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「悔い改め

2017年2月19(日)
新城教会牧師 上條実
詩篇65篇1節~5節

『神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日も寒い中、集まって下さり、本当に感謝します。お祈りいただいて、我が家はみんな守られていることを感謝します。特別家内のためにお祈り下さり感謝します。
 また先ほどは中高生バンドである、オーバーカマーズが素晴らしい賛美をして下さいましたが、その中にわが家のKも初めて礼拝でギターを弾きました。彼は今度高校受験なのです。ほとんど受験勉強はしていませんが、昨日の夜遅くなって、メッセージの準備をしておりました私の所に来ました。いつもなら彼は就寝している時間でしたので、「あれ?どうしたの?」と聞きました。すると「ギターの練習をしていた。」と、ギターは一生懸命頑張っています。彼も主のために、ご奉仕ができる子どもになって来たと思い感謝しました。彼を初め受験生のためにお祈り下さい。

 今日週報に挟んであります用紙に、今週の日本縦断リバイバルミッションのスケジュールが掲載してあります。ぜひ時間に併せて祈り頂ければと思います。連日滝元順牧師とチェヨンドゥ師がご奉仕して下さっています。本日の礼拝は岐阜県可児市において、午後は愛知県西尾市にてご奉仕し下さいます。この時間はちょうどメッセージ時間だと思います。先生方のご奉仕を通して多くの方々がイエスキリストを救い主として信じる事ができますようにお祈り下さい。明日は静岡県富士宮市において、火曜日は静岡県浜松市にて集会が計画されております。
 水曜日からは平岡修治師にメッセンジャーがバトンタッチして、長野県・福井県・石川県・富山県・新潟県と続きます。今年は大雪が降りましたので、ぜひ道中が守られる様に覚えてお祈り下さい。また奉仕者の健康も支えられるようにお祈り下さい。

 また先ほどもお祈り下さった様に六人目の孫がいよいよ産まれ様としております。明日が予定日となっているそうです。産まれる時は主が握って下さっていますが、安産できるようにお祈り下さい。

 それでは「悔い改め」というタイトルで、みことばを学んで行きたいと思います。この数日私の心の中にとどまっているみことばです。先ほどは新改訳聖書で読んで頂きましたが、リビングバイブルでもう一度詩篇六十五篇一節から五節をお読みしたいと思います。

『ああ、シオン(エルサレム)に住まわれる神様。 私たちは賛美を内に秘めながら、おいでをお待ちしています。 この態度こそ、私どもの誓いを果たすものです。 神様は祈りに答えてくださるお方なので、あらゆる人が願い事を携えてまいります。たとい私の心が罪に占領されていようと、お赦しになることができるお方です。聖い天幕の内庭で神様とともに住むようにと名指された人は、なんともうらやましい限りです。 そこには、すべての良いものに混じって、大いなる喜びが待ちかまえているのです。神様は、恐怖におののかせるような行為や、恐ろしい力を駆使して、私たちを敵から救い出してくださいます。 神様は、世界中の人々にとって、唯一の望みなのです。』

 今年滝元順牧師がシリーズで語って下さっています詩篇百三篇。特に五節の

『あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

というみことばは私たちクリスチャンに希望を与えてくれることばです。「あなたの一生を良いもので満たされる。」なんとすばらしい、わくわくするみことばです。そしてその良いものとは「聖霊に満たされる」ことだと学びました。本日開いて読んで頂いたみことばも良いもので満ち足りると同じようなみことばが書かれてあります。詩篇六十五篇四節、

『幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。』

 「良いもので満ち足りる」教会と日本に「聖霊に満たされる」様に祈り続けて行きたいものです。、良いもので満たしてくださるという、この約束はすばらしいことです。そして先週の礼拝のメッセージは大変恵まれた時でした。第二列王記四章一節から七節の言葉から、「あなたと子どもたちのうしろの扉を閉めろ」と学びました。。これは家族に開かれている、敵の力をブロックしなさい。言い換えれば、家系の中に開いている、悪魔に対する扉を閉めろ!と語られました。そして滝元順牧師の奥様のお母さんが病気になられた事を証しされていました。一月のはじめ頃、目が腫れて、食事ができなくなり熱が出て、どんどん痩せてきた。また頭から顔にかけて強い痛みがあり、苦しんでおられたとの事でした。五キロくらい痩せて、危ないと思われたそうです。義母のいやしのためにお祈りしたそうですが、治らずがっかりされたそうです。しかし、ある夜、「うしろの扉を閉めろ」と教えて下さったそうです。家系の中に悪霊の力が入っている。本物の神に対する祈りさえも阻害し、ブロックするような力が働いているから、その扉を閉めろ!と語られたそうです。そこで暗闇の力が打ち破られるように戦いの祈りに行かれて、偶像礼拝の家系である罪を悔い改め、「罪を赦してください!」と悔い改め、「癒やしの祈りを止める、悪しき力との関係を断ちます。扉が開いているなら、閉めます!」「家系を代表して、そのうしろの扉を閉めます!」と敵の面前で宣言されたそうです。そしたら祈った時刻に、ピタッ!と痛みが止まり、起き上がれるようになり、元気になられたそうです。滝元順牧師も「びっくり!私もそこまでうまくいくとは思わなかった」と言っておられましたが、扉を閉める事の大事さを学びました。あの証しを聞いて、良い事が満ち足りるということばが、現実に起きている。聖霊の扉を開いてくださったと思わされました。

 私は昨年の十二月三十一日に語らせていただいたみ言葉、ローマ書九章九節で、

『約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」』

というみ言葉を、この二〇一七年の為に与えられた事を語らせて頂きました。当時アブラムが、七十五歳の時に「あなたを大いなる国民とする。」と、神に語られました。そして時が過ぎ、九十九歳の時に、『私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。』と、語られたのです。そしてアブラハムが百歳になって、約束の世継ぎであるイサクが生まれました。人間の力ではどうしても無理な状況下の中であっても、なんとイサクが産まれました。二十五年後に世継ぎが産まれたのです。新城教会も一九九二年二月十三日。突如、天が開かれて聖霊様がこの教会に臨んでくださり、そしてその年の七月に霊的戦いが始まりました。様々な事がありましたが二〇一七年は良いもので満たされる。アブラハムと同じく私たちの教会に聖霊様が訪れて二十五年。二十五年目に神様が新しい扉を開いてくださるんだということを、私はみことばから期待して、語らせていただきました。まさしく先週の礼拝の証しは二十五年目の祝福。良いもので満たして下さるという扉が開かれたと思わせられる出来事でした。自分もそのみ言葉を聞きながら、家内の病の為にうしろの扉が閉じられるように祈らせていただきました。

 そんな中で、今、先ほども読みましたが、詩篇六十五篇のみ言葉が私の心の中にとどまっていました。もう一度、三節から四節を読ませていただきたいと思います。詩篇六十五篇三節~四節(リビングバイブル)、

『たとい私の心が罪に占領されていようと、お赦しになることができるお方です。聖い天幕の内庭で神様とともに住むようにと名指された人は、なんともうらやましい限りです。 そこには、すべての良いものに混じって、大いなる喜びが待ちかまえているのです。』

 今、救われているということをリビングバイブルで読むと、『聖い天幕の内庭で神様とともに住むようにと名指された人、』とあります。今日、ここにいるクリスチャンの方は、一人一人、神があなたの名前を呼んでおられます。自分で教会に来たかのように思いますが、神の計画の中、私たちを、『聖い天幕の内庭で神様とともに住むようにと名指された人は、なんともうらやましい限りです。 』と語って下さっています。選ばれたのです。その天幕の内庭で住むことができない人から見たら、私たちはなんとうらやましい存在。愛されて、すばらしい祝福をいただいています。
 それだけを考えても、私は良いもので満たされているけれども、本当に今、もう一度、十字架のことを考える時に、イエス様が私のような者を選んでくださって、私が今こうして、兄弟姉妹と共にこの礼拝にいる事ができるという、この神様の内庭にいる事ができるというのは、なんと感謝なことかなぁということを、このみ言葉から読み取ることができました。

 そんな中で、もう一度、良いもので満たしてくださる方だから、必ず私たちが今まで願って来たことは、神様は忘れることがないので、もう本当に大きな扉がぱかーっと開かれて、今までずっと願って来た癒やしや、救いや、奇蹟や、様々な事が、この教会の中に、またこの日本の中に、業が起こされるんだろうなぁと、すごく自分の中に期待が溢れて、一週間過ごしたのですが、でもその時に神様が私に語ってくださったのは、特に先ほどのリビングバイブルを出していただきたいのですが、三節の所で、

『たとい私の心が罪に占領されていようと、お赦しになることができるお方です。』

というふうにあります。そして、その後に、

『聖い天幕の内庭で神様とともに住むようにと名指された人は、なんともうらやましい限りです。』

と書いてあります。

 今回、私はみ言葉のタイトルで、「悔い改め」というふうにタイトルを付けさせていただきましたが、本当に良いもので満たしてくださる方だということは、これは本当に正直、このみ言葉から、アーメン。その通りだということですよね。
 でも、もう一度、私たちが、良いものを満たしていただくために必要なものは、やはり聖さだなぁ。悔い改めの中にあるなぁということをもう一度教えられます。
 この詩篇の六十五篇の所には、良いものと混じって、大いなる喜びがあるというふうにここで語ってくださいましたが、良いもので満たしてくださると語ってくださいましたが、その前に、罪に対して神様が赦してくださる方だということを、ここで語っていることを覚える時に、やはり私たちはうしろの扉を閉めますとか、そういう方法だけを気にして、ただ本当に願い事がたくさんあるのでうしろの扉を閉めますというふうに祈ればいいというものではなくて、やはり私たちは本当に聖さを追い求めていかなければならない。
 毎週、私たちは聖餐式を受けさせていただいているわけですけれども、本当にこの聖餐というのは、イエス様の十字架のことを覚えて、これを感謝していただかなかったらいけないわけですけれども、本当に願い事が先行してしまって、私たちの信仰のベースが汚いままであったならば、絶対に祝福はもらうことはできないなぁということを今週神様からずっと教えられています。
 ですからやはり、聖さの中に力があると思います。

 話はちょっと違いますが、うちの息子がまもなく父親になるのですが、メールがLINEで来たのです。「父親とはなんだ?と、この頃考えています。」とのことでした。「えっ?父親?それは責任だよ。」と返してやりました。「子ども、妻を守っていく責任があるよ。」というふうに返したつもりだったのですが、「いや、聖書的にはなんだ。」とか、いろいろ書いてきて、聖書的にはとか、いろいろ考えたのですが、そんな中で、彼が返してきたメールで、ちょっとほこっと嬉しくなったのですが、私を見て、彼が言うには、「聖さだ」というふうにずっと思っていたらしくて、そんなことを私に対しての父親像というのは、本当に聖さ、そして「これからは責任を持ってやっていく」なんて書いてあったのですが、そんなふうに繕うことはできるかもしれないけど、心を割ってみなさんの前に出したら、ものすごい状況の中で、みなさんの中に立つことができないと思いますが、やはり聖さなくして、本当に私たちは良いもので満たされることはない。
 良いもので満たされるためには、やはり、この詩篇六十五篇から見ても、本当に悔い改め、今日、聖餐をいただきますが、本当にすばらしい神の業をいただくためにも、やはり私たちが内面的な部分で過去犯してしまった罪、また持ち続けてしまっている罪も、本当に悔い改めていく時に、聖さの中に働くのが、やはり聖霊様だと思います。聖い霊と書いてあります。ですから、本当に聖霊様ご自身の前に、私たちはまずうしろの扉を閉める。同じことですけれども、本当にうしろの扉を閉める前に、私たちが本当に十字架の血潮によって聖められていきたいと願います。

 先週もロサンジェルスのダウンタウンに「アズサ・ストリート」の事が語られていました。その小さな集会に聖霊が注がれました。今でも看板が残っています。「一九〇六年から一九三一年まで、この通りで、リバイバルがありました」と表示されているそうです。激しい動きがあったのは「三年間」だけだったそうです。初め、百数十人の人たちが聖霊を受けました。けれども、その後、そこから世界に聖霊の働きが広がっていきました。
 日本の教会は現在、八千くらいありますが、聖霊の働きを積極的に受け入れている教会は、少ないです。父なる神様、子なるイエス様、聖霊様というけれど、聖霊様の働きには、ほとんど触れません。これでは三位一体じゃありません。しかし世界の教会は、現在、その七割が、聖霊の働きを重んじる教会です。その原点がどこかというと、アズサ・ストリート。そこで注がれた聖霊の働きが広がったと言われます。今や世界で、ペンテコステ派、聖霊派に属するクリスチャンの数は、「約六億人」だそうです。たった百数十人に聖霊が注がれ、今や、六億人にも広がったと言うのです。アズサストリートに以前メソジスト教会であった古い建物があり、二階はアパートで、一階は一つの大きな部屋であり、隣が石塔屋、馬屋、材木置場だったので、徹夜集会をしてもどこからも苦情が出ないという、神によって特に備えられた場所で聖霊の働きは始まりました。会衆は、言われなくても、長時間祈り続け、いやしの祈りは二階の祈祷室で行われたそうです。なんと二階には癒された人たちが置いていった松葉杖などが一杯積まれたとのことでした。
今も同じ聖霊様です。私の好きな聖書の言葉の中に、ローマ二章十一節

『神にはえこひいきなどはないからです。』

 神様にはえこひいきはないと書いてありますから、今も私たち、この新城の教会にも、聖霊の働きが訪れ、救われ、癒やしの業が現されていくと信じます。

 私は他に起きた聖霊の働き。リバイバルを先週学びました。その中でピョンヤン・リバイバルがありました。一九〇三年 ハージ牧師らによる、ウォンサン・リバイバル集会が発端。元山(ウォンサン、今の北朝鮮の東側・港湾の町)で、宣教師たちが集まって祈祷会をしていました。その時、カンウォンド(江原道)で働いていた メソジスト教団のハージ牧師が、みことばを取り次ぐ時に 聖霊様の油注ぎを受け、悔い改めを始めたそうです。

「わたしは驕慢(きょうまん、おごり高ぶること)でした。 わたしが祈らなかったために、高慢になり、奇跡が起きませんでした。」

 その時、聖霊様による大きな感動を そこにいた宣教師たちが受け、恵みを受け みことばをいっせいに取り次ぎ、このウォンサンの聖徒たちが恵みを受け、ピョンヤンに伝播し、さらに南へ南へと流れていって、韓国全体を覆うリバイバル運動として広まったとありました。一九〇七年のピョンヤン・リバイバルは、悔い改め、祈り、伝道 の リバイバル運動だったそうです。ピョンヤンではL・A・ハーディーら宣教師たちによる聖書研究会で広まり、一九〇七年に、ピョンヤンの ジャンデヒョン教会に リバイバル運動が起きたときました。その教会の代表長老が立ち上がって悔い改め、

「私の友達が死ぬ間際に財産を私に預けました。そして家族の面倒を見てくれ、と言い残しました。しかし私はその一部を使い込んで戻しませんでした。今、それを悔い改めます。私がこの礼拝を終わった後、すぐに戻します。」

 人々はショックを受けながらも、恵みを受け取り、続けて、他の一人一人が立ち上がって悔い改め、あるいは床をたたき、床に転がって悔い改めたそうです。そして彼らはその日から変わり、アルコール中毒から抜け出し、麻薬から抜け出し、賭博から抜け出し、罪と不義の放蕩から抜け出し、罪のピョンヤンから、『東洋のエルサレム』とまで言われるほどに変わり、数えきれないほど多くの奇跡が伴ったそうです。この光景を見ていた ヘリス宣教師は、次のように証しています。

「たくさんの方が読み書きを習い、偶像崇拝が無くなり、酔っ払い、賭博、殺人が無くなり、狂信的な儒教・仏教信者たちが変わった。 そして、学校と病院が建てられ、 禁酒、禁煙運動が活発に展開され、女性の地位が向上し、土俗宗教と偶像崇拝から解放されました。」

  リバイバルの結果、”韓国のソドム”とまで言われたピョンヤンが、わずか一五年で東洋のエルサレムになったのです。

 今北朝鮮の国に大変な中にあっても、以前悔い改めのリバイバルの業が起こされたことを考える時に、一度燃え立った神の火がもう一度点けられるように、人手によらない、あのアブラハムからイサクが産まれたように、北朝鮮に、人出によらずに、神の霊によって変えられたら本当にすばらしいと思います。
 良いもので満たされる前に、私たちは悔い改めが必要だと教えられました。聖さの中で働かれる神の栄光がこの教会に現されたら本当にすばらしいなぁと思いました。

 そんな中で、一九九二年、この新城教会で起きた出来事をもう一度思い出しました。みなさん「主が立ち上がられた日」という本をお読みになったでしょうか?著者は滝元順牧師です。まだお読みになっていないなら、プレイズブックスにて販売されていますので、ぜひお読み頂きたいと思います。その本の四十九ページくらいから五十二ページくらいまで、この教会の一九九二年に起きた出来事が記載されています。一九九二年二月十三日に圧倒的な聖霊の訪れが教会に臨まれました。その後子どもたちに聖霊が臨まれました。その時わが家の長男は小学校五年生でしたがが、県民の森の芝生広場にある小屋に、毎週土曜日子どもたちを連れて祈祷会に出かけました。はじめは祈ることもできずに、「イエス様、力をください。」と聖霊を求める祈りをみんなでしても十秒で終わってしまうような感じでした。しかし七回目に、驚いた事が起きました。一人二人と、コンクリートの床にひざまずき、大声で涙を流して祈り始めたのです。今までいくら言っても長く祈れなかった子どもたちでしたが、聖霊が臨み、床が涙で濡れるほど大泣きしながら、日本のリバイバル。友達の事。学校の事など祈り続けました。尋常ではありませんでした。祈りを導いていた者として、驚き、恐れてしまうほどすごい状況になりました。私は子どもたち一人一人に手を置いて、祈ってあげると更に大きな声で泣き始め、真剣に祈り続けていました。帰る時間が来てしまったため、途中で祈祷会を終了しましたが、なんと十秒しか祈れなかった子どもたち。落ち着きのない子どもたちが四十五分も祈りつづけたのです。祈祷会終了後、感想を子どもたちに聞くと、友達のため、学校の先生など自分が思ってないことまでも、祈ったと言うのです。そんな中で私が一番印象に残った感想は、みんな口々に「十字架のことがよく分かった」と言いました。今までも罪について、十字架について、子どもたちに語っていました。しかしその祈祷会では、子どもたちが知識ではなく、聖霊さまが教師となって祈りの中で、理解させて下さったのです。

 当時教会で祈っていた事がありました。教会の牧師やスタッフだけでなく、全会衆に聖霊の火が広がっていくようにと祈っていました。子どもたちに聖霊が触れて下さった後、中高生たちに聖霊が望まれました。その祈祷会は教育館の二階スタジオで行ったのですが、彼らは年頃なので、つまらなさそうに祈りをささげていました。しかし突然一人が涙を流しながら祈りはじめました。するとそこにいた全員床にみんなが泣き崩れて、おいおい泣きながら、床をたたきながら、悔い改めの祈りをし始めたのです。
 その後のことが立ち上がられた日の五十二ページに書いてありますので、少し読んでみたいと思います。

「会衆全体への訪れ」
 
 『中高生に聖霊が注がれた翌日は日曜日で、午後、定例の賛美集会が持たれました。この時、今度は二百人近くの会衆全体に聖霊が注がれ、多くの人たちが泣いて罪を悔い改めたのです。それはすばらしいリバイバル集会となりました。子どもから老人まですべての層に聖霊が激しく臨み、その会場は満ち溢れる主の臨在で、立っていることが出来ないような、まるでその場の空間がねじれているかのような感じでした。
 その集会では、聖霊に触れられて、賛美と共に走り出した子どもたちがいました。その走り方が普通ではありません。誰かに手を引っ張られているような走り方でした。見ていると、御使いが彼らの側にいるような印象を私は受けました。それまでは御使いや、天の軍勢に対する意識は全くと言って良いほどなかったのですが、なぜかその時に意識したのです。
 この認識は、後に起こってくる地域の霊的戦いを理解するための、ひとつの重要な鍵となりました。 』

 その時の事を、良く覚えているのですが、その賛美集会はこの会堂で行われ、私が司会をしていました。なにか力んでとか、とかではなく、普通に賛美を導いていていました。あのとき「ホサナ王の王イエス」という賛美をささげ、その後、「みなさんで祈りましょう!」祈りを促しました。すると聖霊さまが訪れて下さいました。私は講壇に立っていましたが、本当に空間がねじれたというか、聖霊さまの臨在に圧倒され、立っていられませんでした。一同に聖霊様があの時も臨んでくださり、既に亡くなられて天国に行かれたお年寄りの方ですが八十過ぎのおじいさんが、講壇の階段前に正座して祈り初め、泣きながら悔い改めておられたのです。みんなにも悔い改めの霊が注がれ、今まで経験した事のない祈祷会となりました。その後この教会が変わりました。
 ある特定の人だけでなく教会全体に臨んでくださいました。それも子どもからお年寄りまで、聖霊によって悔い改める時を持ちました。

 有名なみことば、第二歴代誌七章十四節に

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 ここで、『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、』そうしたら、この地をいやしてくださると書いてあります。
 まず私たちクリスチャンが、悔い改めて、祈りをささげる事の大切さ。そしたらこの地をいやそうと書かれています。
 新城教会のメッセージで二〇一一年に語られた滝元順牧師のメッセージで、このみことばから語っていました。今回このメッセージを読み直しました。そこには

『この「地」という単語はヘブル語で「エレツ」という言葉が使われています。それは「国」とも訳すことのできる言葉です。
 『わたしの名を呼び求めているわたしの民』とは、クリスチャンがへりくだって悪い道から立ち返って、悔い改めたら地が癒される、すなわち、「国が癒される」と告げています。クリスチャンの悔い改めが、国を滅びから解放するのです。

 私たちクリスチャンが、罪の中に生活していたらどうしようもありませんが、クリスチャンが真摯に神の前に出て悔い改める時、国の癒しに繋がると教えています。
 罪というのが、個人の罪もありますが、同時に、国が犯してきた罪を表しています。国民一人一人には、国が犯した罪に対する連帯責任があるのです。日本全体が犯した罪と私たちは、連帯責任があるのです。その問題を解決するには、クリスチャンが悔い改めることによって解決するのです。
 保証人になる時、連帯保証人になると、自分が債務の当事者でなくとも、問題が起こると連帯して支払いの義務が生じるわけです。国の罪も同じことです。私たちは、国の罪と連帯保証人みたいになっていて、その罪を悔い改めるか否かで、国の将来が変わるのです。だから、クリスチャンに国の未来を左右する鍵がある、といっても過言ではありません。』

 と語っておられました。私たちクリスチャンが真摯に神の前に出て悔い改める時、国のいやし、将来が決まると語っていました。その素晴らしいメッセージを読み直しながら、悔い改めていくことが、どんな祝福につながるか。自分が悔い改めれば、国がいやされていく。信じましょう。第一ペテロ四章十七節に、こんなみ言葉があります。

『なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。』

リビングバイブルで読みますと、

『なぜなら、さばきの時が、すでに来ているからです。しかもそのさばきは、神様の子供たちから始まるのです。このように、クリスチャンの私たちでさえ、さばかれるのなら、主を信じたことのない人々には、どんなに恐ろしい運命が、待ち受けていることでしょう。』

 とあります。まずクリスチャンから裁かれるとあります。とにかく聖さを頂きましょう。

 一九九二年に聖霊様が臨まれ、会衆みんなに悔い改めの霊をそそいでくださいました。そのことの故に教会が変わりました。当時教会は大きな試練がありました。しかも一九九三年には「全日本リバイバル甲子園ミッション」が控えているとき、教会は分裂し、人間的にはそんな大きな大会の開催は無理だと思われました。しかし祈りに祈り、聖霊様を頼って、準備を進めて行きました。甲子園の働きをやめようという思いはなく、聖霊様の業の中で、進むしかないとみな燃えて準備しました。そして聖霊の働きによって、あの大きな球場に三日間で延べで十二万四千人の方々が集いました。夜の伝道会では、滝元明牧師の伝道メッセージに応答し、大きな十字架のステージに一杯の方々が決心されました。
 私たちは何の力もない。しかし、聖霊さまが働き、多くの方々が牧師先生になったり、献身者として働いたりしました。

 第一ペテロ五章八節(リビングバイブル)、

『最大の敵である悪魔の攻撃に備えて、くれぐれも警戒しなさい。悪魔は、飢えて、ほえたけるライオンのように、引き裂くべき獲物を求めて、うろつき回っているのです。』

 礼拝の時間は、一週間一六八時間の内、約二時間くらいです。後の一六六時間は、世の中で戦い続けて行かなくてはなりません。そんな中で、第一ペテロ五章八節では、

『悪魔は、飢えて、ほえたけるライオンのように、引き裂くべき獲物を求めて、うろつき回っているのです。』

とあります。悪魔の存在があります。私たちを狙ってうろつき回っています。罪を持ったままだったら、悪魔にやられてしまいます。ですから、今日もう一度、私たちは悔い改め、神の武具とみことばの剣を持たなくてはいけません。悪魔の攻撃から守られ、逆に打ち砕く存在にならなくてはなりません。
 ヘブル書十三章四節に、こんなみ言葉があります。

『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。』

とあります。また第一コリント六章十六節には、

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』

 交わってしまえば、その相手の偶像礼拝や罪も共有してしまうということです。雪だるま式になって、汚れた状況に落とし入れられます。絶対に異性問題は気をつけなくてはいけません。今、携帯やコンピューターで、簡単に悪サイトを開くことができます。小学校の子であっても、開く事ができる時代です。汚らわしい動画や、また写真などを見て、欲求を解消するような、そんな時代になってしまっています。しかし私たちはその悪習慣から、勝利して聖さを頂く力を必要としています。子どもたちの見ている漫画、テレビを共にごらんなった事はありますか?お母さん方は、忙しいとき静かにしてくれているからと、簡単にアニメなどを見させていますが、良く吟味して下さい。セックスや占い。魔術。ホラーなどなど霊的にやばいものだらけの時代になっています。オカルト的な番組があったり、様々な悪魔の罠が仕掛けられています。私たちがとにかく聖い生活をして行かなくてはなりません。また家の主人に狙いをかけて来ます。家長に対し、悪魔は狙い、家長が崩れれば、家族もくずれます。また家族の中で初めのクリスチャンだという方もいらっしゃると思いますが、悪魔はそういう人にも狙いを定めています。初めのクリスチャンが罪深いものなら、その家族は全部滅びてしまいます。
 とにかく影響のある所に、悪魔は必死になって戦って来ます。ローマ十一章十六節

『初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。』

 初めに聖さを持って信仰生活をして行けば、全部が聖さを頂きます。ローマ人への手紙十二章二節(リビングバイブル)、

『世間の人々の生活態度や習慣をまねてはいけません。むしろ、すること考えることすべての面で、生き生きとした、全く新しい別人となりなさい。そうすれば、神の道がどんなに自分を満足させてくれるか、わかるようになります。』

 絶体に生活態度習慣が悪に染まってはいけません。罪を悔い改めて、神様に触れていただく時に、本当に別人になることができます。時代に逆流して、戦い続けていく私たち一人一人でありたいと思います。聖霊の働き、聖霊の満たしというのは、自分でできないことを勝利させてくださいます。自分の力では止める事ができなくても、聖霊を求める時に、力が与えられます。変わります。先ほど、一番最初に読んだ四節、五節、その中に、もう一度読んでみたいと思いますが、詩篇六十五篇四節から五節(リビングバイブル)、

『聖い天幕の内庭で神様とともに住むようにと名指された人は、なんともうらやましい限りです。そこには、すべての良いものに混じって、大いなる喜びが待ちかまえているのです。神様は、恐怖におののかせるような行為や、恐ろしい力を駆使して、私たちを敵から救い出してくださいます。神様は、世界中の人々にとって、唯一の望みなのです。』

 ここに『恐怖におののかせるような行為や、恐ろしい力を駆使して、私たちを敵から救い出してくださいます。』とあります。悪習慣なども、自分の力ではやめたいと思ってもなかなか止める事ができません。聖霊は恐ろしくなるような、神の前にひれ伏すしかないほど、神は圧倒的な勝利を下さいます。聖霊が臨まれたら、私たちに聖さが与えられ、また良いもので満たしてくださいます。

 ですから私たちは、良いもので満たされるように続けて求めていきたいと思います。もし悔い改めなくてはいけないと、主が語って下さったのなら、へりくだって神の前に悔い改めましょう。今から聖餐を頂きますが、今日徹底的な悔い改めをして行きたいと思います。
 私も聖さを求めて更に進んで行きたいと思っています。家内のために祈っていただいております。結婚の時、「病める時でもどんな時にも愛しますか?」「はい、愛します。」と主の前で誓いました。しかし自分も詰まってしまうと、家内が訴えて来た要求に対して優しくできない時があります。怒ってしまったりしてしまいます。本当に申し訳ないと反省しています。今朝、今日の礼拝メッセージのために、家内に祈ってもらいました。やはり、夫婦は愛し合い、一つになって行かなくてはなりません。
 今日主がここを悔い改めなさいと語って下さいます。その神の声をしっかり聞きましょう。悔い改めには、大きな力があります。だから悔い改めさせないように、悪魔は私たちに戦いを挑んできます。悪魔は悔い改めたらどういうことになるかが分かっているから、様々な悔い改めを阻止して、食いついて離れないようにしてくるのです。
 今日一歩前進しましょう。「悔い改めます。」と悔い改めて聖餐を頂きましょう。この二十五年目の祝福、良いもので満たされるように祈り求めましょう。お祈りします。

 愛する天の父なる神さま。今日一人一人に語って下さい。今日の聖餐は徹底した悔い改めの時とさせて下さい。今日は、あの一九九二年に子どもたちに、また中高生立ちに、そして全ての会衆に、すばらしい聖霊の祝福を下さった様に、良いもので満たして下さい。今日聖霊の油そそぎを与えてください。聖さを与えてください。聖霊さま一人一人に触れてくださり、素晴らしい聖餐の時となりますように。このパンと杯は御霊によって、イエスキリストの血潮と、あなたの裂かれた体である事を宣言します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。