立関係があって、雨雲は、必要以上の水を降らせます。さながら日本を敵視し、意地悪をしているようにしか思えない天候です。

 詩篇百四十八篇の中に、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と記されています。人の役割は被造物全体を、神の前に引き出して、主をほめたたえさせる役割です。

 「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」をヘブル語で見ると、ヘブル語では動詞に「態」が七種類あります。これらは全て「ピエル態」という動詞が使われています。それはどういうものかというと、「激しい動作や反復動作を表す自動詞」だというのです。「主をほめたたえろ!」と人が宣言するのは、激しい動作です。そして、反復してやらないといけないのです。
 私たち人類はもっと力を込めて、激しい動作で、「主を賛美しろ!」それも一回限りだけでなく、何度も繰り返して宣言するのです。
 特に五節と十三節だけは「未完了形」です。まだ宣言が完了していない、場所に出て行って、「主を賛美しろ!」と宣言する役割が私たちにはあるのです。

 今の天候は神の栄光を現しているとは、とても思えません。クリスチャンたちが自分の役割の場所に出て行って、「主を賛美しろ!」と宣言したら、変わるはずです。
 今週、朝起きたら、空を見上げて、「主を賛美しろ!」と、土地にも、「主を賛美しろ!」と、すべての被造物に対して、「主をほめたたえろ!」と命じて下さい。そこから、将来と希望が見えてきます。

 最近、一つのみことばが私の頭の中を巡っています。それが、詩篇五十七篇八節です。今日の賛美の中でも歌われました。

『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

 新改訳聖書だと、『私のたましいよ。』とありますが、共同訳や英語で見ると、『私のたましい』ではなく、『私の誉れよ』とか、『my glory』となっています。
 「たましい」という訳は、本来は成立しません。「栄光」とか「栄誉」とか「誉れ」「豊かさ」「高貴」という意味です。
 だからこのみことばは、理解できないことばです。「私の誉れよ目を覚ませ!」とは、「自分にとって、もっとも栄誉ある、すばらしい仕事に気づけ!」という意味になります。
 自分にとって、人間にとって、最も栄誉ある、栄えある仕事に気づけ!魂よ、気づけ!と言っているわけです。

 では、その仕事は何か、「十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。」というのです。文字通り受け取ると、現代ならば、ここにギターがありますが、「私にとって最高の仕事、それは、ギターを目覚めさせることだ!」となるわけです。ギターの所に行って、「おい、起きろ。目を覚ませ!起きろ!」と言うのが最高の仕事だというわけです。ちょっと、あんた大丈夫?という感じです。
 このことばは、三千年前に語られたことばですが、現代を見据えて語られたのかもしれないと思います。

 前回もお話しましたが、今、宇宙物理学の世界で分かってきたことは、すべての物質の根源は「振動する弦」だというのです。振動によって、すべての物質ができているというのです。いかなる物質の根源も、振動する弦だというのです。それらは、全て、音楽に置き換えることができるというのです。
 以前に短いビデオクリップをお見せしましたが、ある物理学者が、この宇宙には十一次元くらいまでの高次元があるというのです。それらを調べると、すべての根源が弦の振動であり、音楽に置き換えることができる為に、創造主の心がわかると話していました。
 創造主がなぜ、大宇宙を造ったのか。それは、神が造った被造物のすべてが調和して、オーケストラのように調和した音楽を奏でる為だというのです。それは物理学と言うよりも、聖書の世界そのものです。聖書から見たら、すべては主を賛美する楽器として、造られたことになります。
 ということは、私たちの最も栄えある仕事は、「十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。」とはすなわち、「すべての被造物よ、目覚めよ!主を賛美しろ!」という、宣言に他ならないのです。

 先日、一冊の難しい本を読んだのですが、これはノーベル物理学賞を受賞した博士が書いた、「物質のすべては光」という本です。聖書を見ると、「光あれ!」という宣言から物質ができています。光は振動であり、物質です。
 「立琴よ、目をさませ。」とは、被造物全体が調和して、主を賛美することに他なりません。そして、私たち人類に、被造物オーケストラの指揮をとることを、創造主は願っておられるのです。

 人類は、全宇宙・被造物オーケストラの指揮者です。優秀な指揮者はピッコロがちょっとでも鳴っていなくても、すぐに分かるそうです。「あっ!ピッコロが鳴っていなかったね!チューニング狂っているよ。」と、指揮者はすぐに分かるらしいです。
 私たちは、被造物全体の指揮者ですから、被造物の不協和音を調整して、神の前に響き渡る、調和のとれた交響楽に変えなければならないのです。
 そもそも偶像礼拝とは、本来、神を賛美しなければならない山が、海が、空が、賛美しなくなった状態と言えます。山自体が拝まれ、悪霊を賛美させられ、山自体が本来が持っている、創造主に対する振動数が狂うのだと思います。神の前にはブーイングのような状態の音になって響くのかも知れません。
 しかし私たちが、偶像礼拝から離れて、偶像礼拝の背後に働く暗闇の力を打ち破り、すべての被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言したら、被造物は徐々に神の前にチューニングの合った賛美を奏でるようになるはずです。
 それが完成するとき、イエスさまはこの地上に帰って来られると信じます。その働きを任じられているとは、本当にすごい事ですね。まさに、「私の栄誉よ、目を覚ませ、私のグローリー、栄光よ、目を覚ませ」そのものです。

 最も栄えある仕事、十弦の琴、立琴に目をさまさせる、すなわち、被造物全体を指揮して、創造主にささげる賛美を完成させることが、私たちにとって最も重要な仕事であり、真の、将来と希望でもあるのです。
 クリスチャンがこのことを理解して働きはじめたら、すばらしいじゃないですか。今日一日、雨に濡れないように、「雨降るな!」とか、「主をほめたたえろ!」ではないのです。すべてが神の前に調和するために、主は人を用いてくださるのです。
 そのために、イエスさまはこの地上に来て、人類を救い出すために十字架にかかって、三日目によみがえってくださったのです。そのシンボルとして、今日は聖餐式を用意しています。最も栄えある仕事、すべての被造物を主の前に引き出し、主を賛美させる仕事を、今週も続けたいと願います。
 最後にみなさんとご一緒に、祈りのときを持ちたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神さま、感謝いたします。今日はこのように礼拝のときを持たせていただけたことを、心から感謝いたします。
 私たちは将来と希望を目標に歩んでいます。すべてのわざわいも取り去ってくださることを感謝します。今日は、すべての被造物を調和させるために、指揮者として働く力を与えてください。イエスさまがそのために、この地上に来てくださり、十字架にかかってくださいました。
 今から聖餐式を行いますが、聖餐式を祝福してください。ここに備えられました、パンもぶどうのジュースも、主をほめたたえますように。
 聖餐式の役割のために選ばれたパンとぶどうのジュースに宣言します。今、みことばと聖霊によって、イエスさまとひとつになるときとなります。主の勇士として歩むことができますように。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。