「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
だから、あなたがたに害を加えるものは
何一つありません!」

2019年2月24日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカ10章17節〜20節

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

ハレルヤ!みなさんおはようございます。今の「オーバーカマーズ」の歌、素晴らしかったですね。本当に素直な歌です。先ほどの歌詞がケイタ君の本心だと嬉しいなと思いました。きっとそうだと思います。イエスさまと出会って、人生が変わったのですね。不確定な時代の中、何を信じていいのかわからない時代ですが、イエスさまだけが真理です。

先日、サラリーマン川柳を読みましたら、面白いのがたくさんありました。「ダイエット 決断するのは 満腹時」というのがありました。私もいつもそんな感じですけど。他にも、「効率化 進めて気づく 俺が無駄」とか、「父からは LINE見たかと 電話くる」、「正直で 忖度なしの 体重計」、「スポーツジム 車で行って チャリをこぐ」、「減塩の メニューを頼んで 塩かける」とかですね。
まぁこの世の中には、矛盾が満ちているわけです。しかしイエスさまは道であり、私たちと共に歩んでくださる素晴らしい神さまです。

祈っていただきたいのですが、今週、私は福島のほうで三日間、「霊的戦いセミナー」を開催させていただくことになっています。福島はまだまだ、復興には程遠いようです。しかし現地の教会が、一生懸命祈ってがんばっています。そこで霊的戦いのセミナーができるのは、すごく嬉しいです。
また明日、明後日と「霊的戦い専門過程」もあります。それを前にして、今日の午後、「霊的戦いセミナー」があります。大変興味深い内容なので、是非とも出席していただきたいと思います。雅也先生がリバタリアニズムについて教えてくれます。リバタリアンが増えているというのです。オバタリアンが増えているのは知っているのですが、リバタリアンって何だ?という感じですが、すべて自由だ!みたいな、神抜きの自由を謳歌する人たちが、世界中に増えています。これは大変危ない思想です。その枠組みを知ってとりなし、祈らなくてはなりません。
もう一つは、たいへん面白い内容です。初めは希望があるようで、最終的にどん底に落とされるような内容です。今の世相が良く分り、背後にある霊的戦いもよく分かると思いますから、お越しになって下さい。

また今週の金曜日から、韓国のチェ先生と教会の方々が来られます。来週の日曜日はチェ先生がメッセージを語ってくださり、賛美もしてくださいます。土曜日には、豊橋朝鮮学校で集りを持つことにしています。
不思議なことですが、十年ぐらい前から朝鮮学校のために、とりなし祈るように導びかれて、祈りの中で奇跡が起こりました。その学校に出入り出来るようになり、交わりを持つことができるようになりました。毎年、二、三回、持っています。前回のクリスマスには、校長先生も教会に来て下さいました。
たいへん良い交わりが続いているのですが、残念なことに、今年で閉校になるらしいです。名古屋の学校と一緒になり、豊橋は終わりらしいです。長い歴史に幕を閉じます。それで最後となります。
あの中で活動できるのは、日本中で私たちだけかもしれません。祈りは扉を開きます。祈りは、普通では入れない領域に入り込むのです。
なぜなら、私たちクリスチャンには、神から権威が託されているからです。案外クリスチャンになっても、ビクビクしている傾向があるのですが、決してそうではありません。神が与えてくださっている権威に気づくと、人生は、大きく変わります。

先ほど読んでいただきました、ルカの福音書十章十七節〜二十節は、今年、私が導かれている箇所ですが、大変励まされるところです。
もう一度読んでみたいと思います。ルカの福音書十章十七節〜二十節です。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

イエスさまはご自分と常に行動する、有名な十二弟子を持っていました。
しかしそれだけでなく、他にも弟子たちがいたようです。
十二弟子は聖書の中に名前が出ていますが、七十人の弟子たちの名前は記されていません。他の箇所には七十二人とも記されています。ですから数に変動があったのかもしれません。誰かどうなのか分からないのです。
しかしイエスさまは、七十人の弟子たちを二人ずつ組にして、ご自分がやがて行こうとされている村々や町々に、先に遣わされたわけです。
そのとき、イエスさまは七十人の弟子たちを怖がらせました。「あなたがたを村々、町々に遣わすのは、狼の群れの中に子羊を送るようなものだ。だから覚悟して行け!」みたいなことを言われたわけです。羊の群れの中に狼が一匹入り込んでも大変なことですが、狼の群れの中に羊が一匹入ったら何が起こるのか、火を見るより明らかです。それこそ鴨がネギしょって入ってきたみたいなもので、食われて当然です。びくついて弟子たちは出て行ったはずです。しかしその後、何が起こったのかと言ったら、弟子達には予想だにしないことが起こりました。
彼らが帰ってきて報告したことは、彼らは喜んで帰ってきたのです。「主よ、あなたのみ名を使うと、悪霊どもでさえ私たちに服従します!」と言いました。狼の群れとは、悪霊どもの軍団を指しているのですが、その中に入って行って、イエスさまの名前を使ったら、「悪霊どもが服従した」というのです。なんと、大勝利だったのです。その時、イエスさまは言われました。

『「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

十九節のみことば、本当にすごいです。イエス・キリストを神として信じるならば、皆、イエスさまの弟子です。
私たちの名前が聖書に記されているわけでもないけれど、全員、イエスさまの弟子です。ですから七十人の弟子軍団の一員とも言うことが出来ます。ゆえに、この言葉は私たちに対して、主が語られている言葉として捉えることができます。

前回もみなさんと一緒に朗読いたしましたが、十九節、ご一緒に自分に対してのことばとして、読んでみましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

『あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』なんと力強いことばでしょうか。
十七節に、

『「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」』

とありますが、このことばを正確に訳すと、「あなたのみ名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる。」となるそうです。
私たちがイエスさまの名前を使うと悪霊が私たちに従うイメージを持つのですが、正確な訳とは、「あなたのみ名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる。」です。
そして特に二十節、
『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

ということばは、結構、間違って理解されていることが多いです。悪霊が出て行っても喜んではいけないよ!あなたが救われていて、天国に行けるのだから、そのほうが大切だよ!と捉えることが多いのですが、それは間違いです。
当時のユダヤ人たちが「名前」をどのように捉えていたのかを知らないと、このことばを理解出来ません。このことは以前もお話しさせていただいたのですが、『ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』とは、「私たちの本質はイエスさまと同じ天にあるがゆえに、ヘビやサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する権威を使うことができる」すなわち、「あなたの本質はすでに天にある!」と言う意味なのです。あなたの本質は、イエスさまが属している天と同じ領域にあるがゆえに、「あなたが出て行くのは、イエスさまが出て行くのと同じ」で、イエスさまが行った時に起こることが、あなたに起こるのですよ!と告げているのです。
ということは、私たちは「イエスさまの名の中に含まれている」ということです。図にしたらこんな感じでしょうか。

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イエスさまご自身の中に、私ならば「滝元順」が含まれているがゆえに、私が町々、村々に行くのと、イエスさまが行くのと同じになるわけです。イエスさまによって起こる奇跡が、あなたにも起こるのですよ!ヘビやサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利できるのですよ!「あなたの名が天に書き記されている」とは、そのような意味です。
私たちがイエスさまと同じ天に属しているがゆえに、私たちの行動はイエスさまの行動そのものです。

それがゆえに、私たちもイエスさまのように、聖く歩み、聖霊に満たされなければいけないですね。
先週は「聖霊に満たされる秘訣」についてお話しさせていただきました。聖書の時代、人々は「神の宮」を宇宙とリンクさせていたということを、先日、お話ししました。
ソロモンが神の宮を造りましたが、それは全宇宙が神の住まいであり、神の宮は、小宇宙で、宇宙全体が主の住まいという概念を持っていたというのです。聖書はこう語っています。第一コリント六章九節、

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。』

新約時代は、私たち自身が神の宮なのです。私たちが聖霊に満たされると、全宇宙が主をほめたたえることにつながるのです。だから一人が賛美するのではないのです。私たちが聖くなり、聖霊の宮として主をほめたたえる時、かつて、神の宮は宇宙全体と関わりがあり、神の宮で主が賛美されるのは、「宇宙全体が主をほめたたえる」ことにつなげて考えられていました。しかし新約時代においては、今や、私たち自身が神の宮であり、私たちが聖霊に満たされ、主をほめたたえるなら、この地球はおろか、全宇宙が主をほめたたえるのです。そのような重要な役割が、私たち一人ひとりに与えられているのです。
私たちはイエスさまの名前の中に含まれていて、七十人の弟子たちのように権威が備わっていて、イエスさまが行うことと同じことが起こるのです。
またエペソ人への手紙二章四節〜六節、先週も読みましたが、

『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐ キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

私たちの神さまは愛なる神さまです。災いの神ではなくて、愛なる神さまです。父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さま、三つで一つ「三位一体」なる神です。
ヨーロッパの歴史の中に、「三位一体」という、キリスト教会が長い歴史の中で神から受けた啓示の遺産を、無にさせる考え方を見ることができます。さらに、アメリカの歴史を見ると、原点にあるのは「ユニテリアン」といって、天地宇宙を造った神は認めるけれど、イエスさまの神性は認めない、聖霊さまも認めない、そんな人たちが中心となって国の土台が据えられた事がわかります。
また日本のキリスト教会の原点にも、そのような考え方があります。

愛とは、コミュニケーションの中で成り立つものです。もしも神さまが一位格だけならば、どうして神は愛を体験できるのでしょうか。三つにして一つの神さまですから、その中に完全なコミュニケーションがあり、完全な愛が生まれるのです。ゆえに、私たちも神の愛を体験できるのです。案外、裁きの神さまと勘違いしている人たちが多いです。

神はヘブル民族に十戒を与えて、これを守りなさい!守ったら祝福、守らなかったら裁きだ!というように考えます。神さまはちょっと怖いなぁと、無視すると大変なことが起こると、びくびくしながら生活している側面があります。しかし、決してそうではないのです。
私もクリスチャンホームに生まれて、初めはそんな考え方を持っていました。神さまは怖い神さまだと。
でもよく考えてみれば、ヘブル民族は、律法をどこでもらったのかと言えば、エジプトから脱出し、紅海を渡って、シナイ山に行った時にもらいました。先に救いがあったのです。神はヘブル民族を先に救い出しておいて、それからヘブル民族の守りのため、その基準となる十戒を与えたのです。ということは、先に救いが先行しているのです。
ですから、「あなた方が救われたのは恵みによる」とありますが、恵みによって私たちは救い出され、今があることを忘れてはいけないです。

そして権威的には、『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』とあります。今や私たちのポジションは、よみがえりのイエスさまと同じ領域に座しているのです。
ですからサタンがわたしたちを訴えようとしても、先週もお話ししましたが、「異議あり!」と言うことができるし、天の法廷で勝訴できるのです。ゆえに、私たちに害を加えるものは何一つないのです。

前にもお話ししたことがあるのですが、東三河の地域は、日本のプロテスタント宣教史の中で、大変重要なパートを担っている地域です。
私の父は、旧北設楽郡津具村で生まれました。そこで明治時代に、日本で最初のリバイバルが起こりました。
今でも津具に行きますと、津具で三十年間牧師をしていた、村井与三吉さんの顕彰碑が残されています。

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この人がどうして救われたのかというと、日本に最初のプロテスタント教会を作った「ジェームス・バラ」が津具に来て伝道したことにより、津具の人たちが救われたからでした。

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先日ある方から資料をもらいました。それは「三河地方とバラ」という資料です。これは「日本伝道百年史」に記されていますが、
「ジェームス・バラは、幕末一八六一年十一月に宣教師として来日した。山崎氏がヘボンに医学を学んだ頃は、こうした時代背景があった。」とあります。津具村出身の山崎民平という人が、横浜に出て行ってヘボンから医学を学んだと言うことです。そして彼はクリスチャンになりました。その結果、津具村にバラが宣教に行くようになったのです。
「山崎氏がヘボンに医学を学んだ頃は、こうした時代的背景があった。バラは長野、岐阜、愛知県地方を伝道区として巡回していたが、一八八五年、明治一五年、バラは五十歳の頃と思われるが、瀬戸伝道を経て、バラ先生は三河地に入り、奥三河、津具村に向かわれた。途中、三河三景の峠を越えられる時、この三つの国を与えたまえと熱心に祈られた。」とありました。

今私たちがこうして、信仰を持っているのも、先人たちの祈りがこの地にあったからです。幕末から明治にかけて、最も厳しい時代に、この地方に入って宣教するのは並大抵のことではなかったはずです。
主から与えられた権威と共に、それを信じて入ったゆえに、津具村にリバイバルが起こり、そこから賀川豊彦も排出され、その後、父もその村に生まれ、東京でクリスチャンになりました。しかし、滝元家は津具村のリバイバルに反対していたそうです。父は反対派勢力の中に生まれたのですが、その中から、リバイバルの働きが再び生まれ、進んでいることは、大きな神の摂理です。
それぞれの時代の人たちが、神から与えられた権威を信じて出て行ったことに、鍵があったのです。
私たちも今、任されている地域に主が与えてくださる権威を信じて出て行くことが重要ではないかと思います。

私たちは、「被造物の管理人」として造られた、とお話をさせていただいていますが、人間がなぜ地上に存在しているのか。それは、神が造られた被造物を管理する管理人という役割があるからです。

実は、何年か前にもお話しさせていただきましたが、マタイの福音書の八章、九章を読んでみますと、イエスさまが行われた「十の奇跡」が紹介されています。また家に帰ったら、読んでいただきたいと思います。
マタイには、イエスさまがメシアであることをユダヤ人たちに証明する目的がありました。マタイの福音書は、「イエスは救い主、メシアである」ことを証明するために書かれました。
そのような目的の中、この十の奇跡で、「五番目から七番目」の三つの奇跡は、特に、イエスさまが「被造物の管理人」として描かれているというのです。
この三つの奇跡は、取りも直さず、私たちクリスチャンに与えられている権威、権限の中で起こる奇跡なのです。そんな視点で、マタイの福音書八章、九章を読んでみて下さい。

五番目の奇跡とは、何かといいますと、それはイエスさまがガリラヤ湖を渡る途中に、暴風に出会った時のことです。マタイの福音書八章二十三節〜二十七節。

『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』

これはよくご存じの奇跡の紹介です。八章二十三節以前の、八章十八節〜二十節を見ますと、こんなことが記されています。

『さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」』

イエスさまは人に仕えてもらうためにこの世に来られたのではなく、「人に仕えるため」に来られたのです。そしてイエスさまには、「枕する所さえなかった」というわけです。
しかしマタイは巧みな文学的手法を使って、次の文章を強調するために、このような表現を引用したと言われます。
イエスさまは枕する所もなかったのですが、その後、なんと舟の中で眠っておられます。枕する所あったのです。連続して読むとちょっと矛盾を感じます。これは何を語っているのかというと、自然界の支配者であり、管理人であるイエスさまは、暴風荒れ狂う、命の危険さえ感じるただ中が、なんと枕する場所になるということです。
これを私たちに置き換えたらどうでしょう。私たちもイエスさまから権威が託されていますから、人生の中で大波や大嵐が襲ってきて、あわや沈没するような、どうなってしまうのか!と、手に汗握るような場面でも、枕することが出来るのです。弟子たちのように、右往左往するのではなくて、イエスさまが嵐のただ中で枕して眠っておられたように、余裕ある権威をあなた方にも与えていると教えています。
私たちもそうなりたいですよね。人生の大嵐の中でも、イエスさまが眠っておられたように、平安に眠ることができたら、どんなにか幸いでしょう。あなたも被造物の管理人として出て行きなさい!と主は言われます。荒れ狂う嵐に対して、イエスさまが、「黙れ!静まれ!」と叫ばれたら風と波が止まったのです。これはイエスさまが自然界の管理人であった証拠です。

この権限は七十人の弟子たちにも授けられていたはずです。七十人の弟子たちはイエスさまから命じられて、イエスさまがやがて行かれる町々・村々に行ったわけです。イエスさまは一緒には来てくれない!ひどいな〜という印象を持って、びくびくしながら二人で出て行ったのかもしれません。しかし弟子たちはイエスさまの名前の中に含まれていましたから、イエスさまが共に行ったのと同じ結果だったのです。
そのとき、イエスさまはこんなことを語られています。先ほどのルカの十章の十七節、十八節を見ると、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。』

イエスさまはどうも、弟子たちと一緒に行動されておられたみたいです。弟子たちが村々・町々に入って行ったら、「サタンが天から落ちた」のを見た、と言われたからです。
このことについても、先日お話しさせていただきましたが、サタンが天から落ちるのは、「創造の初め」と「世の終わり」であって、なぜイエスさまが、働きのただ中でサタンが天から落ちるのを見たと言われたのかに関して、イエスさまは、「時」を、過去も現在も未来も、すべて「今」として捉えておられたというのです。ある神学者によれば、イエスさまの時概念を「全時的今」と表現しています。イエスさまは、過去も未来もすべて「今」として扱っておられたのです。
ですから過去も現在も未来も、あなたに害を加えるものは何一つない!ということが成り立つわけです。私たちにも、主は、「時を越えた権限」を託されているはずです。
そもそもイエスさまが最初に起こされた奇跡は何であったかというと、水をぶどう酒に変える奇跡でした。それがヨハネの福音書二章六節〜十一節に記されています。
婚礼の席でぶどう酒がなくなってしまい、マリヤはイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました。」と告げました。すると、「水がめに水を満たしなさい。」と命じられたのです。
しもべたちはイエスさまの指示に従い、水がめに水をいっぱいにしました。その時にイエスさまは言われました。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
すると、その水がぶどう酒に変わっていたのです。それも「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と言われるくらい、「良いぶどう酒」に変わっていたのです。
これを、どのように考えますか?水がぶどう酒に変わったのを、昔、水に粉末の粉を入れるとジュースになるような感じで、イエスさまが最良のワインの素を風呂のバブのように投げ入れて、ぶどう酒に変わったようにイメージしますが、これは「時間の奇跡」だというのです。
私も気づかなかったのですが、ある牧師先生から教えてもらったのですが、これはイエスさまが、「わたしは時間も支配できる」ことを伝える奇跡であったというのです。
普通、良いぶどう酒ができるには、仕込んでから「十五年から三十年」ぐらいかかるのです。それを、水をぶどうのジュースに変化させ、発酵、熟成させて、ぶどう酒になるには何十年かかるのか分かりません。それを瞬間的に時間を縮めて、「良いぶどう酒」にしてしまったのは、まさに「時間の奇跡」だというのです。イエスさまは時間を支配されるお方であり、そのような権限を持っておられた証明です。

今の時代、物理学が発展し、時間とか空間も物質だということが判明しました。以前、時間とか空間は絶対的なものであると信じられていました。ニュートンという物理学者は十七世紀に、時間、空間を絶対時間とか絶対空間と表現し、決して変わらないものと定義しました。そして、みなそう信じていたわけです。
しかし二十世紀になって、この考え方を真っ向から否定し、そうではない事を証明したのがアインシュタインでした。時間と空間は物質だと。相対的に変化するものだと、空間も物質だからたわむ事を証明したのです。
聖書は空間が幕のようなものだと、すでにイザヤ書四十章で告げています。我々が知識を得る前から、神の知識はその事を告げていたわけです。

私たちは過去も現在も未来も越えて、主と共に働くことができるのです。ゆえに未来を恐れることはないし、過去の失敗も、イエスさまが過去を今のように扱ってくださるわけですから、それさえも管理できる権限が与えられているはずです。

最近、この地域に台風が来なくなったのも、台風に「主を賛美せよ!」と宣言するようになってから、あまり来なくなりました。すべての被造物を賛美させたい!というのが主のみこころですから、私たちが被造物に対して、主を賛美しなさい!と命じるなら、七十人の弟子たちの延長である私たちにも、そのような権限が与えられているはずです。その事を信じ疑わずに出て行くならば、恐れることは何もありませんし、「あなたに害を加えるものは何一つない!」ということです。

六番目の奇跡は、「悪霊を追い出す権威」をイエスさまが持っておられたことです。マタイの福音書を読み進めていきますと、マタイの福音書八章二十八節〜三十二節、

『それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。』

イエスさまがゲラサという町に行って、レギオンという悪霊の軍団を追い出したことは、マタイ、マルコ、ルカ、三福音書の記者がレポートしている、最も大きな奇跡の一つです。
イエスさまは悪霊を追い出す権限をお持ちだったのですが、弟子たちに与えた最も大きな権限も、悪霊を追い出す権限でした。私たちも、この権限を有しているということです。

ここで悪霊どもが何と語っているのかを見る事はとても興味深いです。二十九節に、

『すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」』

マルコとルカの福音書を見ると、墓場に住んでいた男が一人であるかのように記されています。しかし、ここでは「二人」となっています。
なぜかというと、実際、墓場に何人いたのか分かりませんが、ユダヤ人には「二人」というのが重要でした。二人の証人がないのなら、事実として確認されなかったからです。だからマタイの福音書がユダヤ人に対して書かれたものということが、よくこの表現から分かります。悪霊どもが、「まだその時でもないのに私たちを苦しめに来られたのですか。」と言っているのは、悪魔・悪霊どもが一掃されるのは世の終わりである事をよく知っていたからです。イエスさまが再臨される時に一掃されるのです。その時までは、悪魔・悪霊どもはこの世で自由に働くことができる事を知っていたのです。

現代の世界を見ればよく分かります。悪霊どもが自由に働いています。なぜならイエスさまが帰って来られる時までは、彼らは地球で働くことができるからです。だからなんとか、イエスさまの再臨を先延ばししたいと願い、真剣に働いているのだと思います。
しかし、「時でもないのに」イエスさまは、悪霊を追い出したのです。ゆえに悪霊どもはクレームをつけているのです。なぜイエスさまは、時でもないのにそんなことができたのでしょうか。それは先ほども触れたように、イエスさまは「過去も現在も未来も、すべて今」として扱うことが出来たからです。
やがて未来に、世の終わりの時にそういうことが起こるであろう事柄だって、イエスさまにとっては「今」として、扱うことができたのです。

多くのクリスチャンたちが、時が来ないと悪魔・悪霊どもは一掃されないと考えていますが、イエスさまと同じ権限、権威があるならば、「今」、天から落とすことができるのです。なぜならば、イエスさまは、過去も現在も未来も、今として扱う権限を持っておられるからです。
ですから、レギオンにとっては、びっくりだったかもしれません。まだ世の終わりが来ていないのに、なんで俺たちがやっつけられなければならないのか・・・。これはイエスさまの中に、時間を越える権威があったからです。

実は、イエスさまがガリラヤ湖を渡っていく時、大風が吹き、ゲラサに着いてレギオンに支配された男が出てきたのも、悪霊どもが、「豚の中に送ってください!」と懇願したのも、なにげなく読んでしまいがちです。しかし、当時の宗教観や、人々の持っていた霊的世界観を調べると、これらがどのような意味があったのか分かります。

これも以前にお話ししたことがあるのですが、ゲラサはどういう町だったのかというと、考古学的に調べると、ヘレニズム時代にできたギリシャ風の町でした。ゲラサには、ギリシャ神殿があって、ギリシャ神話の豊穣の女神デメテルが祭られていました。

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マルコ四章三十九節、

『イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』

とありますが、この風も怪しいです。この風はイエスさまに「来るな!」と言っているような風です。豊穣の女神デメテルは、自然界を支配し、気象を操る女神とされていました。デメテルの背後の悪霊どもが関わって、風や波が起こったとも考えられます。なぜならゲラサの人々が、デメテルという偶像の背後に働く悪霊どもに、管理権を譲渡してしまっていたからです。本来は人に委ねられている被造物の管理権を、悪魔に譲渡しまった故に、気象変化をレギオンに操らせることになったと考えられます。
先ほど、「大暴風」という言葉が出てきたのですが、大暴風という言葉は、マタイだけがおもしろい表現を使っています。それは、大暴風とは本来、素直に訳すならば「大地震」となります。マタイ八章二十四節、

『すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。』

これは「セイスモス・メガス」というギリシャ語が使われていて、「大暴風」と訳すよりも、「大地震」と訳したほうが素直です。他の箇所は全部、「地震」と訳しています。ということは、もしかすると、この時に大地震が起きて津波が来たのかもしれません。

日本は地震と津波の国ですが、いつ何時地震が起きて津波が起きるのか分かりません。先週は北海道で震度六弱の地震が起こりました。六弱って、どんな地震でしょうか。
この地域は四十年くらい前は、東海沖地震で最も危ない地域と指定されていたのですが、この四十年くらいで震度五くらいの地震が一度ありましたが、それ以上の地震はこの地域の人は体験していません。だから地震の怖さって分からないのです。震度六とは相当すごいらしいです。阪神大震災などを経験した人たちは人生が変わったと言っていました。
感謝な事にこの地域には、あまり地震がありません。でも、明日起こるか分かりません。

しかし、私たち管理人が大地に向かって、「黙れ静まれ!、大地は動くことはできない!」と宣言するなら、地震からも守られる可能性があります。切実な問題ですから、私たちは管理人として、朝起きたら大地に向かって、「大地よ!よく聞け!主のみ名によって賛美しろ!しかしジャンプするな!」と、大地がはねないように管理しなければいけないと思います。
この四十年くらい地域が地震から守られているのは、このようなことに気づかされて祈るようになったからかもしれません。今後も祈りの手を緩めないで、土地が守られるように宣言し、祈り続けなければいけないと思います。

実はデメテルとは、気象を操る女神として地域に君臨していたわけです。その結果、暴風雨が起こったのです。もしかしたら大地震も起こったのかもしれません。ということは、気象変化の背後に霊的力が関わる可能性があるということです。
管理人たちである私たちは、敵に立ち向かい、すべての被造物は主のものですから、主を賛美するように宣言しなければいけないです。

そして豚が出てきますが、豚、二千匹ほどが湖になだれ落ちて溺れ死んだとあります。デメテルという女神が神殿に祭られていたことを前提にしてこの箇所を読むと、興味深いことが分かります。
デメテルは聖獣を持っていました。その聖獣とはなんだったかというと「豚」でした。

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私たち日本人は豚は滑稽な動物で、とんかつの材料くらいにしか考えていませんが、中近東においては神の使いでした。
特にデメテルは、豚を聖獣としてはべらせ、豚も礼拝の対象だったわけです。だから、「あの豚の中に我々を送ってくれ。」というレギオンの願いは、「私たちを追い出さないでください。」と同じ意味だったわけです。デメテルと豚は、常にセットだったのです。ゆえにイエスさまは、その両者を処分されたのです。
動物は本来、神の被造物であり、主を賛美する存在であるにも関わらず、日本ではどうでしょうか。日本の偶像の背後に、多くの動物神がいます。動物たちがうめき、叫んでいます。私たちは彼らを自由にするために、管理し、働かなければいけないです。

三つ目にイエスさまが行われた奇跡は、「罪の赦しの宣言によるいやし」でした。これは本当にすごいです。マタイの福音書九章一節〜八節、

『イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。』

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」なんて、人では絶対に言えないです。これは神以外にないです。
しかしイエスさまは中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と宣言されたのです。周りの人たちは騒然としたのです。人の罪を赦すなんて、神以外にはできない。特にユダヤ人はその事をよく知っていたわけです。けれども、「あなたの罪は赦された。」なんて言う、この男は何者だ?
イエスさまは、人の罪に関して、「あなたの罪は赦された。」と宣言する権限をお持ちだったのです。
人々はそれを見て、「こんなすごい権限を人にお与えになった神をあがめた。」とあります。実は、これが私たち、弟子たちにも与えられている権限だということをご存じでしょうか。
ヨハネ二十章の所を見ますと、二十一節〜二十三節に、このようにあります。

『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」』

私たちが誰かの罪を赦す宣言をすると、その罪が消えるというのです。残したらそのまま残るというのです。イエスさまが「あなたの罪は赦された!」と言われて、この中風の人が立ち上がったように、私たちも罪を赦す宣言の権限まで与えられているというのです。すごいことじゃないでしょうか。私たちクリスチャンに、こんな権限が与えられているなんて、ちょっと信じられません。でも、あなたの罪は赦された!なんて言ったら、「何者だ?」と言われそうですが、それほどの権限が主を信じる者たちに与えられているのです。
それも、聖霊の力を受ける時、この権限が与えられるということではないでしょうか。イエスさまが弟子達に「聖霊を受けよ。」と言われて、罪の赦しの権限があることを語られたからです。

裁判の時に裁判官は、罪の赦しを宣言する権限を持っています。「あなたは無罪です!」とか、「有罪です!」と宣言する権限を持っています。「なんでおまえがそんなことを言えるんだ?」と聞けば、国の権威が裁判官の背後にあるからです。国と法律の権威があるから、法律に則って、被告に対して、「無罪!」とか「有罪!」とか宣言できるのです。

私は先々週、福井に行ったのですが、福井刑務所に行きました。そしてある人に面会しました。それは誰かというと、みなさんもご存じかもしれませんが、今から十数年前に豊川で二歳の子どもが誘拐され殺された事件がありました。その容疑で田辺雅樹さんという方が捕まりました。そして彼は、第一審では無罪になりました。しかし二審で判決がくつがえって、有罪になり、十七年の刑を受けて刑務所に服役しています。
第一審で無罪になった時、ある人が彼を見つけて教会に連れて来ました。そして彼はイエスさまを信じ、バプテスマを受けたいと言っていました。しかし第二審で有罪になって十七年の刑です。
そのことに関し、冤罪だという見方が強く、全国ネットのテレビで何度も、これは絶対におかしい!と報道されました。つい最近も、再審請求が出たのですが、残念ながら却下されました。本当に悲しいです。
彼は本当に気の弱い男で、事件が起こった当日、事件現場のゲームセンターの前で寝ていたのです。奧さんと喧嘩して、家から追い出されて車の中で寝ていたのです。警察に、「あんた何してるの?」と聞かれて、「寝ています。」と答えたら、それで終わったのですが、確か九ヶ月後、彼は捕まりました。何の証拠もないのに逮捕されたのです。ただ自白だけです。真実が明らかになるといいと私は思っています。
彼はイエスさまを信じ、洗礼を受ける直前に刑務所に収監されました。その後、私たちも毎週、礼拝メッセージなどを送ってあげたり、いろいろ支援させていただいています。彼が大分刑務所にいた時期も面会させていただきましたが、今回、福井刑務所に移ったと報道されていましたから、面会させていただきました。
普通に行っても刑務所では、なかなか面会させてくれません。しかし、私はそういう時に交渉するのが結構、得意です。今回、彼とプラスチックの厚い仕切り壁はありましたが、ぼつぼつの穴が開いている、テレビでやっているのと同じです。一緒にお祈りして、早く真実が明らかになるように!と祈りました。みなさんも是非、祈って下さい。

この地上においては、正しい裁判がなされているかどうかは、本当に疑問です。しかし、神の計画の中、彼も過ごしているのだと思います。福井刑務所は更生・復帰のための職業訓練所なので、釈放されるといいなと思っています。

裁判官には罪に定めることも、赦すこともできる権限があります。それは国からそのような権限が付与されているからです。
私たちも同じです。神から権限が与えられているゆえに、罪の赦しの宣言をすることができるのです。
日本の大地を見れば、被造物は人の罪のゆえに、うめいています。霊的眼鏡で見れば、真っ黒かもしれません。そこに私たちは罪の赦しを宣言して、新しい回復を宣言して、「主を賛美しろ!」と命じたら、自然界に置かれた罪は、人の罪の結果ですから、赦されるはずです。
私たちが主の名によって、「赦しを宣言します!」と宣言して、彼らに主の名をほめたたえさせるよう、働くことができるのです。

この地域は設楽原の戦いで、血に彩られ、土地はうめいています。この近所、結構、おばけなんかも出るわけです。なぜ出るのかというと、偶像礼拝、祖先崇拝のゆえです。
これら、日本人が犯している罪に対して、「その罪を赦します!」と宣言し、「土地よ、主を賛美せよ!」と命じることができるはずです。

イエスさまが持っておられた三つの権限、「自然界を管理する権限」、「悪霊を追い出す権限」、「罪の赦しを宣言する権限」、この三つは、七十人の弟子たちに与えられていたものと同じであると理解できます。それは同時に、私たちにも与えられているということです。
ですから私たちは恐れることなく、出て行って、勝利を宣言する者であるのです。

時を越えて、過去も現在も、やがて来る未来も今として扱い、サタンを天から落とすこともできる、時でもないのに悪霊どもをやっつける権限が与えられている。このことを深く認識して、今週も、主のために働いていきたいと願っています。
その権限を確認する、聖餐式を今から始めます。一言お祈りと共に聖餐式に移っていきたいと思います。

ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。私たちクリスチャンには絶大な権限が与えられていることを感謝します。一人ひとりが恐れずに出て行って、イエスさまが持っておられた権限を行使することができますように。
イエスさまは十字架にかかって、肉を裂き、血を流されました。それを象徴し、また、よみがえりのイエスさまと一つになる聖餐式を厳かに守ることができますことを、心から感謝します。
聖餐式のひとときを祝福してください。よみがえりのイエスさまと一つになって、私たちは出て行って、福音を伝える者となれますように。すべての被造物に解放を宣言できるよう、導いてください。尊い、イエスさまのみ名によって、聖餐式を始めます。アーメン。