「彼らに主の名をほめたたえさせよ!
〜時を取り戻せ!パート2〜」

2019年1月27(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ書5章15節〜20節

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

ハレルヤ!みなさん、おはようございます。共に礼拝を守ることができる特権を心から感謝します。
二〇一九年も、すでに一ヶ月が過ぎようとしています。「光陰矢のごとし」と言いますが、あっという間に時は過ぎていきます。私は年の始まりから忙しくて、二週間ちかく、こちらの礼拝を休ませていただき、他教会で奉仕をさせていただきました。

私はリバイバルミッションの事務局に、「この期間はたぶん、休みを入れるから予定は入れないでね。」と頼んでおいたら、「この期間だけは大丈夫。」と勘違いしたようで、なんと十一日間、それも家内と二人で、行商のような旅でした。北関東を回らせていただきました。しかし、本当にすばらしい集会を、どこでも持たせていただきました。とりなしを心から感謝します。
今回は「リバイバル聖会」というタイトルで廻らせていただいたのですが、霊的戦いセミナーを多くの場所で持たせていただきました。群馬県では四十名近くの牧師先生方やリーダー達が集まってくださり、一日、八時間のセミナーをやりました。その他は一日に二回くらいの集会がありましたが、無事にやり終えることができました。背後の祈りをひしひしと感じながら、奉仕できることは、本当にすばらしいです。最前線に出ていくといつも感じます。心から、お祈りを感謝します。

今年の題は、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019」です。今年もすべての被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言し、そのために働いていきたいと願います。そのためには、私たちが常に賢く生きなければならないです。
「賢い」とは、一般世界におきましては「ずる賢い」というのが賢いという定義かもしれません。しかし、私たちクリスチャンはそうではありません。ここに賢く生きる秘訣が示されています。
最初に、『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』と述べています。これは二千年前の記述ですが、二千年前でも、悪い時代だと断言されています。もしもエペソ書の記者が現代を描写するならば、「超悪い時代だからです。」と、表現するのではないかと思われます。このような時にこそ、私たちは機会を十分に生かし、用いなければならないわけです。

そのためには、神のみこころは何であるのかを、よく悟れと言うのです。現代は情報が多い時代です。何が真実なのか、偽りなのか、本当に分からない時代です。主のみこころを捉えないと、知らないうちに悪い道に引き込まれてしまいます。私たちは、霊的戦いの視点を持って、常に歩む必要があります。

今日の午後は、「霊的戦いセミナー」があります。是非とも、ご出席ください。一つのテーマは「経済と霊的戦い」です。その中で、日本の電力事業をとりあげます。電気がなければ、生きることができません。しかしこの電気事業の背後にも、霊的戦いがあります。
近頃、メガソーラーだとか、ソーラー発電などがいっぱいあります。二〇一一年の大地震の後、どんどん広がっています。しかし、そのような中にも経済と霊的戦いの原理は働いています。身近な話題ですから、今後の電力事業の展望なども含めて、聞いていただきたいと思います。
私は、サブタイトルに掲げた「時を取り戻せ!」という、「時間」に関して、みなさんと一緒に考えたいと思います。

ここに述べられているように、『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』とあります。酔っ払いは酒に支配されて、悪い判断をしてしまいます。しかし、聖霊に満たされ、聖霊の支配があるならば、正しい判断を下すことが出来ます。そして、この悪い時代を生き抜くことができます。
十九節から、

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

ここでは、「賛美と感謝」が一体として述べられています。賛美は賢く生きるためのツールの一つです。いや、ツールなんて言ってはいけません。神をほめたたえるならば、主は喜んで賢く生きる力を注いでくださるはずです。
同時に感謝が大切です。どのくらい感謝の気持ちを、主に持っているでしょうか。自分自身のことを考えても、「あまり感謝は多くないな・・・」と反省します。神さまに要求だけはしますが、感謝が少ないのです。すべては主から与えられているわけですから、感謝しなければいけません。

クリスマスの時にも話しましたが、スペインの小話です。一人の男がいて、その男は自分に自信がなく、希望も持っていませんでした。いつも自分は駄目だと思っていたようです。彼は、この世の中で大切なものは、金しかないと考えたそうです。それで金だけを求めて過ごしていました。
そんなある日、彼の前に天使が現れたのです。天使は彼にこう告げました。「あなたに百万円あげますよ!」
彼はたいへん喜びました。どうでしょうか、みなさんの所に天使が現れて、「百万円あげます。」と言ったら、「やった!」という感じじゃないですか。「日頃の祈りが応えられた!」みたいな感じですよね。
すると天使がこう語りました。「百万円あげますが、その代わりに、あなたの足をください。」
天使には足がないのかどうか知りませんが、足をくれと告げました。すると男は言いました。「足を百万円?冗談じゃない!この足がなかったら、俺は働くことはできない。百万円で足を譲ることなんて、絶対にできない!」と断りました。
すると天使は、「そうですか。では、あなたに一千万円あげます。その代わり、あなたの目をください。」と言いました。そうしたら男は、「えっ!?一千万円で目を渡すことなんかできるもんか!目を失ったら、わしのかわいい女房や、子どもたちの顔を見ることができなくなるじゃないか!一千万円で目を譲ることなんか絶対にできない!」。
すると天使が、「じゃぁ、一億円あげますよ!一億円あげますから、あなたの手をください。」と言いました。すると男は、「冗談じゃない!手がなくなったら、働くことができなくなる!一億円で、手をやることはできない!」と断ったそうです。
そうしたら天使が、彼の目をじっと見つめて、こう語りました。「あなたは、お金に代えられない、高価なものを多く持っていますね。そしてそれらすべてを、あなたはただでもらいましたよね。」と言って消えたというのです。

私たちも考えてみれば、お金には換算できない、多くのものを神さまから頂いています。しかしあまり感謝できないのです。どうでしょうか、天使があなたに現れて、「一億円あげるから、あんたの目をくれ、手をくれ、足をくれ。」と言ったら、やはり、断ると思います。
すべての持ち物は、主から与えられています。心からの感謝を献げることは大変重要です。
今週、また今年、『いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』とありますから、すべての事柄を、イエスさまの名によって、「父なる神さま!感謝します!」と感謝してください。感謝する時、聖霊の油は注がれ、賛美は溢れ、賢く生きることができるのです。

このみ言葉の中で、特に私の心に留まっているのは、『機会を十分に生かして用いなさい。』という下りです。『機会を十分に生かして用いなさい。』と訳されているところは、ギリシャ語原文で見ると、「時を贖え!買い戻せ!」という意味になります。

前回も、このことを少しお話しさせていただきましたが、ギリシャ語には時の概念が二つほどあり、それは「クロノス」と「カイロス」です。
しかしながら、クロノスもカイロスも、いずれもギリシャ神話の時間を支配するという「時間神」です。聖書は、クロノスとかカイロスという言葉を使っていますが、元々の意味は、ギリシャの世界にはびこっていた、ギリシャ神話の神々からきたものでした。

私たちは言語を気軽に使っていますが、どこの国の言語でも、その国の文化とか、習慣とか、特に、宗教的影響を強く受けています。
私たちは、「神さま」と言いますが、一般的に「神」とは、「八百万の神々」を日本人ならイメージします。しかし私たちクリスチャンは、「まことの神さま」という意味で使っています。
先ほども、「御霊に満たされなさい」とありましたが、「御霊」という用語は、日本においては「先祖の霊」を指します。御霊祭りとかあります。結構、キリスト教用語にも、異教社会の影響が強くあります。ゆえに、言葉も取り戻すスタンスが必要です。

バベルの塔で罪を犯す以前の人類の言語は、「一つの言葉」でした。それは強力な言語であったと思われます。なぜなら神さまは、言葉で全宇宙を創造されたからです。その一部を、人に渡したわけですから、人類が最初に使っていた言語は、本当に強力なものだったと思われます。
それがだんだんと弱められ、今があるわけです。どうして弱められたのかと言えば、さまざまな悪しき習慣や、罪の文化が入ったからです。

話は変わるのですが、今年は、日本は大きな転換の年です。五月に天皇が変わると言う意味で、重要な年です。その後、大嘗祭に至るまで、さまざまな神道の儀式があります。それはどういう儀式かというと、今まで百二十五代続いたといわれる、そんなの嘘だと思いますが、その霊を一身に受けるという儀式です。その集大成として大嘗祭が行われます。

現在、日本の流れが昔の国家神道に向かっていると指摘されています。私たちクリスチャンが、時代をしっかりと見抜いたら守られますが、時を逃すと、クリスチャンにとって困難な時代が来るかもしれません。

日本の教会は、八十年ほど前は、国家神道の中で大きな迫害を受けました。日曜日、クリスチャンが礼拝を持っても良かったのですが、十字架の上に神棚が設置されて、神棚を拝んで、宮城遙拝をして、それから礼拝を始めさせられたのです。特高という警察が来て、それを毎回チェックしていました。
牧師が神棚を拝んで、宮城遙拝をして礼拝を始めるのを、信徒たちは見たくなかったのです。だから礼拝に皆、遅れてきたそうです。その文化が今でも続いていると言われますが。いずれにしても大変な時代だったのです。
国家神道の体制の中では、讃美歌や聖歌にも、国家神道的な理念が入れられました。この賛美歌知ってますか?昔、私はこの歌が好きでした。「父、御子、御霊の大御神に。」という歌でした。なぜなら、これが歌われると礼拝が終わったからです。しかし、大御神とは何の意味かというと、アマテラスのことです。今では歌詞を変えて歌っている教会も多いです。

それからこの教会でも時々、歌いますが、この歌を知っていますか?「みなささげまつり、炎きたり、恵みをたたえよ、みいつをほめよ」と歌われます。「みいつをほめよ」って分かりますか?私も分からなかったのですが、「みいつ」とは何かというと「天皇」のことです。「恵みをたたえよ、天皇万歳」という意味です。
国家権力は、賛美の中にも細工をして、「天皇に命をささげます!」という概念を入れたわけです。これらも全て、言語の中でなされたことです。

これから日本が右傾化して、国家神道体制になってしまうと、ザワメキの中にも天皇崇拝の言葉を入れるよう、強制されるのかも知れません。しかし、命をかけて戦うと思います。そういうことも起こりえるのです。すでに日本の歴史の中で起こっていますから。
言葉は大切なものです。私たちは神の言葉のために、戦わなければいけないのです。

ギリシャ語の中には「時」の概念が二つあって、「クロノス」と「カイロス」でした。元々は時間神でしたが、当時は、時間そのものを表す言葉として使われていました。
「クロノス」という概念は、時の流れです。私たちも時の流れの中で生きています。
しかし「カイロス」とは、その中に現れる「特別なチャンス」みたいな瞬間です。ギリシャ人たちは、カイロス神は、時間の流れの中にチャンスをくれると考えていました。
この理解は、あながち間違った理解ではなかったわけです。聖書がそのまま、その概念を取り入れていますから。私たちの神は、時間の流れの中に、「神の時」を与えて下さるわけです。

私たちが神の時を、ジャストミートすることができたら、神のみこころに結びつくわけです。しかし多くの場合、外れるのです。その結果、おかしな方向に行ってしまうのではないかと思います。
今年はクロノス的な流れの中、神が点々と現してくださるカイロスを、ジャストミートして、しっかりと捉えることができるなら、賢く生きることができるはずです。

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悪魔の働きはどこにあるのか。それは、神の時をちょっとずらす働きをしているのではないかと思います。

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日々、聖霊に満たされ、賢く生きるなら、時をずらされないはずです。
しかし聖書のすばらしいところは、一度外してしまったカイロスでも、取り戻すことができるということです。
『機会を十分に生かして用いなさい。』とは、英語では、”Redeeming the time, because the days are evil.”とあります。タイムは「カイロス」が使われています。特定の時は、買い戻す、もう一度勝ち取ることができるのです。
宗教改革者のカルビンは、悪魔の手から神の時を贖うと解釈したと言われます。悪魔が奪った神の時をもう一度取り戻すのです。賢い人とは、時を取り戻すことができる人です。
今年、今まで失った神の時を取り戻して、賢く生きようじゃありませんか。

神の働きはどこにあるのかというと、最近よく、「主の回復の時が今この地に訪れ・・・」と歌っていますが、「失ったものを回復していく」という、重要な働きです。

新年に、ここで「リバイバル聖会」が行われました。ひさしぶりに山崎ランサム先生が来てくださって、メッセージを語ってくださいました。その中で一冊の本が紹介されていまして、私も興味があったので取り寄せて読んでみました。それは、「創世記一章の再発見」という本でした。

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ジョン・ウォルトンという、旧約聖書の専門家で、この方は特に古代イスラエルの文学とか、その他、文化的文脈に大変造詣の深い人です。聖書は一義的には、当時の人々に分かる形で書かれたわけですから、当時の時代的背景をしっかり捉えないと、現代の世界観で読んで、解釈がおかしくなる傾向があります。興味があったら、この本、読んでください。
その中で、聖書が、当時、どのような意図で書かれたのか、素の状態を明らかにして、その後、現代の視点を付け加えましょう、という提案です。

昔、学校で学んだと思いますが、「5W」という、「どこで、誰に、いつ、何のために、なぜ」という法則があります。聖書も、どこで、誰が、いつ、何のために、なぜこのような文章を書いたのかを、まずは再現してから、それを中心軸に、様々な議論を派生させたほうがいいのでは、という提案です。

そんな中、「初めに神が天と地を創造した。」という箇所を取り上げています。「初めに神が天と地を創造した。」というのですから、私たちは、何の疑いもなく、「神が無から有を生じさせ、すべての物質を造った」と理解します。
しかし、こう指摘されています。
“日本語の読者はどうしても一つの難しい事実に直面する。ヘブル語を知らずに、あるいはヘブル語を知っている誰かが分析したものを手がかりにすることなしに、旧約聖書の単語の字義的な意味を理解することができないということだ。あらゆる単語の定義を提供する、古代人によって編纂されたヘブル語辞典なるものは存在しない。”

この「創造した。」という言葉も、誰かが「創造した。」と訳したのです。しかし、当時のヘブル人しか、「創造した。」と訳されている「バーラー」の意味を知っている人はいないのです。
日本人なら、ヘブル語を勉強して、また、誰か勉強した人から教えてもらって、意味を捉えるしかないわけです。

聖書の解釈は、「字義的に」、すなわち、そこに書かれている通りに受け入れる事が強調されるのですが、こう指摘しています。

“創世記一章について議論する多くの人が字義的にこの章を解釈することに興味を示す。字義的にという時に彼らが意味することは、創世記一章は、それが言っている通りに、そのまま受け取るべきだということである。創世記一章を字義通りに解釈すべきだという主張は、往々にして、解釈者がその著者を差し置いてテキストに別の意味をもたらす。”

そのまま受け取ると、著者の意思とはかけ離れたところで論議が進んでしまうというわけです。
では、どうしたらいいのかというと、特に、「バーラー/創造する」という言葉を、聖書の中で何を目的語として、何を指しているのかをよく研究し、当時の文化、習慣等をよく調査した中で、この言葉の持っている正確な意味を抽出すべきだと言っているわけです。
案外この本、表紙を見ると、内容簡単かな?と思うのですが、読んでみるとなかなか大変で、途中でいやになるところもあるのですが、詳しくそれをやっています。
そして彼は、「創造する/バーラー」について結論を下しています。

“創造の叙述において主要な動詞、「バーラー」、「創造する」の本質は、機能的なものである。創世記一章の神学は、機能的なもの「宇宙神殿」である。”

これは何かというと、「初めに神が天と地を創造した。」という、この箇所、その後、一日、二日、三日、四日、五日、六日と、物体ができたように考えるのですが、そうではないと言うのです。
「初めに神が天と地を創造した。」と神が言われた時に、地上はどういう状態であったのかと言うと、『地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。』とあるように、神がある時点で、天と地を創造したのですが、その時点の地球は、混沌としていて秩序がなかったのです。
しかし神が六日間で、それらに機能を与えたというのです。
無から有を生じさせるような、物質的な現れではなく、すでに存在し、混沌としている状態に、「機能を与えた」という主張です。

たとえば、iPhoneなんか買っても、すぐに使えるかといったら、使えないです。まずはアクティベートが必要です。実際に動かすためには、初期設定をしないと、せっかく良いものを買っても動きません。
ちょうどそのように、神は天と地を造られたけれど、それが機能していなかったというのです。それを機能させていったのが、「創造した」と訳されている真の意味なのです。

やがて七日目に神は、すべての労を終えて休まれたのですが、「神さまも疲れるのか・・・」と思うのですが、神が休まれる所は、「神殿」のみであるというのです。
イザヤ書六十六章一節、

『主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』

と語られていますが、神はご自分の神殿を、休み場としておられます。
創世記は第一に、誰に対して書かれたのか、それは出エジプトをしたヘブル民族に対して書かれました。
彼らは出エジプトをして、カナンの地に入り、やがて神の住まいである神殿を作りました。創世記一章の創造の物語は、宇宙的な神殿建設に対応し、七日目に主が休まれたのは、神殿の完成を意味するというのです。

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古代においては、神殿は、小宇宙と考えられて、神殿は、宇宙を表す図象でデザインされていました。神殿は宇宙の機能に関連し、地上での神殿の建設は、宇宙の創造に対応する、宇宙的な神殿の象徴でした。
神がソロモンに作らせた神殿は、本来は宇宙と対応しているのです。宇宙全体が神を賛美する神殿として機能するよう、創世記一章をヘブル民族に与えたという理解です。

私はこれを読んで感動しました。神さまの働きは、機能していない部分に機能を与え、最終的には宇宙全体が主を礼拝する場所となり、主の安息の場所となるのです。
かつてソロモンの建てた神殿においては、レビ人たちによって二十四時間連続して、賛美が献げられていました。それは、宇宙全体が主をほめたたえる事でした。私たちは、月にも太陽にも星にも、主をほめたたえるように命じなければなりません。
宇宙全体を神の神殿として、すべての被造物が主を賛美するようにと、神は願っておられるのです。その最初の宣言が、創世記一章に込められているのです。

さて、宇宙の成り立ちの中、最初に現れたのは何だと思われますか。宇宙物理学の中でも、それが論議されています。
神さまはもちろん同時に造ることができるのですが、最初に神が造られたものは何だろうか、って考えたことがありますか?

先日、一冊の物理学の本を読んだら、宇宙の発生にはいくつかの条件が必要だとありました。時間とか空間とか光とか質量とか重力がないと、私たちが住んでいる宇宙は成り立たないのです。
しかしその中で、何が最初に造られたのかを考えると、

“宇宙の始まりについて考える際に、時間の概念を抜きにはできない。時間の概念がなければいつ始まったのかという疑問文の中の、「いつ」という概念すらも定義できない。”

宇宙に始まりがあることは誰でも知っています。いつ始まった?いつ終わった?「いつ」という言葉が使えるのは、「時間」という概念がなければ、「いつ」という言葉は使えないのです。
「時間」という被造物がなければ、賛美も出来ません。クロノスの時間軸があるがゆえに賛美できますが、時間がない世界でどのように賛美しますか?時間がなければ、空間もないし、光の速度はⅠ秒間に三十万キロくらい進むのですが、光が進みたくても、時間という単位がなければ、空間の中を進むこともできないのです。
もちろん神さまは同時に造ることもできるわけですが、時間は、宇宙の本質的な物理的法則を支配しているのです。

“宇宙論の中で時間が果たしている役割は人間の常識とは非常にかけ離れたものであり、宇宙の本質を物語っている非常に深遠な意味を持った存在だ。”

神さまは時間を最初に造られたと思われます。何気なく時を過ごしていますが、時間という被造物は、すべてを定義するための、基本中の基本です。
ということは、「時を取り戻せ!」という一言も、かなり重い言葉です。「時」という存在がなければ、私たちは神さまとコミュニケーションもできないし、宇宙全体を神殿として賛美させることもできないのです。とするならば、悪魔も真剣に、「時」に関して働いているのではないかと思われます。

アインシュタインは、無神論者であったと言われます。彼は次のように考えていたらしいです。

“宇宙の始まりは時間が始まったことがきっかけと考えられる。時間とは物理法則が動き出すための自由度をこの宇宙に与えた張本人であり、その意味で、宇宙の法則を支配する神、宇宙の物理法則を生み出した創造主である。”

しかし、聖書は何と告げているかというと、コロサイ一章十六節、

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 』

時間も空間も含めて、すべて御子、すなわちイエスさまによって造られたのです。決して、時間が神ではありません。時間を造られた方がおられるのです。時間の支配者である創造主なる神がおられて、被造物はすべて、人の手で管理するように委ねられたのです。人は被造物の管理人です。管理人は時間にも空間にも、何らかの影響を与えることができるはずです。
「時を取り戻せ!」なんて、それはちょっと難しいんじゃないですか?という考えを持ちますが、人は被造物の管理人ですから、過ぎゆく時間にさえ、影響を与え管理する権限が与えられているはずです。

ヒゼキヤ王が病気になって死にそうな時、イザヤがやってきて祈ったら、日時計の影が十段後ろに戻ったのです。それは、時間が過去に戻ったことを意味します。それも神からの一方的な奇跡ではなく、「イザヤが祈った時」に起こったのです。

今までどのくらい、カイロスを逃しているかもしれないし、失ったのかもしれません。今年は神があなたが失った時さえも、取り戻してあげますよ!それに関心を持って祈ってください!と言われているのではないでしょうか。

前回もお話ししましたが、時間と空間は相対的なもので、互いに絡み合っているというのです。物理学的に言えば、過去とか、現在、未来は、「時空」の中に、同時存在していると考えられます。
私たちは同じ時を過ごしていると思っていますが、時間は、それぞれ人によって違うのです。

東京スカイツリーに登れば、頂上と地上では四十五万年で一秒、頂上のほうが早く進みます。
だからスカイツリーの頂上に住んでいる人がいたならば、地上に住んでいる人たちに対して、過去を見ているわけです。下から上を見れば未来を見ていることになります。

実際、カーナビは、相対性理論で時間を補正しているそうです。人工衛星は重力が弱い高所を、高スピードで飛んでいるので、地上との時間がずれるというのです。放っておくと位置が変わってしまうそうです。何兆分の一秒くらいのことらしいのですが、補正しているというのです。補正したら、私たちは正しい位置を見ることができるのです。
あるセミナーでこういう事をお話しました。そうしたら一人の方が終わってから私の所に来て、「今日の話、なかなかおもしろかったよ。」と言うわけです。牧師先生かなと思ったら、その方、ある大学で物理学を教えている教授でした。「私、間違っていませんでした?」と聞いたら、「大丈夫でした。」と言われて、良かったです。
彼が言っていました。「アインシュタインの理論によれば、過去にまで戻れるんですよ!」それは今まで否定されていないというのです。私たちは不思議な時間の中に生きているわけです。

そもそも、一秒、二秒、三秒という時計の時刻を時間と考えますが、時刻と時間は全く別物です。
我々は過去だ、未来だと考えるかもしれないけれど、これらは全て、同じ入れ物の中にあって、微少単位だけど、互いに時間がずれていて、ある人の過去を見ているのかもしれないし、未来を見ているかもしれない。お互いに時間差を持ってコミュニケーションしているのです。

そう考えると、神の知恵と知識は偉大で、ついて行くことはできません。時を取り戻しなさい!と言われていることは、簡単に考えますが、明らかにされている情報を付け加えると、途方もない事です。
ジョン・ウォルトンも指摘していますが、聖書がいつ誰に何の目的で書かれたかという、素の情報を最初に明らかにした上で、それ中心軸にして、現代のさまざまな情報を取り入れるなら、原点を失わないで議論が出来ると語っています。
神は不信仰な人間たちのために、さまざまな情報を開示して、「これでもか!わたしがいることが分からないのか!」と告げておられると思います。今は創造主なる神さまがおられることを、信じざるを得ない時代です。

しかし悪魔もそんな中、何をもくろんでいるのかと言ったら、神の最も重要な被造物である「時間」に働いて、攻撃をしかけているのではないでしょうか。そもそも一人ひとり時間軸はずれていますから、さらに時間差を広げて、神の時が実現しないように働いているのではないかと思います。
悪魔に、時をずらされることなく、神の時と出会うことができるように、祈ることが必要です。

一生懸命祈って、祈りが答えられた感謝な証しもたくさんあるのですが、なぜか、祈りが実現しても、祈りの答えの中に問題の種が潜んでいて、祈りが答えられた前提で、次の問題が発生することを体験しています。「私の祈りって、何ヶ月か過去にずれているような気がする・・・」って、そんな気がします。そんな感じはないでしょうか?
祈りが答えられた時、すでに時間差があって、その分だけ積み残しというか、祈りの応えの中に、何らかの問題の種が潜んでいて、やがてそれが火種となり、次の問題が発生する、どうして?という事が、長い人生の中では、結構あるのではないかと思われます。
この教会でも、主は多くの奇跡を起こしてくださいました。絶対に解決しないような問題が解決した!という事も多くあります。しかし解決したはいいが、次にまた問題が起こるという繰り返しがあります。
ヒゼキヤが十五年命を延ばしてもらったけれど、その後に、悪い王、マナセが生まれたりとか、そういうことです。神さまの時を掴んでいるようでも、ちょっとしたずれがあるがゆえに、次の問題につながる事が、往々にしてあるのではないかと思います。
現在を現在として祈ることができるように、未来に先回りして、悪い者をすべてブロックし、勝利を勝ち取ることができたらいいと思います。

イエスさまが「今」という言葉を使っておられる時は、「全時的今」、すなわち、過去も現在も未来も含んで「今」と表現しておられたというのです。
聖書の世界って不思議です。新約聖書の中に、旧約聖書で活躍した人物が、登場していることが結構あります。例えばマタイ八章十一節、

『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。』

アブラハム、イサク、ヤコブと言ったら、イエスさまの時代からいっても、何千年も前の人でしょう。それが一緒に食卓に着くというわけです。またヨハネ八章五十六節、

『あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」 』

イエスさまと一緒にアブラハムが行動しているかのようです。その時にユダヤ人たちは、イエスさまに向かって、五十七節で、

『「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」』

イエスさまって三十三歳で十字架にかかって死なれたのですが、どうもイエスさまは老けて見えたようですよね。三十三歳くらいの時に、五十歳と見られていますから。かなり老け顔だったんでしょうね。

イエスさまが十字架に付く前に、弟子たちがすごい光景を見てしまいました。マタイの十七章三節、

『しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。』

変貌の山で、なんと、モーセとエリヤが現れたというのです。これを見ると、聖書の世界って、旧約聖書から新約聖書、そして世の終わりまで、時間軸はありません。

そもそも私たちは、神のみことばを、どう使っているのかといったら、旧約聖書のみことばも、新約聖書のみことばも、やがてくる時代であろうと、世の終わり、永遠の世界に関する記述さえも、自由に引き出して接しています。そもそも時間軸を越えています。

やがてイエスさまが帰って来られる時、すべての被造物が集まって主を賛美する時が来るのです。黙示録五章十三節、

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 』

「あらゆる造られたもの」が神を礼拝する、これは主が帰って来られた時、すべての造られたもの、創世の始まりから世の終わりまでに発生したすべての被造物が、主を礼拝する時が来るのです。これこそ創世記一章が告げている、宇宙的神殿における賛美大会ではないでしょうか。
この賛美大会を準備するのが、他でもない私たちクリスチャンであり、教会の働きです。こんなすごい役割を、私たちは担わせていただいていて、本当に感動です。

今年、私たちは神の時を悪魔の手から取り戻し、みこころが地に何一つ落ちることがないように、働いていきたいと願っています。
また私たち一人ひとりも、今まで失った時があるならば、それを取り戻していこうじゃありませんか。イエスさまの十字架の血潮ってすごいです。
時空の中に存在する、罪であっても、汚れであっても、すべて十字架の血潮によって、完全に消してしまうのです。普通であったら不可能なことですが、すべてを創造された神ならばできるのです。
私たちが過去に犯した罪も汚れも、時空の中から完全に消し去り、宇宙的神殿の中には、汚れたものは何一つ存在しなくなるのです。それがイエスさまの十字架と復活にあるのです。

今から聖餐式を持ちますが、聖餐式は本当に重要です。イエスさまは今も生きておられる、それも、肉体を持っておられる。しかも、私たちのような肉体ではなく、よみがえりの体でおられるわけです。そのよみがえりのイエスさまと一つになる手段が何かというと、聖餐式です。
昔、この教会では洗礼を受けないと、聖餐式は受けてはいけないと言われていて、人数も少なく、結構量も多かったのです。パンも結構大きくて、ジュースももっと大きなカップに入っていて、お昼の前に行われる聖餐式は、少年にとっては厳しかったです。蓋を開けるとぷーんっといいにおいがして、早く食べたいな、腹減ったな。でも「洗礼を受けなかったら取っちゃだめ!裁かれるよ!」なんて言われて、これは毒入りかななんて思っていました。
しかしイエス・キリストを信じるとすごいです。よみがえりのイエスさまと一緒になるというのですから、大きな恵みです。
時空の中から悪いものを全て取り去り、よみがえられたイエスさまと一体となる瞬間、それが聖餐式です。
今日、私たちがいただくこの聖餐は、重要なものです。失った時を取り戻すためにも、よみがえりの体を持っておられる、イエスさまと一つにならないと取り返すことはできません。今日はよみがえりの体のイエスさまと一つになって、失われた時を取り戻し、賢く生きようじゃありませんか。
最後に一言お祈りさせていただいて、聖餐式に移っていきます。どうぞ係の方は前のほうにお越しください。祈ります。

ハレルヤ。天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。時を取り戻しなさい!と主が語られていることを、心から感謝します。
私たちはパンとぶどうのジュースをいただく時、あなたが今も、よみがえりのからだとして、この地上におられることを信じ、受け取ります。
過去も現在も未来も、私たちの肉体ではどうすることもできません。あなたのよみがえりのからだならば、過去もなく、現在もなく、未来もなく、時空を越えたからだです。心から感謝します。よみがえりのイエスさまと一つとなって、すべての時空の中から、罪、汚れが、取り去られ、失われたすべての時が取り戻され、歩むことができますように。
尊いイエスさまのみ名によって、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。