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「あなたから始まる神の国」

2021年1月31日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ルカによる福音書12章32節

『小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。』

 ハレルヤ!感謝します。今月は五回日曜日がありましたが、最後の日曜日にこうして皆さんの前に出ることができ、メッセージを語らせていただけますことを心から感謝します。
 二〇二一年も明日で二月に入りますが、この年、新城教会では『回復と再建の年』というテーマを信仰によって受け取らせていただいて始まりました。
 これは、旧約聖書の時代に起きたイスラエルのバビロン捕囚と、そこからの回復・帰還、この捕囚の期間があった七十年からこの数字が来ています。
 新城教会の宣教七十周年、去年がその年であったわけでありますが、この年を、私たちの中に、主の約束された将来と希望を、この教会にも我々一人一人の中にも、また日本にも世界にも当てはめて、祈りと共に進んできたわけです。この国の中に、私たちの中に神の国が現されるように、傷んだところ、失われたところに七十年が満ちて、七十一年目は回復と再建がもたらされていくことを信じていくことを二〇二一年の初めにあたり、新城教会に主が与えてくださったと受け取りました。

 旧約聖書を見ますと、神がイスラエルの民に対して、何度も預言者を遣わして、「あなた方は偽りの神々に仕えてはならない。真の神を信じ、この神のみ礼拝しなさい。さもなくば、あなた方は裁きに遭ってしまいます。国は滅ぼされ、あなた方は捕囚とされ他国に連れ去られることになる。」と、神さまは何度も何度も警告されました。「真の神を信じていきなさい。祝福、繁栄が与えられますよ!」と。
 でも、イスラエルはへりくだることができませんでした。そして偶像礼拝から離れることをしなかったがために、とうとうバビロニア帝国のネブカデネザル王がイスラエルを攻めてエルサレムを破壊し、民をバビロンに捕囚として連れて行ってしまいました。紀元前五八六年頃のことであります。
 しかし、愛なる神さまは罪を犯したイスラエルの民を捨て去ることをせず、また、この民から後に全世界を救い神の祝福をもたらすことになる「メシヤ」が誕生するという約束を反故にされることはありませんでした。
 紀元前五三八年頃、バビロニアに代わってペルシャが台頭し、王クロスが即位しました。その元年に次のような勅令が出されました。「ユダヤの民よ、あなた方は自分の国に帰還しなさい。そしてエルサレムを再建しなさい。バビロニア王が持ち去った神殿の宝物や礼拝のための道具も持ち帰り、街を再建し、あなた方の神に向かって、ペルシャの王のために祝福を祈りなさい。」と命令したのです。
 そこで、ユダヤ人たちは総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイなどに導かれて、首都のエルサレムに帰り、翌年から神殿の再建に乗り出していったわけです。
 途中、敵の妨害に遭いながら工事は進められ、紀元前五一六年頃にエルサレムの神殿の再建が果たされたと考えられています。
 七十年は、イスラエルの民が神さまから離れ罪を犯したために捕囚となった年月であり、イスラエルが神さまの前で建て直されて、回復と再建が成されるために必要だった年月であります。

 さて、エズラ記一章~六章にエルサレム神殿の再建について描かれています。

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 この神殿は「第二神殿」と言われているものです。ソロモン王が建てた神殿を「第一神殿」と呼ぶのに対して、バビロニア帝国により神殿が破壊され、七〇年後に捕囚から帰還したイスラエルの民が建てたのが、この第二神殿です。この神殿の寸法など詳細がエゼキエル書に描かれています。この記載に基づいてイラストにしたのがこれです。

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 こちらは「キュロスシリンダー」と呼ばれている歴史的遺物です。これは紀元前五三九年から五三〇年頃のものだと言われています。今は大英博物館に所蔵されています。この年代は「ユダの民をエルサレムに帰還せよ。」と命じたキュロス王(クロス王)の治世と重なります。
 写真だと見にくいのですが、くさび形文字が全面に埋め尽くされています。何が書かれているかというと、クロス王の成した偉業について賞賛する言葉が書いてあります。恐らく政治的プロパガンダのために作られたのではないかと考えられているのですが、内容はこんな感じらしいです。

“キュロスがバビロニアを滅ぼして都バビロンに無血入城を果たし、新たな王として即位した。”

 バビロニア帝国からペルシャ帝国に治世が移ったわけです。そして、
“かつてバビロンが征服した国々の神々の像を返し、バビロニア王が諸国から連れてきた捕囚の民を帰還させ、その民が王のために祈ることを求める。”

 という内容が書かれているそうです。
 これはエズラ記を読むとわかるのですが、クロス王が即位した時、

『ユダの民はエルサレムに帰って、彼らの神に向かいクロス王のために祈るようにしなさい』

 という勅令が出されたと記されているのですが、その記述とこのキュロスシリンダーに書かれている内容が一致するのです。「キュロスシリンダー」は聖書の記述を裏付けているのです。

 神さまは、神話の中でだけ登場し、訳のわからない抽象的なことを言って、また気まぐれに「世界を動かしてみようかな」なんてやっているような神さまではなく、聖書を見るとすべてのことについて神さまは計画を持っておられ、人間が罪を犯して神さまから離れる時、神さまは人間を処罰されるわけですが、ひとたび人間がへりくだって神さまに立ち返り、神さまに信頼して歩み始める時、神さまは必ずそこに回復を現してくださる。そのことを聖書から私たちは知り、また歴史を通して学ぶことができる。預言者たちを通して神さまは警告されたけどイスラエルは神に従わなかった。しかし、七十年の捕囚を経て、神さまに立ち返り、新しいイスラエルへと神さまが回復されて、新しい歴史が動いていく。そのように神さまは歴史を通じて、私たち人間に関わり続けてくださっていることを知ることができるわけですね。

 今年順先生を通して語られたみことばは、イザヤ書四十四章二十六〜二十八節です。

『わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」』

 これはイザヤが預言した言葉でありますが、私たちはエズラ記の記述などを通して、本当に神さまはこのように回復の業をされた。それを歴史的な事実として見ることができるわけです。

 そして、エズラ記に書かれているイスラエルの再建は、神の家から始まりました。帰還したイスラエル人たちが、国の復興のためにまず着手したのは、神の宮の再建からでした。

「奇しくも」と言いますか、私たちが計画したわけではなく、不思議に神さまが導いてくださっているのですが、新城教会では今年一月から建物の補修が始められております。
 去年の七月、この地域に二週間くらい豪雨が続き、教会の建物の一部に雨漏りが発生して、天上が一部崩落し、私たちはその捕囚のために奔走したことがありました。実は雨漏り問題は以前からちょくちょくありまして、我々も何とかしようと少しずつ手を加えてきたのですが、昨年いよいよこれはもう本格的に補修するしかないということになりました。
 それとともに、教会が抱えてきた借り入れ返済が昨年四月に完了して、また銀行から新たに融資も受けられることが分かり、補修事業に取り組むための環境が整い、本格的に検討が始められて、この一月からスタートしたということであります。

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 教育館に足場がかけられている写真です。

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 崩落した天上の写真です。二箇所撮っております。

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 教育館の屋根です。まだ工事が始められる前ですが、屋根の折板の端に白いものが見えますけど、私たちスタッフや有志の兄弟たちが一緒になって施した補修の跡です。苦肉の補修の跡ですが、今回これは全部削り取って、新たに施工されました。

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 一番から四番まで工事の順を追って写真が出ています。一番は施工前です。白い樹脂を削り落として新たに樹脂を塗って、二番はウレタン樹脂という防水塗料を塗り、その上にまた上塗りしているのが三番です。そして四番は塗装した上で立ち上がりの縁のところに防水シートを被せ、笠木というブリキ板を折り曲げたカバーを被せた。二重三重の防水加工が施されたわけです。

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 ペンキを塗っているところです。業者さんが塗ってくださっています。

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 ペンキを全体に塗られてきれいになっている屋根の写真です。

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 これは外壁の目地で、壁材同士の隙間にシリコン樹脂が充填されていたんですが、経年劣化でカピカピの干からびた状態でヒビが入り隙間がたくさんできていた。そこから雨が侵入していたのですが、一番はその樹脂を一旦削ぎ落として、二番は新たにシリコン樹脂を充填して、三番が体裁を整えて綺麗に整った状態です。この作業を隙間という隙間、窓枠の縁など、そういう所に全部充填しました。そのために一ヶ月ほど足場が組まれていたということです。

 二〇二一年に予定されている補修事業は、もう取り掛かってるのもありますし、これからのものもあるんですけども、いろんな事業が予定されております。
 会堂の方にも雨漏りがあるので防水を施したり、また水道では地下でどこか水が漏れているみたいで、水を使っていなくてもメーターが回っている状態が続いており、それも地面を掘ったりして補修しているところです。
 また会堂の音響機材の更新、インターネット配信用の機材の拡充。そして一番大きいのが、旧プレイズ社屋のリフォーム工事で、これから有効活用されていくためにどのようにしていったらいいか検討して、見積もりを取ったりしております。また具体的になってきたら皆さんにもご報告させて頂き、お祈りしていただいて、献げていただく中で、このような事業が進められて参りますことを心から感謝いたします。

 このように多方面で教会の補修・拡充が包括的に進められる状況が、今年一月から始まっております。このことを導いてくださっている主に心から感謝します。
 またこのことが預言的に現された主の業であると信じます。神の宮が建て上げられていくことが「回復と再建」という今年のテーマの中、私たちの中に起こされているという事が、我々の人生の中にも預言的な出来事として、今後の一年の中で見させていただくことができることを信じていきたいと思います。

 話は変わりますけども、昨年十二月三十一日のカウントダウン・ワーシップで、私も二〇二一年に向けてメッセージさせていただきました。先生方のメッセージも本当に素晴らしかったですが、私が語らせていただいたみことばは、詩篇百三篇一〜五節でした。

『わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし
あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。あなたの若さは 鷲のように新しくなる。』

 二〇二〇年を振り返ってみると、コロナの問題があり、享子さんの病との戦いがあり、本当に祈らされる一年でした。この一年間の戦いを通して、今ももちろんコロナも終息していないですし、享子さんの戦いも継続していますが、これからも戦い続けていくことを前提に、三つのことを教えられたとお話しさせていただきました。

<二〇二〇年の戦いを通して、神さまが新城教会に与えておられる三つの励まし>
 一つ目は「霊的戦いはあるよ」ということでした。
 二つ目は、「霊的戦いには勝利があるよ」です。私たちは戦いを意識し、戦いの中で神さまが守りを与え、癒やしを与え、導いてくださることを学び続けた一年だったと思います。享子さんにも三度に渡って、主治医が驚くような、「これは考えられない!理解を超えている!」ということが起きました。
 このことは、今もいろんな問題があったり、課題があったり、戦いの中にあるのですが、私たちが将来と希望という約束をいただいて、前進していくための大きな励ましになったわけです。
 そして三つ目は、「私たち全員がそのことの証人だよ」ということをお話しさせていただきました。この戦いが個人レベルではなく、教会全体、またキリストの体としての戦いであり、与えられた恵みも共同体の中で分かち合い、共有されるものであると。
 幅広く祈りが共有されて、皆で真剣に「祈る」ことは、大きな勝利をもたらすと改めて思わされました。だからその関わっている一人一人に、その勝利も、そのそれぞれのパートの中で共有されていくということを教えられました。
 七十年が満ちた時に与えてくださる将来と希望の約束を、この一年間の戦いを通して私たちは受け取らせていただき、二〇二一年、回復と再建の年、新たな思いで立ち上がり、歩んでいきたいと思わされています。

 エズラ記を見ていきますと、一章から六章までは神殿の再建が描かれています。そして七章から後半にかけて、エズラが出てきます。「エズラ記」なのにエズラが出てくるのは、エズラ記が六割方終わった辺りから出てくるわけで、「これはいかに?」であります。それはエズラが何をしたかということに意味があるわけです。
 エズラは、帰還したユダヤ人の手によって神殿の再建が果たされたイスラエルに、やはりペルシャから帰還して来た人でした。
 そこで彼が見たことは、実はイスラエルの民の霊的な後退でした。神殿ができてエズラが来てみたら、霊的に後退したイスラエルだった。
 具体的には異邦の民、偶像を礼拝している民と、真の神を礼拝しているイスラエルとの雑婚があったのです。
 もう一つは、ネヘミヤ記に書いてあるのですが貧富の格差です。ユダヤ人たちの中に、金持ちが同じユダヤ人から利子を取って金を貸して、それがために人々の中で自分の財産を売りに出し、自分の息子娘を奴隷に出さなければならない人が出ていた。
 そういった現実を目の当たりにして、エズラは霊的な改革に乗り出しました。神の宮が再建された次になされたのは霊的な再建だった。
 そしてエズラは律法の朗読と祈りとに民が心を砕いて、主を第一とすることができるようにと説いたわけであります。新約聖書にも第一ペテロの手紙四章十七節前半に、

『なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。…』

「回復と再建」は、神の家から始められるという法則を、エズラ記に、また新約聖書にも私たちは見ることができるわけです。

 二〇二〇年はコロナ問題をきっかけに社会がガラリと変化した年でありました。新しい価値観とモラルが植え付けられて、社会の最大の関心事が病気の蔓延を防ぐことになったわけです。生活スタイルが一変し、どこに行くにも私たちはマスクを欠かさずに身に着けなければならなくなりました。こまめな手洗い消毒、体温測定、そして、他人との接触をできるだけ避け、近くで会話や会食をしないとか、私も教会で皆さんをお迎えする時、握手の手を出すこともできなくなってしまいました。今では肘タッチが正式的な挨拶みたいな時代です。

 そんな中、教会の働きの中でも「伝道」が難しくなったわけです。まず集まれない。集会を企画することができない。そんな中、教会スタッフの中で、これまでになく大きく求められるようになったのが「祈り」です。去年は戦いの中で、これまで以上に祈りをささげることが、やはり教会にとって一番大事なこととしてクローズアップされた時でありました。

 本当に神さまは不思議で素晴らしいと思いますが、そのような中で、私たちの思いを越えて、教会ではバプテスマを受ける方が毎月のように与えられました。コロナ禍でどのようにして主の元に導かれ、救われたのかなぁ、それぞれ救われる経緯があるとだろうとは思いますが、十分な働きができない中で不思議な恵みであります。

 そんな一年を振り返り、二〇二一年はどうだろうかと思います。
 神の国がこの地に現わされるため、昨年同様、兄弟姉妹が互いに励まし合い、祈り合ってこの時代を生きていくことが大切だと思わされます。私たち牧会スタッフができることも、兄弟姉妹に霊的に寄り添う、祈りをもって仕えることが、本当に大切なことだと感じています。

 話は変わりますが、昨年十一月頃から、星と私たちとの関係について、メッセージなどで語られるようになりました。私たちは、主によって創造された星々との関連性をもって造られており(申4:19ジュネーブ訳聖書等)、またそこにある霊的な祝福を受けることができる。その祝福とは、私たちの人生を導くナヴィゲーションシステムのようなものだ、ということも語られていました。
 そのナヴィゲーションシステムの一つとして最近クローズアップされているのが「暦」です。
 太陽暦と太陰暦というものについて、今まで私たちの人生の中で、あまり考えられることがなかったかもしれません。この「暦」は太陽の運航や月の運航を元に作られています。人間を含めた生き物たちが子孫を生み出す時も、太陽と月の引力が作用する力によって影響されていることを見ることができます。

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 特に海洋生物は、太陽の引力と月の引力とが相乗効果を生む満月また新月の時に卵を産むという生き物が多くみられます。だいたい一ヶ月、二十六日から三十三日くらいの間に月経の循環が来ることが多いです。

 私たちは太陽や月の動きを見てパターンがあることに気づき、それを生活のリズムの中に組み入れてきました。一日が七日で一週間、一週間が四回で一ヶ月、一ヶ月は「月」と書くように、やはり月の満ち欠けの運航が元にあります。そして一ヶ月が十二回で一年という考え方で年月日という「暦」が作られているわけです。
 今日は時間の都合で詳しく学ぶことができませんが、その他にも惑星の運航とか、星々の運航が付け加えられて様々な「暦」が作られました。それらの星々の運航にはパターンが見られます。それも神さまによって造られているのです。
 そして、私たちの世界、宇宙、もっと微少な世界であるDNA、あるいは素粒子の世界にいたる領域には一貫した法則性を見出すことができるのではないか。そこに共通のパターンを発見することができる、と私たちに連想させるものがあります。

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 銀河の渦巻、太陽と惑星の間に見られる螺旋運動、そしてDNAの螺旋構造、分子や原子の中に見られる素粒子の円運動、そういったものの中に類似性また共通性を見ることができる。巨大な宇宙から微細な分子原子まで、その中に私たち人間の営みも組み込まれています。
 そもそもこれらは神さまが造られたわけだから、そこに類似性があっても不思議なことではないと僕は思います。
「フラクタル構造」と書いてありますが、右上にあるイラストには、シダの葉が描かれています。シダの葉は、その先端部分を拡大すると、そこには葉っぱ全体と同じような形を見ることができ、さらに拡大すると、そこにも同じような形があるという、不思議な構造をしています。
「ロマネスク」という野菜の一種がありますが、全体に突起があるごつごつした形状です。このゴツゴツの一つを拡大し見ると、同じような形をしていることがわかり、その突起の一部を拡大しても、これまた全体と同じような形が現れる。そういった構造を「フラクタル」といいます。大きなものから小さなものまで類似性、共通性を持った構造を持っていることをいうわけです。
 これは神さまが創造の中に与えられた一つの秩序であり、パターンです。意識していてもしていなくても、それらを私たちは営みの中に取り込んで生きているわけであります。

「暦」もその一つです。
「『暦』とは宇宙のリズムを私たちの生活に取り入れるため神さまが定められた法則」ということができるかもしれません。

 昨年十月頃に滝元開牧師が、宇宙に存在する様々な「音」について講義をされました。「そこには一定の『リズム』がある」と。鳥の鳴き声や虫の鳴き声にもリズムがある。宇宙を調べても星々からはリズムが発せられている。それらを組み合わせてみると、あたかも交響曲・シンフォニーのような響き合いを見ることができる。被造物全体が神さまを賛美している。そんなことを語られました。宇宙全体を神さまは「秩序あるもの」として造られたということを、創造のみわざの中に私たちは見ることができます。神さまは私たちを祝福するための法則をそこに盛り込んでおられます。
 太陽を中心とした惑星同士の結びつきや、太陽が銀河の中心を軸として公転していることも、銀河が宇宙空間に存在していること自体にも、私たちがその全容を知ることはできないわけですけど、神さまの何か摂理と法則が秘められているのではないか。そんなことを考えるとちょっと僕はオタク心がときめきます。
 詩篇十九篇一〜四節 、

『天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。
話しもせず語りもせずその声も聞こえない。
しかしその光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。』

 太陽や月、その存在は、神の偉大さを私たちに語り告げている、そのように書かれています。

 しかし一方で、そこには悪魔の罠があることも確かであることを私たちは垣間見てきました。その罠は巧妙に仕掛けられて、私たちが無知のままでいるならば、知らずして私たちに与えられるはずの祝福が奪われ、悪魔の手に渡ってしまう。そういうことを悪魔は歴史の中でずっとしてきた。暦を通してもしてきている。そこに自分の居場所を悪魔は築いてきて、そしてその暦を通して悪魔が私たちにもたらすものというのは、支配と奴隷として隷属させるという構図です。神さまが与えるのは祝福、恵みですが、悪魔は私たちに束縛を置いてくるわけです。

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「もしも日本神話の神々が曜日になったら」
 私たちは「日曜日、月曜日、火曜日…」と呼んでいますが、神話の神々が曜日になったら、口にするのも嫌ですが、「アマテラス曜日、ツクヨミ曜日、カグツチ曜日…」とか呼ばなければいけないとしたら、「そんな偶像の名前は嫌だ!」と、クリスチャンならば感じるだろうと思います。日本神話に出て来る神々の名前が曜日になるなんて嫌ですね。
 だけど日月火水木金土という呼び方は、実は中国の陰陽五行を元に日本に入ってきた呪術、詳しく説明することはできませんが、占星術そのものです。
 一般化されていますので、私たちは「日曜日に礼拝で会いましょう!」とか言うのですが、これは元々は呪術的な言葉なわけです。
 だから「アマテラス曜日」と「日曜日」って、同じレベルの言葉なのです。辛いことであります。
 また一月、二月、三月も、英語だとJanuary, February, Marchとか言いますが、これもローマ神話の神々が月の名前になっていたりします。
 日本には暦の中に「元号」が取り入れられています。これも天皇による宇宙の支配を宣言するものだといわれています。天皇が神であることを宣言するというのが元号の元々の意味合いであるわけです。
 だからこそ、私たちは主にあって管理者として宇宙を見上げ、そこにある法則を知り、受け損なっていた祝福を勝ち取る。神の国の現れを求めていかなければなりません。
 そういう意味で、私たち個人のなす働き、クリスチャン一人一人がなす働きも、大きいものも小さいものも同じ神さまのわざとして存在しています。私たち一人一人がなしていく業、それはある意味では取るに足らない小さなものだと思ってしまうところもあるかもしれません。しかし、被造物世界にあるフラクタルな関連性を考えたとき、私たちが祈りをささげていくことは小さな領域にも大きな領域にも影響を及ぼしていく働きであるということを信じていきたいと思います。
 ローマ人への手紙十二章五節、

『大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。』

 またガラテヤ三章二十六節、

『あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。』

 そして使徒の働き十一章二十六節では、

『…弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。』

 と書いてあります。私たち一人一人が小さなキリスト、キリストの弟分として存在しているわけです。結論として、冒頭にお読みしたルカの福音書十二章三十二節、

『小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。』

 私たち一人一人、個人的にはなかなかそのことを実感していくことができないかもしれません。個人が祈る祈りはとるに足りない、私一人の働きなんて小さなものだろうと感じるかもしれません。
 しかし、私たちの神のためになす働き、一人一人が神さまから受け取った使命をなしとげていくことは、神の国全体と結びついている。また宇宙全体、被造物全体と結びついている。それらを神の元に勝ち取るための重要な働きであることを今日覚えていきたいと思います。
 そして、今私たちに「祈り」が大変重要なものとしてクローズアップされている中にありますが、私たちはこの時代の中で、目に見えるものも、見えないものも、現実的なものも霊的なものも、神さまが造られたものに対して、すべての被造物に対して私たち自身が祈りを通してそれらを祝福し管理することができる者である、ということを受け取って、実践していくものとなっていきたいと思わされている者であります。

 一言お祈りをして終わりにさせていただきます。

 天のお父さま、今日は「あなたから始まる神の国」というテーマで、メッセージさせていただきました。『小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。』と私たちに仰ってくださっていることを心から感謝いたします。七十周年が満ち、七十一年目にさしかかった私たち、まず神の家からへりくだって、霊的な回復また再建が、お一人お一人の人生の中に実現していくことができますように。暦を含めすべての被造物が神の前に回復し、神の国がこの世界に現されていくことを信じます。そのために私たち一人一人、小さなキリストとなって、用いられていくことができますように。イエス・キリストのみ名によって、この祈りをみ前におささげいたします。アーメン。


 



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