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「福音にふさわしい生活

2017年6月18(日)
リバイバル聖書神学校長 山崎ランサム和彦師
ピリピ人への手紙1章27節〜30節

『ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。』

 ハレルヤ。みなさん、おはようございます。今日、こうしてひさしぶりにこの場所でみ言葉を取り次ぐ特権が与えられていることを、心から感謝します。
 ルカの福音書にイエスさまがマルタとマリヤという姉妹の家にお泊まりになった時のことが記されています。お姉さんのほうがマルタ、妹がマリヤという名前でしたが、マルタはイエスさまのおもてなしに心をこめて、忙しく働いていました。ところが妹のマリヤは、イエスさまの足許にじっと座ってそのみことばに聴き入っていました。マリヤがその場を動かないのにいらいらしたマルタは、イエスさまに対して、「妹に手伝うよう言ってください」とお願いします。
 その時、イエスさまがマルタに言われた言葉が、ルカの福音書十章四十一節〜四十二節に書かれています。

『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』

 どうしても必要なことはわずかである。いや、本当はたった一つしかないのだということを、イエスさまは言われたわけです。私たちは毎日忙しくいろいろなことを行って生活しているわけです。忙しいというのは、現代人の口癖かもしれませんが、いつもすることがたくさんあって、それに追われているような毎日を過ごしているのは、私だけではないのではないかと思います。
 けれども毎日私たちがしていることのすべてが同じように重要なわけではありません。そして、限られた時間の中で、すべてのことを成し遂げることができるわけでもありません。私たちがしようとしている一つ一つのことは、それ自身は悪いことではないかもしれませんが、それに時間を費やしたために、もっと大切なことができなくなってしまうということも実はあるのではないかと思います。
 ですから、「グッドはグレイトの敵である」などと言われたりします。これはビジネスの中でも使われたりする言葉みたいですが、たとえ良い事であったとしても、それにとらわれてしまうと、もっとすばらしい事を行う機会を失ってしまうことがあるのではないかと思います。
 そこで必要になってくるのが、私たちにとって一番大切なのか、本当に必要なことは何かということを見極めて、それに集中していくことではないかと思います。

 この世の中でも、スポーツ選手であれ、ミュージシャンであれ、小説家であれ、ビジネスマンであれ、この世の中で成功している人たちは一つのことに集中してそこにエネルギーをかたむけて努力した結果、すばらしい業績を残すことができるそうです。例えば野球選手でしたら、寝ても覚めても野球のことを考えて、いつもトレーニングに励む。ギタリストだったらいつもギターの練習をして、そのことを常に考えて、どうしたらもっとうまくなれるかということをいつも考えて、努力していくということなのです。
 これは世の中の話であるわけですが、私たちクリスチャンはどうでしょうか?私たちが信仰者として、寝ても覚めても覚えているべきこと、またそこに努力をかたむけるべき、一番大切なことは何でしょうか?
 今日お読みしたピリピ人への手紙一章二十七節の冒頭で、パウロは「ただ一つ。」と語っています。ピリピのクリスチャンたちが、これだけは外してはならない、一番大切なことは何なのか?それをパウロはここで言おうとしているわけです。その内容は何かというと、二十七節にあるように、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ということでした。キリストの福音にふさわしく生活すること、これこそ、私たちクリスチャンがフォーカスすべき、ただ一つの大切なことというふうにパウロは言っているわけです。
 それでは、「キリストの福音にふさわしく生活する」ということは一体どういうことなのでしょうか?今日はこのことについて、パウロの手紙から学んでいきたいと思います。
 
 まず、ここで、新改訳聖書の中で「生活する」と訳されていることばは、ただ単に毎日を惰性で生きていくとか、そういうことを言っているのではありません。もとのギリシア語はポリテウオマイということばですが、これはどういう意味があるかというと、「ある特定の国の市民として生活する」という意味があります。なんらかの国や共同体があって、そこに属するメンバーとしてふさわしい生き方をする。ふるまいをする。これがポリテウオマイという言葉の意味です。
 パウロが言っている市民として生活するというのは、どこの市民として生活するということなのでしょうか。これは、神さまが王として支配される国、別の言い方でいうと、神の国ということです。だから、新改訳聖書の欄外注を見ると、「別訳『御国の民の生活をしてください』」と書かれています。パウロがピリピのクリスチャンたちに願っていることは、神の国の市民としてふさわしい生活をしてください、ということです。同じようにある英語の訳では、 “As citizens of heaven, live your life worthy of the gospel of Christ.(Christian Standard Bible)” つまり、「天の市民として、キリストの福音にふさわしい生活をしなさい。」と訳されています。
 そして、そのような生活は「キリストの福音にふさわしい」ものでなければならないとパウロは言います。「キリストの福音」とは何でしょうか?最近「福音の再発見」ということがキリスト教会で盛んに議論されるようになり、この教会でもたびたび語られていますが、新約聖書における「福音」(ギリシア語でエウアンゲリオン)ということばは、どうすれば救われて天国に行けるかのマニュアルではありません。そうではなくて、福音というのは、よい知らせ、Good Newsということなのです。神さまが歴史の中で何かすばらしいことをなされた、この神様の特定のみわざについて、それが起こったということ、その結果、世界がどう変わったかということを告げ知らせるのが、よいニュース、つまり「福音」ということです。
 そのニュースの内容は、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったということ、三日目によみがえってくださったこと、そして天に昇り父なる神の右の座に着かれた、ということです。これはどういう意味があるかというと、イエスさまが世界を統べ治める新しい王として即位された、ということを意味しています。イエスさまがすべての王となられた。そして、まもなくその王の支配がこの地上にも表されてくる、というのが、初代教会のクリスチャンたちが宣べ伝えた「福音」「よい知らせ」だったのです。
 このような福音理解は、先ほど述べた「神の国の市民として生活する」という内容とじつにうまくつながります。パウロが言っているのは、すべての王として即位されたイエスさまの支配についての福音の内容にふさわしく、神の国の市民として生活しなさい、ということです。私たちクリスチャンがなによりも優先して行わなければならないことは、イエスさまが全世界の王であることを意識して、その王である主に仕える存在、神の国の市民として、日々生活していく、ということなのです。

 けれども、ここで一つ問題があります。神の国は真空地帯に生じるわけではありません。この地上に神の国が現されようとする時、この地上には、すでにそこを治めている別の王国が存在するからです。パウロの時代、それはローマ帝国でした。当時、ローマ帝国では新しい皇帝が即位すると、それが「福音」「よい知らせ」として帝国中に宣べ伝えられました。その時使われたことばは、聖書に出て来る福音と同じ「エウアンゲリオン」ということばでした。まさに新約聖書で使われているのと全く同じことばがローマ帝国で皇帝の支配について使われていたわけです。
 けれども、ピリピ人への手紙の中でパウロは、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と、わざわざ福音ということばを「キリストの福音」と説明しています。つまり、パウロが言っている福音、よい知らせというのは、ローマ皇帝の「福音」ではなく、「キリストの福音」だ、と言っているのです。
 私たち現代のクリスチャンは、「キリスト」ということばはなにか神さまの代名詞というか、宗教用語の一つとして考えてしまうことが多いのですが、元々この「キリスト」ということばはヘブル語で「メシア」と言いました。この「メシア」ということばは神さまの名前ではありませんでした。それは、ユダヤ人を異邦人から解放して自由にしてくれる王のことを言っていたわけです。メシア、キリストとは、ダビデの家系から出てイスラエルを建て直してくれる、政治的な指導者のことを意味しました。だからN・T・ライトという学者はここの「キリストの福音」という表現を「王の福音the gospel of the king」と訳しました。つまり、パウロは「キリストの福音」ということばを、「ローマ皇帝の福音」と暗に対比して語っているということになります。パウロはピリピのクリスチャンたちに、ローマ皇帝を王としていただくローマ市民としてではなく、イエス・キリストを王としていただく神の国の市民として生活しなさい、と言っているのです。

 こういうパウロのメッセージは、この手紙の読者であるピリピのクリスチャンたちにとって、とても大きな意味をもっていたと思われます。ピリピの町は、マケドニアという、今のギリシア北部にあたる場所にありました。パウロは第二回伝道旅行でこの町を訪れ、教会を創設しました。使徒十六章十二節には「それからピリピに行ったが、ここはマケドニアのこの地方第一の町で、植民都市であった。」とあります。ピリピの町はローマの植民都市でした。この町はローマの兵士や退役軍人らの多く住む町でした。ピリピの町はイタリアの外にあったわけですが、イタリアにあるローマの町と同じ法律的な地位が与えられている、特別な町でした。ある種の税金が免除されるなど、さまざまな特権が与えられていたのです。ピリピの町に住んでいる人たちは、自分たちの町がローマの植民都市であることを誇りにしていたわけです。このピリピでパウロたちが伝道しようとした時、それに反対する人たちは彼らを捕らえて町の長官の前に引き出し、このように言いました。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」(使徒の働き十六章二十節〜二十一節)ピリピの人たちは、ローマ市民としての生活スタイルとか価値観とか文化といったものを非常に誇りにしていて、外からやってきたよく分からない宗教を宣伝する人たちが、彼らの生活をかき乱すことに非常に怒ったということなのです。ここにローマ市民としてのピリピの人たちのプライドを見ることができます。

 ピリピ人への手紙に戻りますと、ここでパウロはピリピのクリスチャンたちに、彼らが何にフォーカスして生きるべきかを教えています。自分たちは何者なのか?ローマ市民なのか、それとも神の国の市民なのか。自分たちは誰に仕えるべきなのか?ローマ皇帝か、それともイエス・キリストなのか・・・。そういうことをパウロは彼らに問いかけているのです。
 クリスチャンとして生きることは、必ずしも世の中の社会秩序を無視することではありません。社会の中で良識を持って、周りの人々と良い関係を築いていくことは大切なことです。けれども、私たちはつねに、一番大切なのは何か、何を最優先すべきなのかをいつも意識して生きていく必要があるということです。私たちにとって必要なただ一つのこと、それはイエスさまを主として従い、その御国の民にふさわしい生活をする、ということです。
 そうしていく時に、しばしばそれは、この世の国との摩擦や衝突を生み出します。私たちがこの地上にあって神の国の市民として生きようとするとき、今日お読みした箇所にあるように、かならず「反対者」が現れ、戦いが起こり、私たちは苦しみを通るということをパウロは述べています。実際、パウロ自身、この手紙を書いたのは彼が牢獄につながれていたときでした。どこでこの手紙が書かれたのか、ローマだという人もあれば、エペソであるとも言われますが、はっきりとは分かりません。いずれにしても彼は、キリストの福音を宣べ伝えたために、投獄という苦しみを味わっていたのです。
 使徒の働きの中で、ピリピの次にパウロの一行が訪れたのはテサロニケという町でした。そこで福音に反対する者たちが彼らを訴えて次のように言ったことが記されています。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです。」(使徒十七章六節〜七節)
 クリスチャンたちが伝えた福音のメッセージは、「イエスという別の王がいる」というメッセージでした。それを聞いたテサロニケの群衆と町の役人たちは不安になったとルカは語っていますが(使徒十七章八節)、他の町でも同じようなメッセージを宣べ伝えていたのではないかと思います。パウロは何度もそのような迫害に遭ってきましたし、ピリピの町でも投獄されたことが、使徒の働きの十六章に書かれています。ピリピ一章三十節でパウロは「あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。」と書いていますが、ここで彼が言っている「先に見たこと」というのはピリピでの投獄体験、「いま聞いている」というのは、現在の投獄のことです。そしてピリピのクリスチャンたちも同じ戦いを経験している。彼らが今、実際に牢屋に入れられるほどの迫害を経験していたかどうかは分かりませんが、パウロと同じ種類の戦いを体験している、というのです。

 そのような戦いの中にあって、パウロはキリストの福音にふさわしく生活しなさいと語っています。それは具体的には何を意味しているのでしょうか?パウロは二十七節の後半から次のように語っています。「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはない。」
 まず、パウロは、ピリピのクリスチャンたちが「しっかりと立つ」ことを期待しています。この「しっかりと立つ」「ステーケテ」という表現は、パウロが好んで使うギリシア語の表現で、彼の手紙のいろいろなところに出てくる表現です。このピリピ人への手紙でも四章一節で「どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。」と言われています。この「しっかり立つ」というのは比喩的な表現ですが、兵士が敵の猛攻撃の中でも一歩も引かずに持ち場を死守する様を表現する時に使われることばです。
 それは一体、何のための戦いなのでしょうか?パウロは「福音の信仰のため」であると言います。私たちが戦っている戦いは、「福音の信仰のため」のものです。この「福音の信仰」ということばはいろいろに解釈できる表現ですが、ここでは「福音が生み出す信仰」と言っていいと思います。私たちの信仰とは単に正しい教えを頭で覚えるということではなく、イエス・キリストという人格に対する信頼や忠誠を意味します。このクリスチャンの戦いとは、「イエスが王である」という「よい知らせ」を聞いたことによって私たちの心に生まれる、王なるイエスさまに対する信頼、忠誠心を保ち続ける、ということについての戦いなのです。
 この戦いで大切なのは、クリスチャンが一致することです。先ほども「市民として生活する」ということを言いましたが、そのポリテウオマイということばは、元々はポリスというギリシアの都市国家から来たことばです。これは共同体における義務や責任を含んだ概念です。神の国の市民として生活するということは、他の兄弟姉妹と一致し、支え合いながら生きるということでもあります。パウロは「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており」(二十七節)と言っています。ここで言われている「霊」というのは、おそらく私たちの霊ではなくて、聖霊さまのことではないかと思います。つまりこの箇所は「唯一の聖霊にあってしっかりと立ち」と訳せるのですが、クリスチャンの一致というのは聖霊によって与えられるものです。そしてクリスチャンは心を一つにして、「ともに奮闘する」とパウロは言っています。ここで使われているギリシア語は珍しいことばで、新約聖書の中にこことピリピ人への手紙四章三節にしか出てきません。ここでパウロはピリピのクリスチャンたちが互いに協力して福音のために奮闘していると言っているだけでなく、パウロを含め世界中にいるクリスチャンと一つになって戦っている、と言いたいのかもしれません。パウロはピリピから遠く離れたところで獄につながれていますが、ピリピのクリスチャンたちと聖霊によって結ばれており、同じ戦いを戦っている同志としてこのメッセージを語っているのです。

 さて、そのようにして戦うとき、彼らは「どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはない」とパウロは言います。新共同訳では「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と訳されています。二十世紀最大の神学者と言われるカール・バルトはこの箇所について、キリスト者は何かに反抗して戦うのではなく、福音の信仰のために戦うのだ、と言っています。パウロは神の国とローマ皇帝の国が相容れないものであることを明確にしています。けれども彼はローマ帝国を暴力的な革命によって打倒せよとは一言も言っていません。この地上の王国が神さまによって倒されるのは、まったく違った方法によるのです。それは、私たちクリスチャンがこの世にありながらキリストの福音にしっかりと立つことによって、そして福音のゆえに苦しみを受けることによって、勝利が与えられるとパウロは言うのです。そして二十八節でパウロは、それは神から出た、私たちの「救いのしるし」であるとも言っています。
 そして二十九節でパウロはこのように続けて言います。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」苦しみをも賜った――苦しみは神さまからの恵みとして与えられたものだと、パウロはここで言っています。つまり、キリストのために苦しむことは、世に打ち勝つために神さまから与えられたプレゼントだ、というのです。先ほど言ったように、私たちの王はイエスさまです。ある意味でイエスさまが神の軍隊の最高司令官で、私たちが兵士であるわけですが、イエスさまは私たちに、世に勝利するための秘密兵器を与えてくださった。それは何かというと、キリストのために苦しむことだとパウロは言っているわけです。
 どうしてそんなことがありえるのでしょうか?これはこの世の常識から見ればまったく理解できないことです。けれどもそれは私たちがイエス・キリストに目を注いでいく時にはじめて理解することができます。
 最初に、「福音」とはイエスさまがすべての王となられた、王として即位されたという知らせのことだ、と言いました。けれども、イエスさまはどのようにして王となられたのでしょうか?パウロはこのことをピリピ人への手紙の二章で語っています。二章六節〜十一節、

『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』

 これは有名な「キリスト賛歌」と呼ばれる箇所で、初代教会で歌われていた賛美歌の歌詞をパウロが引用しているのではないかと言われています。ここでパウロは、神の御姿であられたキリストがその身分を捨てて人間となってくださり、そして私たちのために十字架の死に至るまでご自分を低くしてくださったことを語っています。
 そして二章の九節では、「それゆえ神は」と語っています。つまりイエスさまが十字架の苦しみをなめてくださったというまさにその理由によって、父なる神さまがイエスさまをすべてにまさって高く挙げ、すべての主としてくださったことをパウロは語っています。つまり今、イエスさまがすべての王として、その御座についておられるその地位というのは、十字架という苦しみを通って初めて与えられたものだということです。イエスさまの勝利は、十字架で苦しみを受け、死ぬことによって勝ち取られました。
 そしてパウロは、クリスチャンはそのようなイエスさまの姿に倣うものとなるように、と教えています。三章でパウロはこう語っています。三章十節〜十一節、「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
 ここでパウロはクリスチャンの信仰の歩みのステップを、順を追って、一歩一歩要約しています。私たちはまずイエスさまが死からよみがえった王なるキリストだということを知ります。けれども同時に私たちは、「キリストの苦しみにあずかる」ことも知るのです。ここで「あずかる」と訳されているギリシア語はコイノーニアといい、「交わり」とか「参加」「共有」を意味することばです。私たちがイエスさまの復活の力を知るということと、イエスさまの十字架の苦しみにあずかることは、コインの裏表のように切り離すことができないものだとパウロは言っています。そして、私たちがイエスさまの苦しみに与ればあずかるほど、私たちはイエスさまの「死と同じ状態に」なります。ここで使われているギリシア語の動詞は「同じ形になる」ということばで、新約聖書ではこの箇所にしか出てこないことばですが、その形容詞形が三章二十一節に使われています。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」私たちはイエスさまの十字架の死と同じ姿になることを通して、最終的にイエスさまの栄光のからだと同じ復活の姿へと変えられていくのです。
 これが、パウロの言う「キリストの福音にふさわしい生活」、神の国の市民としての生活です。三章二十節でパウロは「私たちの国籍は天にあります」と語っています。これは有名なことばですが、これは私たちがやがて死んだら地上を離れて天国に行く、ということを言っているのではありません。ローマの植民都市の住民は、やがて首都であるローマの町に帰っていくつもりでそこに住んでいるのではありませんでした。そうではなくて、植民都市というのは、ローマの文化や価値観、生活様式をいろいろな地域に広げていくためにつくられていったものです。そしてそこに問題があったり、困難があると、時には皇帝自身が首都であるローマから植民都市に出かけて行って、そこで敵を打ち破ったり、問題を解決したりして、その支配を確固たるものにしたのです。
 同じように、私たちの国籍が天にあるというのは、私たちが天の国、神の国の市民であるということなのですが、それは私たちがやがて天に帰って行くということではなくて、やがてイエスさまが天からこの地上を訪れてくださるということを言っているわけです。
 二十節後半では、パウロは、「そこから」すなわち天から「主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」と語っています。私たちがこの地上を離れてやがて天国に逃れて行くということではなく、イエスさまが今天において支配しておられるわけですが、その支配をこの地上にまで広げてくださる。やがてイエスさまご自身がこの地上に来てくださって、その支配を確立してくださるというのが、私たちの望みです。その時に、二十一節に書かれているように、私たちの肉体が復活し、主とともに永遠に生きるようになるということなのです。

 このように、私たちは天に国籍を持つ、神の国の市民としてこの地上に生かされています。それぞれの生活の中で、職場や家庭やいろいろな状況の中に私たちは遣わされているのです。それは必ずしもすべてがこの世的に見て順調にいく、バラ色の人生ではないかもしれません。クリスチャン人生には戦いがあり、苦しみがあります。けれども、私たちは同時に大きな希望もあるのです。だからこそ、パウロはこの手紙で繰り返し、読者に対して「喜びなさい」と語りかけています。ピリピ人への手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれ、喜びに関することばが何度も繰り返し語られています。このピリピ人への手紙四章に書かれているパウロのすすめのことばを最後にご一緒に読みたいと思います。ピリピ人への手紙四章四節〜七節、

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 五節でパウロは、「主は近いのです。」と言っています。このことばは、イエスさまはいつでも私たちの側にいてくださるという意味にもとることができますし、イエスさまはもう間もなく帰ってきてくださる、再臨が近いと言う意味にも取ることができます。普通私たちは何か祝福をうけ、すべてが順調に行っているときには、神さまが近くにおられるように感じますが、苦しいとき、困難があるとき、問題があるときには、神さまが遠く離れているように思ってしまうことがあります。神さまに見捨てられたような感覚をいだくようなことさえあるかもしれません。けれどもパウロは、私たちが苦しみのどん底にいる時こそ、私たちはイエスさまと最も近くにいる、と言っているのです。なぜなら、そういう時に私たちはイエスさまの十字架を共有する者になっており、十字架のイエスさまと同じ姿になっているからです。そしてイエスさまとともに苦しんでいるということは、イエスさまとともによみがえる希望があるということなのです。
 これは大きな励ましのことばです。イエス・キリストの福音を本当の意味で理解するなら、パウロが語っている「喜びなさい」とか、「何も思い煩わないで」ということが、単なる気休めややせ我慢ではないことが分かります。
 このイエスさまに信頼し、喜びをもって、今週も「ただ一つ」の大切なこと、神の国の市民として、キリストの福音にふさわしい生活をこころがけていきたいと思います。最後に一言、お祈りをさせていただきます。

 愛する天の父なる神様、あなたの御名をほめたたえて、心から感謝いたします。パウロがただ一つ大切なこととして伝えたメッセージは、キリストの福音にふさわしく生活することでした。今日私たちここに集められたあなたの御国の聖徒たちがあなたのすばらしい福音によって命が与えられ、あなたを主とし、王として仕える生活をこの地上で与えられていることをありがとうございます。その中に、多くの戦いや苦しみもありますけれども、そのような中にあってイエスさまが私たちが思うよりももっと近くに、いつも歩んでくださっていることを知ることができるよう、私たちの霊の目を開いてください。そして私たちがイエスさまと同じ姿に変えられていくことによって、この苦しみを通ってやがてはその復活の栄光の姿と同じように変えられていくことができる、その希望をもって、今週も喜びを持って歩んでいくことができるように助けてください。聖霊様が私たちを一つにしてくださり、あなたの御国がこの地上に拡大する一週間となりますように。この礼拝のひとときを感謝し、尊きイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。