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「深みに漕ぎ出せ」

  • 2020年1月12日(日)

新城教会牧師 岡本信弘
ルカによる福音書5章4節〜5節

『話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、綱をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」』

 ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。新しい年になり早二週間がたとうとしていますが、元気にこの場所に立つことができ、心から感謝します。
 この二〇二〇年は、新城教会宣教七十周年、リバイバルミッション五十周年、プレイズ創立から三十周年といういろいろなことが重なった年となりました。
年末には七十周年記念集会があり、スライドが映し出されたり、続けて数人の方が証をしたりしていましたが、「こんな時代があったのか」と思われた方が多いのではないでしょうか。私は今年で六十四歳なので、七十年前までは振り返ることはできませんが、新城教会の古き時代を知る数少ない一人として、当時を振り返ってみたいと思います。

 この場所に赤い屋根の教会が建てられた時は、私はまだ保育園児だったのでよく覚えていませんが、会堂が増築された時は小学校六年生くらいで、地下室を掘る手伝いをしたことを今でも覚えています。クリスチャンが一丸となって会堂を建て上げたという、懐かしい思い出があります。
 皆さんの中で赤い屋根の教会に入ったことのある人はどのくらいいますか?本当に少なくなりましたね。それだけ私も歳を取ったということですが…(笑)。
 増築された赤い屋根の教会にはバルコニーがありました。下五十センチくらいは壁で、上はガラス張りになっていて、いつも若者がそこに集まっていました。私は自分の家がありましたし部屋もありましたが、中学時代は、三百六十五日のうち三百日以上はそこで寝泊まりしていました。ふかふかの布団ではなくて汗臭い煎餅布団ですが、それぞれ専用の布団があり、それを引っ張り出して、たわいもない話をして毎晩過ごしました。
 その後、高校、就職してからも毎週土曜日になると皆がそこに集まり、くだらない話をしていました。時には土曜日の夜、お腹が減って豊川までみんなでラーメンを食べに行ったり、遅くまで話していて寝込んでしまい(教会で寝ている訳ですから礼拝に遅刻することはあり得ないのですが)、九時に礼拝の賛美歌が流れ、「やばいぞ!」と目が覚めたこともしばしばでした。当時はほとんどパンツ一丁で寝ていたので、そのまま飛び上がるとガラス張りで見えてしまいますから、五十センチの壁の所で寝ながら服を替えて、いかにも初めからいたかのようにしていたという時も多々ありました。
どうでもいい話の中にも、「リバイバルが起こったらどうなっちゃうのかな?」とか、皆が将来の夢を語り、「将来どこに開拓に出るか?」といった話題もありました。そんな中で、私を含めてそこにいた若者のほとんどが献身をして伝道者となり、開拓に出たり、主の奉仕に携わっていたりすることを考えると、思い出深く、重要な時だったなぁと思います。 
 またもう一つは、若い男たちの集まりですから、「将来、どんな人と結婚したい?」といったことも話しました。私は二十歳くらいから、「あの人と結婚したい!」と名前を挙げて言っていました。そして、神さまの計画の中で結婚したのが、今の家内です。この会堂ができて今年で四十年ですが、献堂式の一ヶ月前にここで結婚式をしていただいて、私たちも結婚四十年となります。良いことばかりではなく、いろいろ大変なこともあったわけですけれども、今日まで守られ、導かれてきたことを心から主に感謝しています。

 さて、一九七〇年、東栄町で話し合いがなされ、日本リバイバルクルセードが結成されました。私もその場にいました。中学生でしたので、もちろん話し合いに参加していたわけではなく、皆で昼間は川で遊び、夜は川にわなを仕掛けて魚をとっていましたが、そんな頃から今までつながってきました。
今日・明日と、県民の森において五十周年感謝聖会が開かれます。五十年を振り返ることも必要ですが、振り返っただけでは何の意味もありません。先生方のビジョンを聞き、ここからスタートする。ここから何が始まるか、期待して聖会にご参加いただきたいと思います。

 そんな中、一九九〇年、プレイズ出版が教会の印刷部門から会社として設立されてから、今年で三十年を迎えます。皆さまのお祈りと励ましにより、ここまでこられたことを心から感謝しています。 
 三十年の間には、大変なこともたくさんありましたが、主がその都度、知恵を与え守ってくださり、導き続けてくださいました。そして印刷・出版会社であった「プレイズ出版」は、数年前から様々な事業を展開していますので、二〇一九年には社名を「プレイズ」に変更し、新社屋に移ることができました。昨年は、何人もの人が、「社長は運が良いですね」と言ってくれました。またある人に、「岡本さんは持ってるね!」と言われました。この言葉は、二〇一九年の中でも、特に記憶に残っている言葉です。
「持ってる」という言葉を私はあまり使うことがありませんが、この言葉をかけられてから考えてみました。「持っている」とは、「特別な何かを持っている」、「強運をもっている」という意味で、確かにクリスチャンでない人からしたら「運がいい人」と見えるかもしれません。私は、「持ってるね~」と言われた時、こう答えます。「私たちクリスチャンが持っているわけでもなく、運がいいわけでもありませんよ。持っているのは、私たちの信じている、明日を知っておられる神さまで、その方が共におられるからですよ」と。
今年になってからも多くの取引業者が新年の挨拶に来ましたが、そのことを引き合いに出して、「ぜひ教会に来てくださいよ。皆さんは私に運がいいと言いますけど、運じゃなくて神さまですよ」と話すことができました。当然ですが、業者の人は挨拶に来るのですから、逃げることもないし、私が話すのを神妙に聞いているのです。この言葉を言っていただいたことで、知人や取引業者の方々に証しすることができ、絶好の伝道のチャンスだと思って、そのような機会が与えられたことをあらためて主に感謝しました。
皆さんにも伝道のきっかけはいろいろあるかと思いますが、チャンスを逃さず、語っていただきたいと願います。

 さて今日は、ルカによる福音書五章四節、五節から「深みに漕ぎ出せ」と題してお話しします。皆さんもよくご存じと思いますし、先日のカウントダウンの集会でも、二〇二〇年に向けて私に与えられたみことばとして語らせていただいた箇所です。今日は、この箇所をもう少し掘り下げてみたいと思います。

 このみことばが与えられてから、もう一度、シモン・ペテロとはどんな人物であったかを調べるために、聖書にあるペテロに関する箇所を読み返してみました。
 ペテロは、ルカによる福音書にもありますように、ガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスさまに声をかけられ最初の弟子となりました。マタイの福音書ではガリラヤ湖で水の上を歩いたことが有名な話です。
聖書中には、パウロに次いで多く名前が出てきますし、十二人の弟子たちの中でも長老格であり、全体のまとめ役をしていたような素晴らしい人物だったようですが、一方で、かなり気の短い男で、イエスさまから注意を受けることもしばしばあったようです。どちらかというとパウロは、伝道者としてエリートといった感じですが、ペテロは、割と人間味のある人じゃなかったかなと思わされます。いずれにせよ、イエスさまに愛された弟子の一人であったことは間違いありません。

 ルカの福音書五章を見ると、イエスさまの奇跡を見、素晴らしいみことばを聞いて、どんどん人が集まって押し寄せてきたので、イエスさまはシモンの持ち舟を借りて少し陸から漕ぎ出したところから皆にメッセージを語ったとあります。そしてそのメッセージが終わった後でシモンに、『深みに漕ぎ出して、綱をおろして魚をとりなさい』と言われました。
 このことはシモンにとって非常な驚きであり、あり得ない話だったと思います。先週も雅也先生がこの箇所を解説してくれましたので、少し飛び飛びで話をしたいと思いますが、あり得ないと思える、いくつかの要因があったと思います。
 一つは、魚が捕れる時間帯は夜から朝方にかけてなのです。でもすでに陽は昇っていて、「こんな時間に魚が捕れるはずがない」と彼は一〇〇パーセント思ったと思います。
 そしてもう一つは、いくら先生が言うことでも、プロの漁師が昨晩から、いちばん捕れる時間帯に網をおろしていたのに一匹も捕れなかった。「こんな日に、捕れるはずがないじゃないか」と思ったと思います。
 そしてもう一つは、すでに網を洗っていて、片づけているのにもう一度網をおろすなんて、「無駄な労力をかけたくない」と思ったと思います。
 しかし、シモンは、五節でこう答えています。

『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』

 なぜペテロは網をおろす気になったのでしょうか。
 一つは、自分の得意とするところで昨日から一生懸命頑張ったけど一匹も捕れず、少し自信もなくなって、「自分はだめだな~」と自分の限界を感じたからかもしれません。
 また、「せっかく先生が言ってくれているのに網をおろさないと失礼かな」と気をつかったかもしれません。
 また四章では、シモンのしゅうとめが高熱だった時に、イエスさまによって癒やされたことを見ているし、群衆に語っているイエスさまの話を聞きながら、「あり得ない話だけれども、でもひょっとしたら何かが起こるかもしれない」、「いや、この人の話だったら信じてもいいかな」と思ったのかもしれません。
イエスさまは、この時シモンに初めてことばをかけられ、従うように促されました。ペテロは、信じ切っていたわけではなかったけれども、『でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』と答え、網をおろした時にたくさんの魚がはいり、綱がやぶれそうになったのです。

 このことからイエスさまは、私たちクリスチャンに何を教えようとされているのでしょうか。それは、人には考えもつかない神の常識があるということです。
ペテロは「人間だけではなく、魚さえも操ることができるこの人は、どういう人なんだろう」と思ったと思います。
 以前お証ししたことがありますが、ある時、私と家内が釣り堀に行って、魚がいるのかいないのかわからないような水槽を前に、すべての被造物が主をほめたたえるように願い賛美をすると、シーンと静まりかえっていた水槽で、魚がピョンピョン飛び跳ねるという光景を見て、「わぁ~すごい!」と叫び、主のみわざをあがめました。ペテロも、その大量の魚を見た時、すごく驚いたと思います。
 そしてその後、彼がどのように変わっていったのかということがルカの福音書五章八〜十一節に書いてあります。

『これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。』

 シモンの人生が百八十度変わったのです。それは単なる偶然ではありません。イエスさまがこの場所に来られたこと、そしてシモンの舟に乗ったこと、舟からメッセージを語った後にシモンに命じたことも、すべて神さまのご計画だったのです。

 皆さんも、問題や困難にぶち当たることがあると思います。その時に皆さんどうしますか? 初めから祈ればいいのに、私はまず、この問題を、この窮地をどうやって解決するかということを、今までの経験や知識を結集して考え、自分の力でなんとかしようと画策します。それでもどうしようもない時、「祈ろう」となることが多いのです。
 どうすることもできない時にも、私たちには主の助けがあります。

『地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ書三十三章二~三節)

『わたしを呼べ』。カウントダウンでフェルナンド先生は、「朝に夕に真昼に主に祈れ!」、開先生「叫び続けよ!」とメッセージされましたが、ここでも「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答えるよ。そして、あなたが知らないかもしれない、あなたが考えもつかなかったかもしれないような素晴らしい答えをあなたに与えてあげるよ!」と、イエスさまは私たちを励ましてくださっています。私たちには明日のことはわかりません。明日のことをわからない私たちがいくら考えても大した答えは出ません。主に叫びましょう。

 皆さんがシモンと同じような場面に遭遇したらどのように答えたでしょうか?
この中の「でも」という接続詞には、とても大きな意味があります。
たぶん私なら「でも」ではなく、一匹もとれなかったの「だから」、と言って、網をおろすことはしなかったのではないかと思います。
 みことばをいただいても、なかなか信じ切れずなかなか行動に移すことができない自分に、「いや〜私はなんて不信仰なんだろう」と落ち込むことがあります。
 しかし、ここで大事なことは、皆さん一人ひとりに言えることは、「できない。駄目だ~」と思ったとしても、その後に、「でも」と言って、事を起こすか起こさないか、ここがいちばんのポイントなのです。誰もが初めから「百パーセント信じます!」と言えるわけではありません。信じられない。「でも」と言って行動を起こせるかが重要です。

 メッセージの準備をしながらいろいろなことを考えている時、三十数年前、明先生がビジョンを持ち、新城教会に印刷所を作りたいと私に言われた時のことが思い出されました。私は、「先生、いくらお金がかかるか知っているんですか? どんな技術がいるか知っているんですか? そんな簡単にできるはずがないじゃないですか」と、一蹴しました。
 でも先生は主から語られ、ずっと祈り続けておられました。しばらくしてから私は先生の祈りに動かされ、「できるかどうかわからない。『でも』やってみよう」と、プレイズ出版を立ち上げました。印刷の知識もまったくない、経験もない、そんな新しい領域に踏み込むような未知の世界に飛び込んでここまでこられたのは、私の信仰ではなく、神さまの導き、明先生の祈りと、ただただ主の恵みだなぁと思い感謝しています。
 
 また、昨年のクリスマスに来てくださった小坂忠さんのコンサートを聞きながら、一つのことを懐かしく思い出しました。三十年前の九月、一色しか刷れない業務用の印刷機を五百万円で購入しチラシなどを刷っていたのですが、「新城文化会館で小坂忠さんのクリスマスコンサートを開くから、そのチラシを刷ってくれ」と十一月に頼まれました。それが初めて刷ったカラーのチラシでした。一色機でカラー印刷をしたのです。「本当によくやったなぁ」と思います。その時にタイムスリップして今の知識があったら、「絶対にできません」と言って断ったと思いますが、それも神さまのご計画だったと思います。

 一九九三年の甲子園ミッション、一九九八年の武道館と、大きな集会が続いていくわけですが、その働きとともに、プレイズ出版の名前も多くの日本のキリスト教会の知るところとなったということは本当に恵みです。
 私は、ほとんどの大会で、ミッションの財務運営を受け持ち、大金が動くのを見て、「こんなにどんどんお金が出ていくけど大丈夫かな」、「もう少し貯めておいたほうがいいのではないか」といつも心配する不信仰な者でした。常識的に考えたらとても手を出すことができないような働きの中で、半信半疑ながら、先生方が主のことばを信じて「神さまが必ず成功させてくださる」と信仰を持って深みに漕ぎ出していかれるのを見て、私もついていきました。結果は、主が約束どおり、たくさんの収穫を与えてくださいました。そのことを思い出すたびに、「あぁ、神さまは私のような小さな不信仰の者にも、その働きの一端を担わせてくださった」と思い感謝しています。これは、本当に大きな恵みですし、私の一つの財産でもあります。

 そんなことを考えている時に、旧約聖書の一つの出来事が思い浮かびました。それは、アラムの王の将軍ナアマンが、らい病に侵されたという記事です。彼は恥を忍んで、癒やしを求めて預言者エリシャの元へ来ました。

『エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。』(列王記 第二 五章十~十四節)

 彼は、神のしもべエリシャの言葉に腹を立てました。会ってもくれないし、あの汚いヨルダン川に行って身を洗え、そうしたらきよくなると言う。そんなことは「あり得ない! ばかばかしい!」と思って、彼は帰途につきました。でも、自分のしもべの言葉で「そうだ。やるだけやってみるか」と思い返し、ヨルダン川に行って七たび身を浸した時に、完全に癒やされたのです。
 彼も一度は怒って帰ってしまったけれど、「やってみたらできるかもしれない。癒やされるかもしれない」と思ったところから、この癒やしが現されたということがわかります。

 私たちにも、信じることができないような、あり得ないようなことがたくさんあります。「ペテロのような信仰は持てない」と思うかもしれませんが、ペテロという人も、一度も信仰がぶれなかったわけではありません。彼は、イエスさまが十字架にかけられる前、ついていった時に、「あなたもイエスの弟子でしょう」と言われ、「そんな人は知らない」と三度否認し、イエスさまを裏切ったことが福音書に書かれています。
 そしてその時に彼は、そうなることをイエスさまが事前に彼に予告していたことを思い出し、外に出て激しく泣いたとあります。「イエスさまを裏切るなんて、自分ほど駄目な人間はいない」と思ったのでしょう。
 そんな彼でしたが、そこから立ち上がり、イエスさまが天に帰られてから聖霊に満たされ、多くの奇跡を行い、主の働きを前進させた偉大な弟子となっていきました。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』(使徒の働き一章八節)

 私たち一人ひとりは、弱い者です。ある程度のところまでは、経験や努力や才能でなんとかなるかもしれません。しかし、主に用いられるためには、どうしても聖霊の力が必要なのです。

 使徒の働き三章に、ペテロとヨハネが宮に上って行った時、生まれつき足のなえた人が運ばれて来て施しを求めたという記事があります。

『すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。』(使徒の働き三章六~八節)

 ペテロは、疑り深く不信仰で、逃げ出してしまうような者でしたが、聖霊に満たされた時に変えられ、何をも恐れず大胆に主を宣べ伝え、力強いわざを現していったのです。
 
 今日掲げたみことばに、『深みにこぎ出して』とありますが、これはそれぞれ、今までに踏み入れたことのない領域も現しています。今まで私たちが手をつけたことも、考えてもみなかった、それはあり得ないと思っていた領域をも指していると思います。
 皆さんにとっての深みがどこであるかはそれぞれ違います。一人ひとりに主から語られている深みがあると思います。この年、半信半疑であっても、主に従う決心をし、主に示された深みに一歩踏み出した時、主が聖霊の力によって私たちを強め、主のわざを現す者としてくださると信じています。また、皆さんに、新しい扉が開かれることを祈っています。
 恵みもたくさんいただける一方で、様々な問題、いろいろな悲しいことにぶつかるかもしれません。しかし神さまはあなたを見捨てることはありません。

『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』(ヨハネの福音書八章十二~十三節)

灯のない真っ暗な夜道を歩いていたら、石につまずいたりどぶに落ちたりするかもしれません。でも道を照らす灯があれば、足を踏み外すようなことはありません。私たちクリスチャン生活においては、主が私たちの光であり、進むべき道を照らしてくださり、どちらに行ったらいいかも示してくださり、私たちがつまずかないように、転ばないようにしてくださっています。そして、いつも主は私たちに手を差し伸べてくださっているということを忘れないでいてください。
 そして、みことばを蓄えておくことも重要です。イエスさまは二千年前にはシモンに直接『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と語られました。イエスさまが天に召されてからは、ペテロが神のことばを用いて語った時に、そこに癒やしが現されたと書かれています。今は、イエスさまが直接語ってくださるのではありませんが、聖書のみことばを通して、主は私たちに語ってくださいます。みことばは、私たちが生きていくためのいのちのパンです。
イエスさまが伝道を開始される前、四十日の断食した後、空腹を覚え、悪魔の試みにわれたことがマタイの福音書四章四節に書いてあります。

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』

こう言って、悪魔の誘惑を退けられました。
 また、みことばは、私たちのたましいを救う、とあります。

『ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコブの手紙一章二十一〜二十二節)

みことばを心に植えつけ、いざという時、ただ自分の知恵や自分の経験に頼るのではなく、みことばを受け入れ、従い、実行する者にならせていただきたいと思います。

 今日のテーマのみことばをもう一度お読みします。ルカによる福音書五章四〜五節です。

『話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、綱をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」』

 この時まだシモンはイエスさまの弟子になる前です。イエスさまのことばを聞いた時、「この人の言うことなら大丈夫だ!」と、強い信仰を持っていたわけではありませんでしたが、『でも』と言って半信半疑ながらも網をおろした時に、網が破れそうになるほど多くの魚を収穫することができました。
 二〇二〇年、まだ始まったばかりですが、主がシモンに語られたように、私たち一人ひとりにも「深みに漕ぎ出して、網をおろせ」と語っておられます。それぞれ、置かれている環境や年代や地域、様々な違いがあります。また、主が願っておられる「深み」もお一人おひとり違います。しかし、主はあなたに語っておられます。私たちはそれを聞き逃さないようにしましょう。そして、それがどんなに難しいことであっても、「私には無理です。『だから』できません」ではなく、「無理かもしれない、駄目かもしれない」と思ったとしても、このペテロが言ったように、主のことばをしっかり受け止めて、『でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』と従い、一歩踏み出し、多くの収穫を見る年とさせていただきたいと願います。
 二〇二〇年、みことばを蓄え、主に聞き、お互いに祈り合って、主に喜ばれる働きをさせていただきましょう。
 
今、静まって祈りましょう。皆さんが主に語られているにもかかわらず、今まで躊躇していたことがあるかもしれません。これから語られるかもしれません。それは、今まで考えもつかなかったようなことかもしれません。「でも主よ、私はあなたに従います」と深みに漕ぎ出してみませんか。主が皆さん一人ひとりを遣わす場所があります。「主よ、私に今語ってください。私は従っていきます」と、ご一緒にお祈りしましょう。

 では皆さんのために私が一言お祈りします。

 愛する父なる神さま、み名をあがめます。二〇二〇年が始まって第二週目となりました。私たち一人ひとりは本当に弱い者ですが、主のあわれみの中で救われてここにいます。この二〇二〇年、神さまの力をいただき、一歩前進する者に、一歩踏み出す者にさせていただきたいと今一人ひとりがお祈りしました。その祈りに主が応えてくださり、今までどうしても開かなかった新しい扉を今年開いてください。主のわざを現してください。癒やしを現してください。問題の解決を与えてください。人間の力、人間の知恵、人間の経験ではどうにもできないことがたくさんあることを覚えますが、私たちが不信仰になることなく、主に近づき主と共に歩み、大いなるみわざをいただける年となることを信じ心から感謝します。今日ここに来られた方々、来ることができずインターネット礼拝をされている方々にも、イエスさまの豊かな祝福と恵みで満たしてください。主のみ名によってお祈りします。アーメン。