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「人とは何ものなのでしょう」 

  • 2019年10月13日(日)

鶴見聖契キリスト教会 山崎ランサム和彦牧師
詩篇 8篇【新改訳2017】

『【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
幼子たち乳飲み子たちの口を通してあなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため復讐する敵を鎮めるために。あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。羊も牛もすべてまた野の獣も空の鳥海の魚海路を通うものも。【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。』

ハレルヤ!こうして久しぶりに新城教会の皆さんと共に神さまを礼拝できる恵みを感謝します。今回は台風の影響で金曜日から新城に滞在させていただきました。雨が降る前に少し街を散歩していると、30分の間に5回も新城教会の方々に会いました。これほどの高確率でクリスチャンに出会える街も日本には少ないのではないかと思います。
私は現在東京の目黒にある聖契神学校で教えていますが、この学校の校長先生の趣味は天体観測で、時々神学校の屋上に望遠鏡を持ち出して、私たちにも見せてくださいます。昨年火星が地球に大接近した時にも、家族で見せていただきました。
実はかくいう私も、小学生の頃は天文少年でした。宇宙の図鑑などを飽きずに眺めては、銀河系やブラックホールに想いを馳せたものです。小学生には冒険でしたが、毎月一回家から30分位電車で行ったところにあるプラネタリウムに一人で通っていました。そしてお小遣いを貯めて、中学に入学したときに天体望遠鏡を買い、惑星やオリオン座の大星雲などを観察していました。将来は天文学者になるのが夢でした。
これはすべて私がクリスチャンになる前のことでしたが、夜空を眺めていると、宇宙の壮大さと美しさに神秘的な感動を覚えたものです。宇宙だけでなく、私たちの身の回りの自然界に目を留めると、その美しさに目を奪われます。皆さんも海や山、森や草原といった大自然の中を旅した経験があるかと思いますが、そんな時、特に宗教的でない人でも、ふと人間を超えた神のような存在を感じることがあるのではないでしょうか。

パウロは「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1:20)と言っています。たとえ聖書もキリスト教も知らない人々であったとしても、この世界の秩序、美しさ、壮大さ、細やかさを見るだけで、それを造られた神さまについて、何がしかのことが分かるというのです。キリスト教では、この世界に存在する美というものは、それを造られた神を指し示していると考えるのです。これを専門用語では「一般啓示」と言いますが、要するに神さまはこの世界を通して全人類にご自分のことを知らせてくださっている、ということです。

今日お読みした聖書の箇所は、そのような神様の創造のすばらしさを詠った詩です。この詩篇は今からおよそ3000年前に生きた、イスラエルのダビデという王様によって書かれたとされています。その時の状況を思い浮かべると、ダビデは夜空を見上げて、そこに輝く銀河や星々、月を眺めて感動し、この詩を作ったのではないかと思います。21世紀に生きる私たちも、ダビデの感動を自分のものとして想像することはそう難しくはないでしょう。今日はご一緒に、この3000年前の詩を味わってみたいと思います。
この詩篇を読んでまず気がつくことは、始めと終わりの部分が同じ表現になっていることです。「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。」これがこの詩篇全体の中心的テーマの一つです。古代の世界において、名前はその所有者の性質を表すものと考えられていました。神様の御名が全地において力強いとは、神様の偉大なご性質が、全地にわたって被造物を通して表されている、ということです。
 この詩の全体を読んでいくと、「天」について書かれている部分と、「地」について書かれている部分があるのに気がつきます。この詩篇においては「天」と「地」が対比して描かれているのです。
ダビデはまず神様の御名が全地にわたって力強いということを述べた後、読者の注意を天に向けさせます。1節後半は「なぜなら、あなたのご威光は・・・」とも訳せます。神様の御名が全地にわたって賛美される理由は、その威光が天においてもたたえられているからなのです。
現代の私たちは、夜空に輝く星々は、遥か彼方にある巨大な燃えるガスの塊であると知っていますが、古代の人々は違う考え方をしていました。彼らは一つ一つの星はいのちを持った天使のような存在であると考えていたのです。ダビデが満天の星空を見上げた時、彼は天において神様を褒め称える無数の天使の軍勢を見たのです。
神様が天においてほめたたえられているのは間違いない。だとすれば、その栄光は地にも満ち溢れるはずだ、というのが彼の論理です。

2節は少し分かりにくい部分です。ここに出てくる「幼子」や「乳飲み子」とは、まことの創造主を知っている人々ととるのが良いのではないかと思います。ある人は、「人間がどれほど巧みに言葉や音楽の力を駆使して天にある神の栄光をほめたたえようとしても、それは神のすばらしさを到底語り尽くすことはできず、幼児が語っているようなものである。」と解説していましたが、まさにその通りだと思います。

では、ここに出てくる「敵対する者」また「敵」とは誰のことでしょうか? これは天において神様に敵対する霊的な勢力、あるいは神様の秩序ある被造物世界を脅かす混沌の力、と考えられます。旧約聖書において、神様はそのような混沌の力に打ち勝って世界を統べ治めるという考えがしばしば見られますし(詩篇104:1-9など)、新約聖書でもそのような考えが反映されています。つまり、神様はご自分に反抗し、敵対する勢力に打ち勝って統べ治められ、栄光を表されているということです(詩篇2:4、150:1など参照)。
満天の星空を眺めているダビデは、天で統べ治める偉大な王である神様の栄光を思い、感動をもって星や月を眺めています。その時ふと彼は、この壮大な宇宙の中で、人間はいかにちっぽけな存在であるかを思い知らされたのです。
実際、わたしたちが住んでいるこの世界の成り立ちについて知れば知るほど、そのスケールの大きさ、仕組みの精巧さ、その美しさに感動せずにはいられません。私が小学生の頃から比べても、天文学は飛躍的に進歩しています。現代科学によると、私たちの地球が属する銀河系には太陽と同じような恒星が約2000億から4000億個も存在し、約10万光年にわたって拡がっています(1光年は光が1年間に進む距離で、約9.5兆キロメートル)。この銀河系はさらに、約50個の銀河からなる局部銀河群(直径およそ650万光年)に含まれ、それはさらに大きなグループである、おとめ座超銀河団(直径約2億光年)に含まれます。でもこれで終わりではありません。さらにこの超銀河団は長さが何億光年もある「グレート・ウォール」と呼ばれる壁あるいはフィラメントのようなものに所属し、宇宙全体は泡のような空洞(超空洞)のある大規模構造を持っていると考えられています。現代科学によると、宇宙は470億光年の彼方にまで拡がっており、そこには1000億個以上の銀河が含まれるというのです。

このような、宇宙の大きさについて解説している教育的なビデオをインターネットでいろいろと見つけることができます。私は時々そういった動画を見ますが、何百億光年という壮大なスケールの世界に思いを巡らすとき、このような巨大でしかも繊細な構造をもった世界を造られた神様の偉大さを実感すると同時に、自分が普段の生活で抱えている悩みがじつにちっぽけなものに見えてきます。みなさんも機会があったら、ご覧になるといいと思います。
もちろん、ダビデの時代の人々には、現代の私たちのような科学的知識はありませんでした。しかし、神様の造られた世界の壮大さと、それに比べて無に等しいような人間存在の小ささのギャップは、注意深く自然を観察する者には誰でも明らかであったのです。そんな時人々はダビデと共に「人とは何ものなのでしょう?」と問いかけざるを得ません。4節に書かれている問いは、この詩篇のちょうど真ん中に位置し、最初と最後に繰り返されている主題と共に、もう一つの重要な主題と言えます。

しかし、ここで注意しなければならないのは、ダビデは、人間存在の小ささ、人生のむなしさを嘆き、「人が生きることに何の意味があるのか?」と問うているのではないということです。むしろ逆に、このように小さな存在である人間に宇宙の主である神様が心をとめてくださる、その驚くばかりの恵みに対して、それほどの祝福にあずかることのできる人間とは何者なのでしょう? と問いかけているのです。つまり、ここでダビデの関心は弱く小さい人間そのものにあるのではなく、その人間に目を留めてくださる神様の愛と恵みにこそあるのです。

「ダビデ」とは「愛された者」という意味の名前です。彼は自分が神様に愛された存在であることを体験しながら生きてきました。ごく普通の羊飼いの少年であった彼は、神様に選ばれ、ついには全イスラエルの王となりました。そればかりでなく、神様は彼の子孫から永遠の王国を統べ治める者が出る、という約束まで与えられたのです(2サムエル記7章)。そのような祝福を受けた者が、天地の創造者である神様に向かって、「人とは何ものなのでしょう?」と問いかけても不思議ではありません。

しかし、興味深いことに、この詩篇でダビデは自分の個人的な人生のことも、またイスラエルという特定の民族のことも何も語っていないのです。彼が「人」「人の子」と言う時、それは神様に創造された人類全体について語っています。その背景にあるのが、創世記の1章にある創造物語です。

創世記1章には、神様が天地を6日間で創造された時、最後に人間を特別な存在として造られたことが書かれています。

26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」 27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:26-28)

ここで書かれているのは、神様が人間を特別な存在、「神のかたち」として造り、世界を治める使命を与えられた、ということです。人間が「神のかたち」であるとはどういう意味でしょうか? これについてはこれまでいろいろな議論があります。理性のような人間特有の性質だとか、神様と関係を持つことができる点などに「神のかたち」を見出そうとする人たちもいます。けれども創世記の文脈から言って、個人的に最も説得力があると思われるのはこういうことです:古代近東の王は自分にかたどった像、すなわち自分の「かたち」を造って、それを自分が支配している町々や国境に置きました。それらの像つまり「王のかたち」は、王がその地域を支配していることの象徴であったのです。実際の王はその町にいなかったとしても、王のかたちが置かれていることによって、王の支配がその町に及ぶということでした。創世記で人間が「神のかたち」として造られたのも、そういう意味であると思われます。つまり、人間は神様の宇宙に対する支配を代表し、神さまに任命した管理人としてこの世界をケアする使命が与えられている、ということです。古代の王は彼自身、「神のかたち」すなわち地上にあって神の権威を代表する存在と呼ばれていました。けれども聖書は特定の少数者だけが神のかたちなのではなく、すべての人間が神のかたちである、と言っているのです。
ですから、ある意味で私たち人間は神さまに似せて作られた像、偶像だと言えます。ご存知のように、聖書では偶像崇拝が固く禁じられています。そして不思議なことに、唯一の真の神様であるイスラエルの神様の像も造ってはならないと言われているのです。それはなぜかというと、私たち人間こそが神さまの偶像だからです。私たち人類だけが神の支配を地上で表す偶像(かたち)であるので、それ以外に偶像があってはならない、ということなのです。

さて、このような人間理解、すなわち、私たち人間は神さまの代理人としてこの被造物世界を管理するために造られた、という理解は、詩篇8篇の5-8節に書かれている内容と良く合致します。

5 あなたは 人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。 6 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 7 羊も牛もすべて また野の獣も 8 空の鳥 海の魚 海路を通うものも。(詩篇8:5-8)

5節では、被造物世界における人間の特別な地位について語られています。先程、昔の人は天体を天使と考えていたということをお話しましたが、神様は光り輝く天使たちに世界を支配させるのではなく、その務めを私たち人間に委ねてくださったというのです。これは考えてみるとすごいことですね。

6節ではその人間に与えられた、万物を治める使命について語っています。7-8節では具体的な説明を追加していますが、支配すべき具体的な生き物の表現も創世記に出てくるものとよく似ています。ダビデがこの詩を作った時に、創世記の物語をおそらく念頭に置いていたのでしょう。
ダビデは、この世界とそこに満ちる生き物を治めるようにという、壮大な使命を人間に与えられた神様の恵みに圧倒されています。彼は人間がいかに小さく、弱く、また罪深い存在であるかを、自分の体験からもよく知っていました。にもかかわらず、神様はこの世界の中で人間に特権的な地位と使命を与えられたのです。私たちはそのことを知る時、身が引き締められ、厳粛な思いに満たされます。
被造物を治めるという人間の使命について、二つのことを述べたいと思います。一つは、人間が被造物を治めるというのは、自分の欲望のままに自然界を利用し搾取する、ということではありません。確かに人間は自然環境に働きかけ、これを利用する強力な力を与えられています。しかし人間は世界の真の主人ではありません。私たち人間はあくまでも、天からすべてを支配される神様の地上における代理人として、地上においても神様の栄光が表されるという目的のために、自然に働きかけていかなければなりません。環境を汚染すること、資源を浪費すること、動物を虐待すること等々はどれも、神様から与えられた使命にかなったものとは言えません。私たち人間は、神様が造られた自然を保護し、育て、神様の栄光を表すために利用していく必要があります。クリスチャンは環境問題についても無関心であってはならないのです。

もう一つのポイントは、被造物を治めると言う使命は、人類全体に与えられたものだということです。この詩篇では、人間が他の人間を支配するということについては何も書かれていません。イスラエルと他の異邦人諸国の関係についてすら、何も書かれていません。究極的には、被造物世界を治めるという神様の使命は、世界人類が一つにならなければ実現することはないと言えます。人類の平和と一致は、人類に与えられた使命を完遂するための必須条件なのです。これはダビデという、政治的に多大な影響力を持った王の書いた詩にしてはとても興味深いことだと思います。ダビデがこの詩篇を生涯のどの時期に書いたのかはよく分かりませんが、戦いのさなかにあっても、あるいは王国を統治する様々な仕事に追われる日々であっても、彼は被造物世界における人類の使命という、さらに大きな目的から目を離さなかったのです。
新約聖書に目を転ずると、人類の一致と、被造物の適切な管理、この二つはどちらもイエス・キリストによってはじめて可能になることが分かります。ヘブル人への手紙の2章では、この詩篇8篇が引用され、イエス・キリストに適用されています。ヘブル書の著者は詩篇8:4-6を引用したあと、こう書いています:
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。 9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2:8b-10)

ここで著者が言っているのは、主イエスが人間となってこの地上を歩まれ、十字架の上で死んで蘇られたのは、「多くの子たちを栄光に導く」ためであったのと同時に、「万物を人間の足の下に置く」ためであった、ということです。
この大宇宙を造られた偉大な神様が、その中に浮かぶチリのような惑星に住む、これまたちっぽけな人間になられた、というのは信じられないような不思議なできごとですが、聖書はまさにそれが起こったと語っています。それは、私たち人間が神様によって造られた目的に従う歩みをすることができるようになるためなのです。
人として来てくださったキリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んでよみがえってくださり、天の父なる神様の右の座にあって、万物を統べ治める支配者となられました。キリストはユダヤ人だけでなく全ての民族の王となられましたので、キリストを信じる私たちはどのような民族出身であっても主にあって一つとされ、やがて世の終わりにはキリストによる万物の支配に参加させていただく、というのが新約聖書のメッセージです(1コリント15:24-28、黙示録22:5など)。
イエス様が来られたのは、ただ私たち人類が罪から救われるというだけではありません。その結果、この被造物世界全体が回復するということが語られています。ローマ書の8章を開いてみましょう。

18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。 19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。 20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。 21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(ローマ8:18-22)

ここでパウロが語っているのは、人間の罪のために、世界全体が呪われてしまい、被造物はうめいているということです。けれども、主イエスが再臨されて人類が完全に解放されるとき、被造物もまた解放され、新しくされるということなのです。それはまた、神さまが造られた被造物世界を適切に管理するという、人類に本来与えられた使命が完全に遂行されるようになる時でもあります。クリスチャンの希望は、永遠に霊の状態で天国に住むことではなく、神さまが造られる新しい天と新しい地、すなわち回復された物質的宇宙にあって、神さまとともに、神さまの知恵を頂いて、世界を賢く管理し、それを通して神さまの栄光を表していくことなのです。

世の終わりにそのことが完成するだけではありません。今この時代にあってイエス様を信じる私たちクリスチャンは、主にあって一つとなり、この世界を正しく管理する使命が与えられているのです。イエス・キリストは十字架の死と復活を通して罪と死の力を打ち破って天に昇り、天の父なる神の右の王座に着いて支配しておられます。その支配のことを新約聖書では「神の国」といいますが、神の国はこの地上で教会を通して現されます。私たちがイエス・キリストを信じ、聖霊をいただいてその御心を行っていくとき、この地上にも神の国が到来し、神様の支配が現されていきます。それが完全にこの地上を覆い尽くすのはまだ将来のことですが、その働きはすでに始まっているのです。

この詩篇の最後で、ダビデは冒頭のメッセージに戻ってきます。「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。」ダビデの詩は単なる人間賛歌で終わってはいません。私たち人間に、世界における特権的な地位と使命が与えられているのは、私たち自身のためではありません。それは神様の栄光がこの地上に表されるためにほかならないのです。
このように、人間という存在のすばらしさは、地上において神様の栄光を表すという使命と結びついて初めて意味があるのです。今日この世界を見る時、そこに神様の素晴らしさが十分に表されているとは思えないかもしれません。この地上は争いに満ち、環境は破壊され、多くの人々が飢えや災害に苦しんでいます。けれども、この詩が語っているのは、私たち人間が互いに一致協力して、この地球を適切に管理するという、神様から与えられた使命を十分に果たしていくなら、天において神様の栄光が表されているように、この地上にも神様の素晴らしさが満ち溢れていくようになる、ということです。聖書を通してそのことを知っている私たちには、大きな責任があります。私たちにはなすべき使命が与えられているのです。
ナチス・ドイツの時代に、ヒトラーに抵抗し、迫害の中でも信仰を守り通して、最終的には収容所で命を落としたディートリッヒ・ボンヘッファーという牧師がいます。彼は20世紀を代表する神学者の一人と言われていますが、このボンヘッファーは「私は何者か」という題の詩を書きました。その詩の中で、彼は自分が何者なのか、いろいろと自問します。私は人が私について語る通りの存在なのか、それとも自分で思っているような人間なのか? けれども最後に彼はこう言います。

「私は何者であるにせよ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものである。」(森平太訳)

人とは何ものなのでしょう? 私たちはこの大宇宙を造られた神様のものです。私たちの存在は神様に起源を持ち、神様から目的と使命を与えられています。それはこの神様を知って交わりを持ち、神様の素晴らしさをこの地上に反映していくことです。そのことは、私たちが神を愛し、お互いを愛し、この被造物世界を愛していく時に実現していきます。
人間社会におけるいろいろな問題を見、また何よりも自分自身の弱さや醜さを見る時、私たちは問いかけます。自分は何者だろう? 自分の人生に何の意味があるのだろう? そんな時、夜空を見上げてみてください。自然の中に出かけてみてください。あるいは道ばたに咲いている花に目をとめてください。これらすべてを造られた神様がおられます。そして、その偉大な神様はあなたを心に留め、顧みてくださり、なすべき使命を与えていてくださいます。もしかしたら、それはあなたが思っているよりも遙かに大きなものかもしれません。神様の愛に感謝し、その栄光が地上に表されることを求めて歩んでいきましょう。
最後にお祈りをいたします。

恵み深い天の父なる神様、あなたはこの宇宙のすべてを造り、また私たち一人ひとりも愛と目的を持って造ってくださいました。この週末は大きな台風が日本を襲い、自然の力の前に私たち人間の力がいかに弱いものであるかを見せつけられましたが、あなたはこの宇宙の営みのすべてを支配し保っておられます。そのような偉大な神様が、この小さな私たち一人ひとりに目を留めてくださり、大きな使命を与えてくださっていることを感謝します。
この人生の様々な問題に悩む時に、私たちは自分の存在に何の意味があるのか、疑問に思ってしまうこともあります。もう一度、このみことばを通して、私たちがあなたから与えられた大きな使命と目的を確認し、それに歩む者となっていくことができるように助けてください。私たちは自分の力でそれをすることができませんが、そのためにイエスさまが来てくださり、私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえって、今天において治めておられることを感謝します。私たちはキリストにあって、神様のみこころを地上で現す者となることができることを信じます。
どうか今週一週間の、私たち一人ひとりの歩みをあなたの御霊によって導いてください。尊き主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。