HOME > メッセージ > 主日礼拝

神の備えられたもの パート3 神のみわざ」 

  • 2019年11月10日(日)

新城教会牧師 岡本信弘
第一コリント2章9節

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美いたします。久しぶりにここに立ちメッセージができることを心から感謝いたします。いつも私や家族のために、またプレイズのためにもお祈りいただいていることを、本当に心から感謝します。
 暑い暑いと思っていたら、あっという間に寒くなって、秋が短かったような感じですが、皆さんが今日、健康でこの場所に集うことができていることも感謝したいと思います。
 また、今、イスラエルにとりなしツアーに行っておられる方々もいますので、その祈りによって新しい扉が開かれることができるように祈っていきたいと思います。
 先ほども祈りましたが、今週は大嘗祭があります。また、昨日・今日と祝賀式典があって、昨晩のニュースでは、大勢の人が集まり国旗を振りながら、「バンザーイ!」と言っている様子が映し出されていました。その時、戦時中かと思えるような違和感を覚え、「これからの日本は大丈夫か?」と本当に祈らされました。私たちクリスチャンは、日本が決してサタンの手に奪われることがないように、主のみこころが現される国になるように祈っていかなければならないと思わされました。

 さて今日は、私が今年のテーマとして与えられているみことばから「神の備えたれたもの パート三 神のみわざ」について、学んでいきたいと思います。
 このみことばのように、この年、私にとって数々の新しい体験、新しい発見がありました。

 一つ目の「神の備えられたもの」。これは、「魂の誕生、救いのみわざ」です。
 この年、私にとって大きな喜びの一つは、二人の孫が与えられたことです。六月に礼拝メッセージを語らせていただいたのですが、五月の終わりに長男の出(いづる)のところに二番目の孫の今(いま)が誕生したことを、その時に紹介させていただいたのですが、今回も計らずもメッセージの直前、十一月の初めに娘の泉のところに詩(うた)が誕生したことをご報告できることをうれしく思います。じじバカですが、一枚だけ写真をお見せします。

11.10岡本先生 (1).jpg
 
 今回は自分の子どもの時よりも、今までの孫の二人よりも、なぜかすごく祈らされました。予定日を過ぎてもなかなか生まれなかったので家内に「大丈夫か?」と言うと、「大丈夫だよ。まだ予定日を数日過ぎただけだし」と言い、私がとても心配をしているのを見て、「やっぱり娘を一番愛しているんだね」と言われました。「そんなことはないよ!」と言いながら、なぜか心配で、本当に祈らされました。病院の先生には「四千グラムの大台に乗るかもしれないから、たくさん歩いて早く産んだほうがいいよ」と脅されましたが、結果的には三三四八グラムの、普通より少し大きいくらいの女の子でした。でも結構お産は大変でしたので(私は大変ではなかったですが)、それを知った多くの方々が祈ってくださり、無事に生まれました。皆さんのお祈りを本当に感謝いたします。
 このように、人が生まれると大きな喜びがありますが、同様に、教会においては「魂の誕生」、人が救われるということが、何にも代えがたい喜びだと思います。

 一方、今年は、我が家にとって悲しい出来事もありました。それは八月の終わりに突然、家内の父が召されたことです。十年前に義母が召されてから十年ほど一人暮らしをしていました。ちょっと通販にはまって、いろいろな物を買い込んでいて、本なども月に何冊も買っていたのですが、大事なところに赤線をひいたりして、ちゃんと全部読んでいました。私からするとあり得ないのですが、直前に買った本を見ると、英会話の本や手話の本もありました。勉強熱心なお義父さんでした。
 ここ一年ほどめっきり足腰が弱くなって、週一回のデイサービス以外は出かけることもほとんどなくなったので、何度も「アークホームに入ったら」と勧めましたが「一人が気ままでいい」と言って、自由な生活を楽しんでいました。でも、すごいですよね。九十歳でアパートでひとり暮らしをして、すべて一人でやっていたのですから。
 ずいぶん昔、新城に来る前に、イエスさまを信じると言ったことがあり、この教会にも何度か来て、シオンタイムなどでもお世話になりましたが、ここ数年、足が弱くなったことを理由に教会から遠ざかっていたので心配していましたが、みことばをとおして、天国に入れていただいたことを教えられ、本当に心から感謝しています。

 「人生は出会いで決まる」と言われるように、誰と出会い、いつ、どんな選択をするかで人生が大きく変わってきます。皆さんも振り返る時に、「あの時、あの選択をしなければこうなったかもしれない」と思うことがあるかもしれませんが、今こうしてイエス・キリストに出会い、救われた私たちクリスチャンは、素晴らしい出会いを体験し、祝福と恵みをいただいています。
 皆さんの周りにはクリスチャンでない人が何千、何万という人がいますね。その中で、皆さんが選ばれて今ここにいる。本当にすごいことだなと思わされます。
 神さまは、テモテへの手紙 第二 四章二節で、私たちにこのように語っておられます。

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

 神さまが私たちに望んでいる第一のことは、「時が良くても悪くてもみことばを伝えなさい」ということです。

 「伝道する」。言葉で言うのは簡単ですが、実際はなかなか難しいところがあると思います。なんでこんなに素晴らしいイエスさまを信じないだろう、信じてほしいと思う反面、特に、親族や兄弟、また親しい友人にはなかなか伝道できず、歯がゆい思いをされている方も多いのではないかと思います。
 私は高校を出てからもうずいぶんたちますが、同窓会を二年に一回行っています。昔は四年に一回だったのですが、だんだん年を取ってきて、期間が短くなりました。私は毎回参加してきましたが、気に入らないことがありました。ホテルやレストランでやると、酒が出るのです。皆私が牧師だということを知っているし、もちろん酒を飲まないことも知っているのに、高い会費を払わされるのがすごく不満でした。何回も酒と食事を分けてくれと言ったのですが・・・。
 先回もホテルだったのですが、「たいした料理も出てこないで、なんでこんなに高いんだ!」と、すぐに計算してしまって・・・。「これだったら私の店(雲の柱)でやったらどうだろう。ゆっくり美味しい料理が楽しめるよ」と提案しました。そして、「その代わり、当然、酒は出ないよ!」と言いました。「なんで酒が駄目なの?」、「ワインくらいいいじゃないか」とか、「酒を持ち込んではいけないのか」とか言われました。しかし、いつも私が案内を出す役割をしていますので、「酒は出ません。酒を飲む人は来なくていいです」と書いて出しましたが、三十数人の方が来られました。
 毎回同窓会に出る一つの理由は、その人たちとの関係を保って、少しでも神さまの恵みを証しして伝道できれば、という思いがあるからです。酒が出ると、ぐだぐだ言う人がいるのですが、今回は酒を出さないので、その理由とか、また、私の店ということで、レストランを経営するようになった経緯とか、いろんな事業展開のことを聞かれて、その度ごとに神さまの恵みを証しすることができ、本当に感謝しました。また、商業科で女子が多いので、おしゃべりに花が咲き、おいしい料理を食べながら思う存分話ができたと、皆さんとても喜んでくれて、「次回もここがいい!」と言ってくれたことも感謝でした。
 伝道するのは難しいと考えておられる方もいるかと思うのですが、皆さんにしかできない伝道方法があり、そして何より、皆さんに預けられた魂があることを忘れてはなりません。

 また、家族や兄弟に伝道することもすごく難しいものです。私の両親も、家内の両親も天国に送って、私たちにとっては一つ重荷が下りたかなと思うのですが、親族の救いの証しをしたいと思います。
 皆さんも明先生から聞いたことがあるかもしれませんが、私の祖父 岡本啓一の救いです。頑固じじいを絵に描いたような人で、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒の働き十六章三十一節)というみことばはあるけれども、例外はあると諦めていました(笑)。私は、「この人は絶対、救われない」と確信していたので、伝道しても無理だと思っていました。
 でもうちの母は、祖父の救いを祈っていました。教会の隣に住んでいたので、明先生も「おじいさん、教会に来たらどうだん」と、いつも誘ってくれました。しかし、いつもそっけない態度で追い返していたのです。
八十歳を過ぎて少し体が弱って床に伏せていた頃、母は明先生に、「うちのおじいさんも長くないかもしれない。どうしても天国に送りたいから、最後にもう一度伝道してほしい」と頼みました。明先生は、我が家の奥の畳の部屋で休んでいる祖父のところにやって来て、「おじいちゃん、どうですか?」と声をかけ、伝道し始めました。すると祖父は、「おまえは商売だからうまいことを言うんだろう。天国も地獄もあるもんか!」と床の中で怒鳴りました。すると、普段は何を言われてもおとなしく引き下がっていた明先生が大声で、「おじいちゃん、今まで黙っていたらいい気になって、商売とは何事だ。商売だったら、わざわざ東京まで行って勉強したのに、こんな田舎に帰って来ないわ!」と、まくしたてたそうです。それを聞いていた祖父は起き上がり、床の上に正座して、「わしが悪かった、わしもイエスさまを信じる」と言って、あの絶対救われるはずがないと思われた祖父が救われたのです。奇跡が起こりました。「こんなことがあるのか」と、私はみことばを信じなかったことを反省しました。
 そんな恵みの中で、頑固な祖父が救われて、家族中がクリスチャンになったわけですが、その時から祖父は変わり、明先生の本にも書いてありましたが、「私が怒鳴ったせいか、おじいちゃんがびっくりして、また元気になって、数年の間、教会に通っていました」とあり、病気も癒され、何年間か教会生活を送って、天国に帰って行きました。

 もう一つ、私の家内の祖母の証しを少ししたいと思います。東京に住んでいた祖母(春枝さん)は、病気になって、家内の両親が住んでいた豊川に世話になるようになりました。私は、「品がよくて穏やかな人のようだけど、昔ながらの人だから頭が堅く、伝道しても無駄だろう」と思っていました。
 しかし、ある日一緒に食事をしていた時に、賛美歌の話題になりました。そうしたら祖母は、「私は、これでも小さい時に教会に通って賛美歌を歌ったことがあるのよ」と言いました。驚いていろいろ話を聞いてみると、戦後間もない頃、ミッションスクールにも通っていたと言うのです。ハイカラなおばあちゃんだなと思ったのですが、さらに驚いたことは、「日本の仏壇なんかに神さまはいないことは知っているから、拝んだことはないのよ」と言ったのです。「へぇ〜! それはすごい」と思って、この時とばかりに伝道すると、祖母はイエスさまを受け入れてくれました。しばらくして天に召されましたが、葬儀は、豊川の自宅において私が司式をして行いました。春枝さんは、私が牧師になって初めて葬儀をした人でした。

 そのように、皆さんも「この人は救われないだろう、救われるはずがない」と思っている人がいるかもしれません。しかし、神にとっては不可能なことはなく、どんな人にも主は働いてくださり、みことばどおりに救ってくださいます。皆さんの家族、親族、身近な方々のために、救われるように祈っていきましょう。

 そして、神の備えられた二つ目は、「祝福なる神のみわざ」です。
 話は少し変わりますが、今年、私は初めての体験をしました。それは、六月にリバイバルミッション主催で行われたビジネスセミナーの講師です。やってみて思ったことは、「私はたった一回やるだけでこんなに大変なのに、何度もやっておられる先生方は、すごいな」ということでした。
 引き受けたものの、まず人が集まるか心配しました。しかし、感謝なことに十八名ほどの方が集まってくださいました。二日間、講義があったのですが、一日目を終えた時、「準備していた大半のことを話してしまったと」家内に話すと、「明日、話すことがある?」と心配されましたが、結局、二日間、約十時間ほどしゃべりまくり(笑)、皆さんすごく喜んでくださいました。
 後日、セミナーに参加された東京の牧師先生から連絡があり、「私の教会に来て、礼拝メッセージと午後にセミナーをしてください」と依頼があり、十月二十日に奉仕に行って来ました。
 その教会は、大泉という東京の郊外にある町で、何と人口は五十万人(新城市の十倍ほどで、ビックリしました)。教会は三階建てで、新城教会と同じくらい長い歴史がありますが、礼拝は、四十名くらいでした。歴史が長いだけあって、信仰歴四十年、五十年の年輩の方が多く、牧師先生が一番若いようでした。
 今回、私を招いてくださったのは、町の皆さんが気軽に集える場所を作りたいと牧師先生にビジョンが与えられたのをきっかけに、三階建ての一階をリフォームして、カフェを開きたいという願いがあり、そのために、カフェを実践してきた私に話を聞きたいというところからでした。教会内でビジネスをするということにすごく心配している人、反対している人、いろいろな人がいるとのことでした。
 礼拝で証しを交えてメッセージを語り、午後にセミナー、その後、質疑応答が二時間くらいありましたが、皆さん恵まれたと言ってくださいました。
 様々なことをお話しましたが、その時教会の皆さんから感じたのは、これからのキリスト教界のことを心配し、「このままじゃいけない。こんなに大勢周りに人がいるのだから、一人でも多く救われてほしい! そのために私たちに何ができるのか」という熱い思いでした。それを聞いて私もすごく恵まれました。
 その奉仕をとおして感じたことがもう一つありました。それは「新城教会はすごいな!」ということでした。そして、いかに私が恵まれているかということをあらためて実感しました。
 プレイズ出版は、三十数年前に印刷機械メーカーの一人の営業マンとの出会いから始まりました。プレイズ(プレイズ出版は、十月一日から株式会社プレイズと社名を変更しました)は、九月三十日に、新社屋、新シャロームの落成式を行うことができましたが、その方が落成式で祝辞を述べてくださいました。印刷機の購入契約をしてから、「仕事だから売ったけれど、こんな素人に業務用印刷機を扱うことができるだろうか?」、「本当に大丈夫だろうか?」とすごく心配し、三日ほど眠れなかったと、当時を振り返っておられました。その方とは、それ以来、ずっとお付き合いがあり親しくさせていただいていますが、そのことは、今回初めて聞き、営業マンにそう思われるほど印刷の経験も知識もない者が、よく決断できたなぁと、あらためて神さまの導きを感じました。
 そして、この働きを始める際、一人でも「教会で商売なんかやるもんじゃない!」と反対したら、今のプレイズはなかったと思います。先生方はじめ皆さんが理解してくださり、ある意味では私のやりたい放題にやらせてくださり、さらに多くの方に協力していただき、奉仕していただき、祈っていただいてきたからこそ、今があると感じ、本当に心から感謝しています。

 新社屋を建てることが決まって以来、仕事関係の何人かの人に、土地が与えられた経緯や完成までの道のりを話すと、皆が「岡本さんは運がいいね」とか、「社長は持っているね」と言いました。確かにノンクリスチャンの人たちから見たら、運のいい人に見えるかもしれないですし、そう言っていただけるのは、ありがたいことですが、私は、そう言ってくださる方々に「私が運がいいわけでもなければ、私が持っているわけでもないよ」。「持っているのは私の信じている神さまだから」と、皆さんに証しする機会が持てたことが私にとっていちばんうれしいことでした。
 すべての時を支配して、いちばん良いタイミングを持っておられる方、明日を知っておられる神さま、イエスさまを信じることのできた私たちは、何と幸いでしょうか。
 いつもお話しするのですが、母が明先生に出会うことがなかったら、私がクリスチャンホームに生まれなかったら、学歴もなければ、知恵もない、何の取り得もないような者が、今、こんな楽しい充実した人生を歩むことはできなかっただろうなと思います。
 
 そして神の備えられた三つ目は、「奇跡を起こす主のみわざ」です。
人生の中には様々な転機があり、選択を迫られる時がありますが、一つの選択で人生が変わってしまうこともあります。今は、知らない所であってもナビが道を示してくれますし、たとえ道を間違えても、少し引き返して戻れば目的地に着くことができます。『私たちの人生は、やり直すことはできても、引き返すことはできない』と、ある本に書いてありましたが、過去ではなく、今、神さまがあなたに何を語り、あなたに何をさせようとしているかをしっかりと祈り、受け取ることが重要ではないかということを最近教えられています。

 皆さんは、クリスチャンとして生活の中で数々の恵みを頂いてきたと思います。しかし、うれしい時がある半面、試練の時、苦しい時、いろんな困難にぶつかる時もあるでしょう。
 しかし、聖書の中にこんな素晴らしいみことばがあります。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ八章二十八節)

 神さまは、最高の祝福を与えてくださる方であるということです。

 プレイズでは、毎朝の朝礼で聖書を一章読んで、お祈りしてから仕事を始めることにしています。つい先日まで創世記を通読していましたが、そこであらためて数々のことを教えられました。
 その一つがヨセフという人物の生涯です。彼は、ヤコブの十一番目の息子として生まれ神さまを愛していました。しかしその半生は、決して「恵まれている」とは言えないものでした。父ヤコブには愛されていたけれど、兄たちからは妬まれ、ある時、エジプトに奴隷として売られてしまったのです。しかし、そんな時も主はいつもヨセフと共におられたとあります。

『ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来て、イシュマエル人の手からヨセフを買い取った。主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。』(創世記三十九章一~三節)

 ヨセフは神に愛され、成功を遂げ、祝福されていました。しかし、ポティファルの妻の陰謀にはまり、再び投獄されたりして、何度も苦難の道を通ることになったことが聖書に記されています。
 しかし、どんな時にも神は彼と共におられ、ヨセフを見捨てることはありませんでした。結果的には、皆さんが知っているように、ヨセフはエジプトの総理大臣にまで上り詰め、飢饉に見舞われた父ヤコブとその一族を救い出すことになったのです。最後の最後、兄たちがエジプトに来て、ヨセフの前にひれ伏した時に、ヨセフが言った言葉が書かれています。

『ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。』(創世記四十五章四~五節)

 そして、八節には、このように書かれています。

『だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。』

 断片的に見ると、なんてかわいそうな人生なんだろうと思われますが、振り返ってみる時に、その苦難もすべて神さまの計画であったことがわかります。
 神さまがヨセフと共におられたように、私たち一人ひとりをも見捨てることはありません。そして、みことばのとおり、見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともない、人にはできないみわざを現すことのできる方が、私たちの信じる神です。

 病気の方も大勢おられます。いつも祈っていますが、聖書にはこんなみことばがあります。

『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』(ローマ十章十一節)

『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』(ヨハネ八章十二節)

 私たちはこのみことばから、「主に信頼する者は、失望させられることがなく、いつも主が共におられて道を示してくださる」と知るのです。

 また、次のようなみことばもあります。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ三十三章三節)

信仰については、こうも書かれています。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』(ヘブル書十一章一〜三節)

 「信仰を持つ」と言いながら、私たちは試練の前で信仰が萎えてしまうような弱い者です。そんな不信仰な自分を、いつも悔い改めて祈ります。「私は信仰が強いから大丈夫」と言い切れる人は、ほとんどいないかと思います。しかし、主はそんな私たちの弱さを知っておられ、それを担ってくださっています。
 弟子たちにはこのように語っています。

『使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」』(ルカの福音書十七章五~六節)

 からし種とは、ごま粒の半分くらいの最小単位を表す本当に小さなものなのです。そんな小さな、からし種ほどの信仰があったら、大きな桑の木を動かすことができると主は言われています。このみことばを聞いて、皆さんどうですか。「アーメン!」と百パーセント受け取ることができますか。なかなか大変なことですね。
 しかし、信仰は大小ではなく、強い弱いでもなく、あるかないか、だけなのです。皆さんは、イエスさまは神であり、イエスさまは全知全能であり、神に不可能なことは一つもない、と信じていますね。イコール信仰を持っているということです。

 初めのみことばに戻ります。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(第一コリント二章九節)

 今日、皆さんと一緒に学んできたこと、一つは救いのみわざ、二つ目は祝福のみわざ、三つ目は奇跡のみわざです。それを主はすでに備えてくださっているということを信じて前進していきたいと思います。

 旧約時代にヨセフに働いた神は、新約時代に人となり、この地上で数々の癒やしや奇跡を現し、私たち一人ひとりのために十字架にかかり、死んでから三日目によみがえられ、今も生きているお方です。その旧約時代の神さまも、またこの地上に来られたイエスさまも、聖霊さまなる神さまも同じ神さまなのです。同じ主が私たちと共にいてくださり、私たちを導いてくださっているということを信じ、その神さまは、いつ何時でも奇跡を起こすことができる神さまであることを信じて、進んでまいりたいと思います。

 時に、私たちは諦めてしまうかもしれません。見える状況は、絶望的かもしれないし、神さまに見捨てられたと感じるかもしれません。しかし、そんな時でも、神さまは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」、そのようなものを、あなた、「神を愛する者」のために用意してくださっていることを是非覚えていてください。
 また、自分では祈ることすらできない時もあるかもしれません。しかし、教会は、神の家族であるといつも語られているように、多くの祈ってくださる兄弟姉妹があなたの周りにいることを忘れてはなりません。なんと心強いことでしょうか。
 そしてその神さまが、私たち一人ひとりに良きものを備えてくださっていることを信じ、信仰持って受け取っていくことができるように、神のわざが現されていくことができるように、喜んで主に仕えていくことができるようにと願います。そして、どんな状況の中でも見捨てることはない、皆さんを愛してくださっている神さまがおられます。たとえ、「先週、教会に行かなかったから・・・」、「祈っていないから、神さまは遠くに行ってしまった」と思うような時があるかもしれません。でもどんなに私たちが神さまを遠くに感じたとしても、神さまはあなたのすぐ隣にいて、あなたと共にいて、そして祝福を与え、恵みを与え、そしてあなたの祈りを聞いてくださっています。
主のわざが現されることを、信じて共に主の前に進んでまいりたいと思います。みことばは以上です。
 私たち一人ひとりは弱い者ですが、主によって選ばれたことを信じ、「主よ、私を愛してくださっていることを感謝します」、「私の祈りを聞いてくださる主に感謝します」、「主よ、私を導いてください」と、ご一緒に心を合わせてお祈りしましょう。

お祈りいたします。
 愛する父なる神さま、み名をあがめます。今日こうしてここに集められ、今、主を賛美できる恵みを心から感謝します。インターネットで礼拝されている方もいます。病の中にいる人もいます。また、問題にぶつかっている方もいるかもしれません。しかし、どんな状況の中にあっても、主は「あなたを見捨てることはない!」とおっしゃってくださっています。主のみわざが現され、主の栄光が現され、主の力が現され、今週、主が新しい扉を開いてください。そして問題が解決され、いやしが現され、日々喜んで主と共に歩むことができるように、一人ひとりをさらに強め導いてくださり、祝福と力で満たしてください。

 今から聖餐の時にあずかります。イエスさまは私の罪のために十字架にかかり死んでくださいました。そして三日目によみがえってくださった。今も生きておられる方です。私たちはこの聖餐にあずかる時、一人ひとりが自分自身を吟味し、主に喜ばれていないことがあるのであれば、主の前に悔い改め、祈り、そしてこのパンとジュースを私たちが飲むたびごとに、食べる時に、主の死を告げ知らせる者として今私たちはこの聖餐式を受け取ります。受け取る一人ひとりを豊かに祝福し、聖別し導いてください。主のみ名によって感謝してお祈りし、聖餐式にあずかります。アーメン。