HOME > メッセージ > メッセージバックナンバー > 1月 > New Year セレブレイション

「ニューイヤーセレブレーション」

2021年1月1日(金)
新城教会主任牧師 滝元順

「天の暦を勝ち取ろう!」

 ハレルヤ!新年明けましておめでとうございます。二〇二〇年、激動の年でしたが、主の守りの中、ここまで来ることができて感謝します。個人的にも皆さんに支えていただき、本当に感謝しています。
 昨年は私にとって決して忘れることのできない年となりました。皆さんにとっても同じだと思います。
 二〇二一年、新しい年が始まりましたが、どのような年になるのかは神のみぞ知るところです。私たちは主に期待して歩んでいきたいと願っています。
 二〇二〇年に掲げさせていただいたみことばは、エレミヤ書二十九章十〜十二節でした。暗記できるくらい覚えられたと思います。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 今年、「七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧みます!」というこの約束、新城教会にも当てはまってほしいと切に願っています。なぜなら昨年は、宣教七十年周年の歴史を刻むことができたからです。一口に七十年と言っても、たいへん長かったです。私の記憶の中でも、「いろんな事があったなぁ・・」と思い出します。楽しい思い出も多くありますが、やはり辛い思い出のほうが多いかもしれません。人生も同じです。しかし二〇二〇年は七十年を満たすことができ、本当に感謝です。
 『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、』とありますから、二〇二一年は、主が教会に訪れ、新しい扉が開くと心から信じる者です。

 同時に、歴史を振り返り、感謝をささげることが大切です。私たちの神は、一方的に事をなし、去っていかれるような方ではありません。愛の交わりの中で私たちと共に歩んでくださる神です。ですから、与えられた恵みを、神に感謝することが大切です。
 私たちも誰かから感謝されたら、やはり嬉しくなります。もっと何かをしてあげたくなります。これは人間の気持ちというより、神さまの性格がコピーされているからです。私たちの感情とか、思いとか、反応は、元々は神さまにあったものです。

 ある時、イスラエルは困難の中にありました。それは神の臨在を示す神の箱が敵に奪われたからです。しかし奇跡的に取り戻すことができました。しかし、キルヤテ・エアリムという場所に神の箱が安置され、そこから神の箱を動かせなくなってしまいました。キルヤテ・エアリムとは、太陽礼拝とバアル礼拝の中心地だったようです。主の臨在の箱は、エルサレムに向かうべきでしたが、そこにとどまっていました。そして二十年が経過したと記されています。
 それで民は自分たちの未来を案じて、祈り始めたのです。その時に神がペリシテという宿敵を打ち破って下さったのです。
 現在でも「パレスチナ」という名前が使われていますが、「ペリシテ人の地」という意味です。彼らは元々、海洋民族で大変強い民族でした。イスラエルを度々苦しめていたのです。ペリシテ人たちに、どのように勝利したのか。サムエル記第一 七章十節、

『主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。』

 これが主のなされたみ業です。神が造られた被造世界がイスラエルと共に戦ったのです。
 昨年も、福音とは、人類の救いだけでなく、被造物全体への良い知らせであることに深く気づかせていただきました。我々は、被造世界を管理し、味方につけなければいけません。ここでは大きな雷鳴とありますから、雷が鳴って、大雨が降ったのでしょうか。雹が降ったのでしょうか。それでペリシテが打ち破られたのです。イスラエルの力だけではなかったわけです。
 ペリシテに勝利した時、サムエル記第一 七章十一〜十二節、

『イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。』

 ザワメキの中にも「エベン・エゼル」という賛美がありますが、それは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味です。
 当時サムエルという預言者が、イスラエルを導いていたのですが、彼が主に感謝して一つの石を立てました。それはエベン・エゼル、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という記念碑でした。
 私たちも神のなしてくださった事を忘れることなく、エベン・エゼルの記念碑を立てることが重要です。先ほども映像を見せていただきましたが、それはある意味、七十年間のエベン・エゼル記念碑でした。
 また人生の中においても、主が様々な困難の中から助けてくださったことを忘れないで、心の中に記念碑を立てる必要があります。

 まさに二〇二〇年、私にとって最大のピンチの年でした。いつも話していますが、家内に二〇一九年十月二十五日、膵臓癌が発見されたからです。膵臓癌と言ったら、悪しき病の王です。生きることは考えないほうがいいと言われました。三ヶ月、四ヶ月の命だと宣告されました。
 その宣告は医者に見放されたことを意味しますから、「祈りしかない」と思いました。皆さんにも祈りのリクエストをして、自分でも命がけで祈ってみようと決断しました。
 すると主が命を延ばしてくださり、すでに一年三ヶ月くらいになります。それも元気になってきています。本当に主に感謝しています。
 二〇二〇年は私にとって、エベン・エゼル、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という記念の年となりました。皆さんにも、神さまとの関わりの中で、感謝があると思います。是非、感謝を忘れないで記念碑としましょう。

 神さまは困難な中にも慰めを与えてくださるお方です。昨年の前半は本当に大変でした。家内はいつまで生きるのかわかりませんでした。医者から「今日でも明日でも可能性がありますから、覚悟しておいてください。」と言われました。いつもドキドキでした。
 ある日、私は落ち込んでいた時に、目の前にこんな虹が現れました。
<>
 四時頃でした。そんな冗談はどうでもいいのですが、家内には得意料理があります。それはコロッケです。孫たちが、「ばあばのコロッケは世界一だ」と言うのです。それで家内は力を振り絞って、コロッケを作りました。家内のコロッケを食べられるのも、これが最後かなぁ・・みたいに思いました。完成したコロッケを私一人で孫たちに届ける途中、虹が出始めました。これは孫たちが住んでいる家の前で撮った写真です。虹とは聖書では約束です。「あなた方を滅ぼしません。」という意味です。それを見て、私はたいへん励まされました。

 時に神は「天にしるし」を見せてくださいます。現代社会はそう考えませんが、古代の人たちは、天にしるしが出ることに大きな関心を持っていました。
 今は実験・観察・数理に支えられる自然科学がすべての時代です。神からのサインなど、考える余地はなくなってしまったわけです。しかし、様々な苦しみの中で、神は私たちを励ましてくださるお方です。

 さて、二〇二一年、私たちはどのように歩んでいったらよいのでしょうか。七十年が満ちた頃、神は約束を果たしてくださるというのですから、今年は大きく期待したいです。

 パウロはキリスト教の基礎をつくった人物です。彼は力ある人でしたが、同時に、多くの苦しみを体験した人でもありました。彼は激しい苦難の中で宣教を進めました。その中でパウロは、将来と希望とは何かについて、主から教えられたのです。この箇所を読んで、私はたいへん共感します。
 コリント人への手紙第二 一章八〜九節、

『兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。』

 パウロは激しい耐えられないほどの圧迫を受けたと語っています。宣教活動の中で、命を脅かされる場面に遭遇したわけです。『実際、私たちは死刑の宣告を受けたような思いでした。』と語っています。
 去年、私たち家族は、何回死刑宣告を受けたのか分かりません。テレビのドラマの話だと思っていましたが、本当に辛いものでした。
 しかし、そのような時に神は何を目論んでおられるのかというと、いじわるしているわけではないのです。
 『私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。』とあります。様々な苦しみや悲しみは、神に頼ることを教える教室です。
 続いてパウロはこんなふうに語っています。

『神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。』

 信仰とは何かについて昨年、山崎先生が来て話してくれました。信仰とは信じ切れない事柄を「信じます!」とやみくもに宣言することではなく、神に対する信頼だというのです。神に対する信頼です。それが信仰だというのです。
 心の中は疑いがあっても、それを払拭して、信じます!というのではなくて、我々が頼っている神さまに信頼を置くことが信仰です。

 そんな経験を通して、パウロは将来と希望をどのように定義づけたのかというと、神は、今までこれほど大きな死の危険から、助け出してくれたじゃないか!ならば将来も助けだしてくれるに違いない!という、過去の事実に基づいて将来を神に信頼したわけです。
 私たちも七十年を振り返って、主がなしてくださった恵みとあわれみを心から感謝し、今まで助けて下さったのだから、これからも助けて下さらないはずがない!と信頼し、主についていくことが信仰であり、将来と希望なのです。

 そして、信仰を保つためには祈りが必要だというのです。「あなたがたも祈りによって協力してくれたでしょう。」と感謝していますが、祈りによる協力によって、神に対する信頼感は増していくのです。
 二〇二〇年は、私の人生の中で最も祈りを多くささげた年ではなかったかと思います。今までも真剣に祈ったことは度々ありましたが、そんなのはすっ飛んでしまうくらい真剣に祈りました。私だけでなく、皆さんも真剣に祈ってくださいました。家族も、親族も、皆、祈ってくれました。
 家内の母親と妹はまだクリスチャンではなくて、旧家でなかなか難しかったのですが、家内の病を通して、偶像を拝むのをやめて主にのみ祈るようになりました。この頃では一緒に祈祷会を持っています。八十五歳の義理の母ですが、家内の妹と一緒に我が家に来て、祈ってくれています。家内が病気にならなかったら、もしかしたら、この人たちは救われなかったかなと思います。このような危機を通して、母たちはイエスさまに信頼するようになったわけです。そして家内に起きた数々の奇跡を見て、「イエスさまってすごい!」と感動するようになりました。

 去年の十二月十六日はCTの結果が出るということで、大変、心配でした。十二月十六日は義理の母の八十五歳の誕生日でした。いつも祈りは、「私の後について祈って下さい。」と言って、祈ってもらっていましたが、その時は、「お母さん、自分の言葉で祈って下さい。」と言いました。「娘の命が大切なら、自分の気持ちをしっかりとイエスさまに伝えて下さい。」と言いました。そうしたら母親がこう祈りました。
 「イエスさま、十二月十六日は、私の誕生日です。私は何のプレゼントも要りません。ただ、娘の享子の良い結果をプレゼントとしてください・・・。」そんな祈りを八十五歳の母親が涙を流しながらささげていました。
 この祈りをイエスさまはきっと聞いてくれるだろうと思いました。
 主は年老いた母親の祈りにも答えてくださり、すばらしい結果をこの間も皆さんにお伝えできました。さまざまな戦いが人生にはありますが、そんな中で救い主イエスさまに対する信頼、父なる神さまに対する信頼、聖霊さまの助けに対する信頼を学ぶことができます。さらに祈りによって協力し、助け合っていく時に、困難が打ち破られていくと信じます。
 エレミヤ書二十九章十二節、

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 祈りが、信仰を支え、将来と希望に向けて前進させる原動力であることは、昔も今も変わりません。
 二〇二一年、私たちは祈りの祭壇をさらに強固にし、前進したいと願っています。

 「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たす」とありますから、二〇二一年は期待しても良いのではないでしょうか。なぜなら、新城教会の歴史に七十年が満ちましたから。
 しかし、昨年の十二月、一つのことに気づかされました。ちょっとショックでした。それは「七十年はまだ満ちていない。」ということでした。えっ!七十年は満ちていないの?と、初めはちょっととまどい、がっかりしました。
 しかしその理由が分かりました。そして、七十年が満ちていないとしても、「満ちた!と宣言することは可能だ」という事にも気づかされました。

 二〇二一年一月一日、「七十一年目だ!」と考えていますが、もしもそうでなかったら、まだまだ苦しみや悲しみも続き、勝利は遠のきます。では、どうして満ちていないのかというと、理由は、神の創造の原点にあるのです。

 神が天地創造された時の様子が、創世記一章に記されています。創世記一章十四〜十六節、

『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。』

 この箇所を読んで、どのように感じられるでしょうか。夜空の星々、そして太陽、月、「神さまの作品なんだ!」と分かります。それは間違いありません。
 しかしこの箇所は、さらに深いことを意味しています。天の星々や、また太陽、月とは、どんな目的で創造されたのでしょうか。『昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。』と記されています。
 ここで興味深いことは、それらが「しるしのためにあれ!」という事です。神さまはメッセージを、なんと天に置かれるのです。それが星々であったり、太陽であったり、月であったりします。時々、私たちは天体ショーを経験します。月食があったり、日食があったり、星々が近づいたり。これらは一つのしるしだというのです。
 去年もお話しさせていただきましたが、イエスさまが生まれた時、特別な星が上ったのです。星々の世界は、神秘の世界です。同時にそこは天使たちの領域であることもお話しさせていただきました。

 そして、『神は二つの大きな光る物を造られた。』というのです。太陽と月でした。この箇所は何を告げているのかというと、「神は暦を造られた」というのです。実際、人類は古代から天を見上げて、天と地を結ぶ暦を造ることに努力してきました。

 今日、私たちは「二〇二一年一月一日」としていますが、何によって定義されるのかというと、暦によって定義されているのです。
 現在、世界が使用している暦は、グレゴリオ暦という太陽暦を使用しています。それがいつから始まったのかというと、十六世紀のことです。それ以前は、太陽暦のユリウス暦という暦を使っていました。これは精度が悪かったので、十六世紀になると十日間くらい季節にずれが生じました。それを補正して始まったのが、グレゴリオ暦です。太陽暦は、地球は太陽の周りを三百六十五日一周しますが、四年に一度閏年を設け、時間のずれを調整しています。このような共通の暦があることにより、二〇二一年一月一日と定義されるわけです。

 聖書に「七十年が満ちるころ」と記されていますが、もしも、聖書が私たちと同じ、太陽暦を使用していて、「七十年が満ちる頃」と記しているならば、二〇二一年を、「七十年が満ちた!」と定義できます。
 しかしもしも、聖書が使っている暦が全く違っていたとしたら、同期しないことになります。

 聖書を読むと、私たちが使っている、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日・・、など曜日は、全く出て来ません。聖書暦は、太陰・太陽暦の一種「ユダヤ暦」を使っています。
 神は出エジプトを果たしたイスラエルに、このように告げています。
 出エジプト記十二章一〜三節、

『主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。』

 イスラエルの暦の原点は、出エジプトした日にあります。「この日が始まりだ。」と、神ご自身が設定されました。
 最初に神は、太陽と月と星を使って、人類のために暦を設定されました。それから月日が流れて、神が定めた暦をベースに、出エジプトを果たした日を原点に一年を始めなさいと語られたわけです。

“バビロン捕囚以降は、この月は「ニサンの月」と呼ばれるようになった。「アビブの月」も「ニサンの月」も同じ月のこと。太陽暦では、三月か四月にあたる。彼らは長い間エジプトに捕らえられて、自分たちの国はなかった。しかし、主はそこから民を解放し、約束の地へと導かれた。この月がイスラエルの始まりとなった。”

 イスラエルに行きますと新年は、太陽暦二〇二一年一月一日ではないのです。ニサンの月を宗教新年としています。
 ユダヤ暦は、太陰・太陽暦です。

“日は夕方、月は新月の日に始まり、春分または秋分が年始で、平年は十二ヶ月、閏年は十三ヶ月で、閏月を第六月の次に置く。”

というわけです。
 彼らは、私たちとは違った暦を使っているわけです。それで聖書は歴史を表現しています。「七十年が満ちる」「五十年が満ちる」「三十年が満ちる」とは、すべて聖書歴に基づきます。
 しかし私たちは聖書歴をまったく意識せずに、太陽暦で七十年とか、五十年と考えていたら、聖書のみことばとは、ずれるわけです。ゆえに、いくら今年、神に期待したところで、神さまのわざは現れないかもしれません。ちょっとショッキングな情報ですよね。

 日曜日は聖なる日、だから、聖日を守らなければならないとクリスチャンは考えます。またある教団は、「土曜日が安息日だ」と考える人たちもいます。しかし両者の暦が、太陽暦で議論していたとしたら、どちらも全く意味がないことになります。
 なぜなら、太陽暦は古代エジプトから始まった、太陽礼拝の為の暦が原点だからです。
 ヘブル民族は四百年以上にわたってエジプトの奴隷となり、当時、エジプトで使用されていた太陽神ラーを礼拝する「太陽暦」で過ごしていました。けれども、出エジプトに伴い、神は太陽暦を破棄させ、聖書歴の新年、アビブの月から始めさせたのです。
 旧約聖書の律法は、星々の運行や、天体とシンクロしていると以前に、お話しさせていただきましたが、暦は神の創造された万物の法則の一つです。
 天に暦があって、その暦が設定した通りに、地においても主に仕えるならば神のわざは地にも行われるのです。ユダヤ人たちはそのことをよく知っていました。安息日にしても、新月のまつりに関しても、すべて太陰・太陽暦の定められた暦に従って行われました。「天の暦の日にあわせて、主へのまつりを地で行えば、神は民の祈りを聞かれる」という法則を理解していたのです。それで、イスラエルは、定期的に創造主とコミュニケーションができていたわけです。

 しかし途中で事件が起こりました。ローマ皇帝によって、その暦を大きく変えられたのです。

 しかもそれは、聖書の預言の成就でした。ダニエル書に四人の王が出る事が預言されていますが、最後の王についての記述があります。詳しくは説明しませんが、ダニエル書七章二十五節、

『彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。』

 「彼」とは、ローマ皇帝のことを指していると言われます。
 コンスタンティウス一世は、キリスト教を国教化したのですが、二世はクリスチャンとユダヤ人を厳しく迫害しました。そして聖書的カレンダーを使用することに対して、厳しく処罰しました。
 当時イスラエルの暦を決めていたのは、ユダヤ人の裁判所、サンヘドリンでした。しかし最後のサンヘドリンの統領ヒレル二世が、ローマ皇帝の圧迫を受けて、ユダヤ歴をも変えてしまいました。
 また、初代教会が使用していたのも、同じ歴でしたが、教会も迫害により、「太陽暦」に変更する事を余儀なくされたのです。そこから、創造主の定められた天の法則がずれているのです。

 ゆえに、神が定めた時と法則が変えられていますから、いくら私たちが真剣に祈っても、「あれ?なんにも起きないじゃないの?」という事かもしれません。私は、暦が変えられた事は結構、大きな祈りが届かない原因になっているのではないかと考えています。
 そもそも今日は、グレゴリオ暦だと「一月一日」です。しかし十六世紀まで使われていたユリウス暦だと「十二月十九日」です。これを、ユダヤ暦に直すと「十月十七日」です。まだ七十年は満ちていません。こうなると困ったものです。
 悪魔って、本当に巧妙ですね。神が造られたカレンダーを壊してしまえば、天と地はシンクロしなくなりますから、神の法則が地に現されなくなるわけです。案外、私たちが普通だ、当然だと思っている領域が、結構、悪魔の手に渡っていたりするわけです。

 太陽暦を疑う人は、誰一人いません。どうでしょうか。月・火・水・木・金・土・日って、全て、星々に結びつけられています。火曜日は火星、水曜日は水星、木曜日は木星、金曜日は金星、そして土曜日は土星、日曜日は太陽。毎日が、創造主なる神ではなくて、星々に結びつけられています。悪魔は天の法則が地に適応されないよう、巧妙に働いています。
 なんてこったという感じです。「ということで、今日の話はこれで終わります。」と言ったら、混乱で終わると思うのですが、興味があったら、ぜひ、ご自分で調べてみてください。歴史の中で悪魔は、いろいろな策略を巡らせています。

 しかし新約聖書にこんなみことばがあります。コロサイ人への手紙二章十二〜十七節です。この箇所は私にとって、大変重要な箇所です。バプテスマを受けるとはどういうことかに関しての定義です。ここでは「罪が赦され、債務証書が無効になり、悪魔が持っている武器が武装解除され、彼らが捕虜として凱旋の行列に加えられる。」と約束されています。
 その次に、何と記されているかというと、
二章十五〜十七節、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。』

 厳密に私たちが主を礼拝しようとすると、かなりたいへんです。キリスト教は旧約聖書をベースにしていますから、それを基準にして歩もうとしたならば、大きな困難があります。また、それらを無視することもできません。

 新約時代、神はどのように神の民に関わってくださっているのでしょうか。十字架と復活の勝利を経て、新しい契約として与えられた内容は、悪魔とその一味に対する完全勝利です。しかしそれに続いて、『祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。』と告げています。
 なぜなら、「その本体はキリストにあるからです。」という理由です。暦にしてみても、律法にしてみても、すべて旧約聖書に述べられている事柄は、突き詰めれば、「救い主イエス・キリスト」につながります。「本体はキリストにある」のです。
 今、私たちはイエス・キリストを救い主として信じています。そして神は三位一体であると信じています。父なる神、子なるイエス、聖霊を私たちの神として信じています。
 そして「イエス・キリストのみ」が父なる神のところに行く道であると信じています。救いの名前は、イエス以外にないのです。ということは、「新月や安息日のこと、すなわち、カレンダーに基づくことで、惑わされたり、批評されたりすることはない。」すなわち、「あなたの礼拝は間違っている!」とは言われないのです。

 ということは、たとえ今日がテヴェット、十月十七日だとしても、聖書歴の新年であると宣言できるのです。
 ユダヤ人たちの新年を、太陽暦に置き換えると三月から四月くらいになります。ニサンの月、アビブの月とも言います。今日が太陽暦一月であったとしても、「イエス・キリストの名によって、この日がニサンの月であることを宣言する!」と宣言できるのではないでしょうか。
 今日は、「神が天地創造時に設定されたカレンダー通りに生きる者である!」と宣言しましょう。

それならば二〇二一年は「七十周年が満ちた年」として、生きることが可能であると信じます。

 二〇二一年に対して、昨晩も、七人の先生方がすばらしいみことばを語って下さいました。本当に心燃やされました。七人で一つのストーリーが完成していました。公開でくじを引いて、順番を決めました。ちょっとドキドキしましたが、順番もパーフェクトでした。二〇二一年は、すばらしい年となる!と確信しました。

 私自身に、今回与えられた聖書箇所は、イザヤ書四十四章二十六〜二十八節です。このみことばはイザヤが語った預言ですが、内容は「回復と再建」です。七十年が満ちて、バビロンから帰った人たちが行ったのは、イザヤの預言通り、エルサレムの回復と再建でした。
 昨晩、語ってくださったメッセージと、私が与えられたみことばをドッキングして、一つにまとめていただいたものを、読みたいと思います。これは新城教会に与えられた預言的メッセージであると、信じております。
----------------------------------
2021年に向けて、主から新城教会に与えられた預言的メッセージ

昨年はあなた方にとって、波逆巻く嵐の中を小舟で進むような一年でした。しかし、わたしがあなた方とともにいて、あなた方を励まし、あなた方の敵を追い払いました。

新しい年は「喜びの年」です。
あなたは、まずわたしを喜び、わたしがあなたを訪れる道を整えなさい。
宣教70周年を振り返り心から感謝するとともに、あなたの将来をわたしに託し、希望を持ちなさい。苦しみは大きな勝利の喜びへと繋がっているのですから。

ダビデが王服を脱ぎ捨てて力の限り喜び踊りながら、神の箱を迎えたように、あなたの着ている、神に逆らう「自分」という王服を脱ぎ、主ご自身が着せられる「油注ぎ」という王服を着なさい。71年目の今年、主の回復が訪れます。

昨年、あなたは苦難と社会の変化の中で、いかにわたしを信じるかを試されてきました。それは、さらに強い信仰を持つことをあなたにもたらしました。新しい年にも、わたしはあなたに同じことを望みます。

どうか、主にある喜びを持ち続けてください。今は喜べない状況にあるかもしれませんが、気落ちせずにわたしを信じ、感謝の祈りを忘れずに、喜びを持ち続けてください。それが、あなたの力なのですから。

わたしはあなたにカナンの地を与えます。70年が満ちた年、あなたに大粒のぶどうの実を担がせましょう。勇気を出しなさい。わたしはより多くの収穫が得られるための備えをしました。

あなたは、右に行くにも左に行くにも「これが道だ。これに歩め」とささやくわたしの声をよく聴き、疲れることなく歩み続けなさい。
2021年は「回復と再建の年」となります。

わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。
淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。
わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」 イザヤ書 44章26~28節
--------------------------------------

 このようにまとめました。再来週には、細かいメッセージの内容を皆さんにお届けできると思います。主がこのみことばを二〇二一年にくださったということは素晴らしいことです。
 でもその土台となっているカレンダーを置き換える宣言をしないといけないと思います。その時に七十年が満ちて、将来と希望の計画が、例え太陽暦であっても現されると信じます。アーメンでしょうか?アーメン!!

 最後に皆さんで宣言したいと思います。
 私たちは「聖書の暦に置き換えて二〇二一年を始めます!」という宣言をします。

「今、主イエスのみ名によって、私たちは高らかに宣言します。
私たちの暦を、天地宇宙を造られた神のカレンダーに置き換えることを宣言します。太陽暦で過ごしていても、私たちのカレンダーは神の時のカレンダーであることを高らかに宣言します。
 二〇二一年一月一日を聖書暦、ニサンの月であると宣言します。七十年は満ちました!五十年も満ちました!三十年も満ちました!神の時は満ちました!イエスさまの名によって宣言します!ハレルヤ!」




バックアップアイコン2021.jpg