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「ニューイヤーセレブレーション」

2019年1月1(火)
新城教会主任牧師 滝元順

 ハレルヤ!みなさん、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 先ほど、二〇一八年内に新城教会で行われた、数々の集会の一部を紹介させていただきました。年間、新城教会では千回以上の集会があります。そのために多くの兄弟姉妹の祈りとサポート、貴い犠牲、奉仕があることを忘れてはなりません。
 今、私たちはこの暖かい会堂の中で、快適に礼拝を持っていますが、何気ない普通の出来事だとは思ってはいけないです。背後に、多くの方々が犠牲を払って奉仕してくださっています。
 この頃はインターネットで礼拝を配信していたり、賛美の時に歌詞が出たり、写真を出したりと、いろんなことをやりますから、これら全てを統括し、ミスなくやるのはなかなかたいへんす。この頃はすべてがデジタル化していますから、デジタルというのはゼロか一かの二つの信号です。ちょっと間違うと全て崩れるところがあるのですが、細心の注意を払いながら、影で奉仕をしてくださっている方々がおられます。
 また、みなさんが安全に礼拝を守ることができるように、警備の方が礼拝中、見守りをしてくださっていたり、とりなしの祈りをしてくださったり、そのほかにも、多くの奉仕と犠牲があって支えられています。お互い、賜物を持って支え合う、これが教会の姿であると思います。

 この教会には、六名の牧師たちがいます。一応私が主任牧師ということになっていますが、私は今年で六十八になります。そろそろ引退したいなぁと思っていて、次は五人の中からか、または他からか分かりませんが、祈っていてくださいね。でもきっと、なんとかなると思います。私以外の五人の先生方がすごくがんばってくださっています。それぞれ特徴があって、みことばを語ってくださっています。
 また教会には、それを支えるスタッフの方々もおられて、細かいスケジュールの調整やら、何から何まで、細かい奉仕をしてくださっています。

 新城教会はリバイバルミッションとの関わり、また、プレイズ出版との関わり、その他様々な関わりと共に動いています。スケジュール調整って、かなり難しいです。一週間に二回くらい、打ち合わせをしないと、なかなかうまくいきません。何時何分から誰が来られますとか、いつどこに行かなければいけないとか、この日に何をしますとか、結婚式や召天式、献児式、等々、多種多様にわたるわけです。これがうまくいっているとしたら、聖霊さまの働きです。

 私は「牧師」という言葉はあまり好きではありません。牧師の「牧」は「牧者」の牧ですから、羊飼いはイエスさまです。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない」と歌いましたが、誰が牧師かと言ったら、本来はイエスさまなのです。我々ではありません。
 誰がそんな名称をつけたのか知らないけれど、あたかも私たちが牧者かのように錯覚させる言葉になっています。私たちは牧師と呼ばれていますが、決して、牧者ではありません。牧者はイエスさまです。
 今年、新城教会を導くのは、牧師ではなくて、イエスさまが導いてくださらなければならないのです。「あんた、逃げてるじゃん」と言われるかもしれませんが、そうではなく、私たちは一つの役割なのです。

 イスラエルに行きますと、羊とか山羊がいっぱいいます。特に郊外に出て行きますと、ベドウィンという羊飼いたちが、羊や山羊をたくさん飼っています。でも羊飼いたちって案外、呑気に木の下で寝くそべったりしているのです。
 しかし羊の群れは、秩序正しく一定の方向に移動しています。どうしてかというと、羊飼いは必ず牧羊犬を持っているからです。群れの中では一定の方向からはみ出て、他のほうに行くのがいますから、そういうのがオオカミとかに食われるわけです。そうすると牧羊犬が走って行って、群れに戻します。だから羊飼いが設定した方向にうまく進んでいくのです。

 牧羊犬をよく見ると、耳がとがっていなくて上の部分がカットされています。普通犬は耳がとがっているのですが、上の部分がカットされているのです。だから耳が台形になっています。どうして耳を切ったの?と聞いたら、これは羊飼いの知恵でした。
 イスラエルは寒暖の差が一日のうちに激しいのです。その差が何十度もあるのです。昼間は四十度、五十度近くまで気温は上昇しますが、夜になりますとマイナス近くまで低くなるわけです。
 夜、暗闇に紛れて活動するのがオオカミをはじめ、猛獣たちです。そして羊飼いたちが持っている羊を狙うわけです。その牙にかかったら、羊は一撃で倒されます。
 しかしその時に戦うのが誰かというと、羊飼いではなくて、牧羊犬が戦うのです。牧羊犬は耳が切られていて、夜熟睡できないそうです。寒くなると、耳の傷がじりじりして、「よく眠れない・・」わけです。
 そうすると、夜中にオオカミなどが近づいても、かすかな空気の動きとか臭いをかぎつけて起きるのです。それは眠りが浅いからです。危険を察知して、いち早くオオカミや猛獣の所に走って行って、敵を倒すのです。ゆえに群れが守られるのです。

 牧師とは、牧羊犬と同じだと思います。私たちはイエスさまから耳を切られて、みなさんよりも、ちょっと霊的な感性を高めていただいているのかもしれません。教会に属するすべての兄弟姉妹が、敵の毒牙にかかることのないように、日々見張る役割だと思います。
 だから牧師の牧を「犬」にして、「犬師」となると、うちの息子の名前になってしまうので、なんとなく響き悪いですが、犬のような存在です。今年、私たちが正しく機能し、用いられるように祈っていただきたいと思います。欠けたところがたくさんありますが、それぞれのパートで敵の動きを察知して、先回りして、敵を倒し、群れが守られるなら、そんな嬉しいことはありません。

 昨晩は、「カウントダウンワーシップ」が夜の九時から十二時まで開かれました。私はいつも楽しみにしています。その時には、私以外の五人の先生方が語ってくださるからです。どのようなメッセージを語るのかといったら、新しい年の指針となるようなことばを語ってくれます。
 それはある意味、教会全体に与えられる預言のように思っています。預言というのは、「主は言われます。あなたにこう語っていますよ。」というような預言もありますが、多くの場合、みことばの中から印象がくるわけです。教会全体に、年の始まる前に主がことばをくださると思います。
 一昨日の礼拝で私は、二〇一八年度に語られた預言的に綴られた言葉をご紹介しました。一年間振り返ってみると、「この通りになったなぁ」という印象で、ちょっと怖いところもあります。

 昨晩も五人の先生方が語ってくださったのですが、五人の中で誰が一番に語るのかって、はっきりいって難しいです。年齢順なのか、ハンサム順なのか、頭が薄い順なのかとか、いろいろ順番の基準はあると思います。しかし私はいつも、くじで決めることにしています。夜の九時に集まって、くじで決めます。
 くじは人間的に選ぶのですが、決定は神から来ると聖書にありますから、「主よ、今日のメッセージで誰が最初に語ったらいいですか?そして最後は誰が務めたらいいですか?」と、祈ると順序さえもコントロールしてくださると信じて、くじを引いてもらいます。
 その後メッセージを聞いてみると、その中に神の導きがあったことがよく分かります。

 昨晩、最初にみことばを語ってくれたのは、インターナショナルの働きを一手に引き受けてくださっているフェルナンド先生でした。彼が主から教えられたみことばは、有名なザアカイの物語の箇所でした。それはルカ十九章一節〜六節です。

 今回、語られた五人の先生方のメッセージは、後にプリントされて、来週か再来週くらいには皆さんにお届けできると思いますので、それをよく読んでいただきたいと思いますが、私は五人の先生方の語られたことばをつなげて、私の独断ですが、どんなふうに主が全体的に語っておられるのかを、新年礼拝ではお話しさせていただいています。

 フェルナンド先生が語ってくれたのは、「新しい年に入る前に準備しなさい!」ということでした。準備して整えて、準備ができたら二〇一九年に入ることができる。そのままの状態で、連続して入って行ってはいけないということでした。
 そして、そのために必要なことが、ザアカイのストーリーの中から語られていました。ザアカイは当時、お金も持っていたし、ある程度、地位もあったし、名誉もありました。でも、多くの人から嫌われていました。
 ある日のこと、イエスさまがエリコという町に来られました。彼はその町に住んでいました。彼は背が小さかったので、イエスさまが来られた時、イエスさまを身近で見ることができなかったのです。それで何をしたかといったら、いちじく桑の木という木に登って、それでイエスさまを見ようと真剣になりました。
 普通ではどうでしょうか。お金があって、地位があって、名誉がある人が木に登るなんて、なかなか勇気がいると思います。「豚もおだてりゃ木に登る」という言葉がありますが、豚だってそう簡単には登りません(絶対に登りません)。
 彼はイエスさまに会いたくてしょうがなかったのです。イエスさまに近づきたくてしょうがなかったのです。それで、なりふりかまわず木に登って、イエスさまをみつめたのです。

 その時、イエスさまが木の下に来て、「ザアカイよ、降りて来なさい。」と言われました。なんとイエスさまは、ザアカイの名前を知っていたのです。
 木に登っている変なおっさんを見たら、普通なら、通り過ぎそうです。しかしイエスさまは、そうではなかったのです。
 イエスさまに何もかも捨てて近づこうとする人物のために立ち止まり、彼の名前を呼んで、彼の家にまで行ったのです。
 その時ザアカイは悔い改め、方向転換をして、騙したお金は普通なら二倍にして返せばよかったのに、四倍にして返しました。その時イエスさまは、「この家に救いがきました」と言われました。

 私たちも同じように、新しい年を迎えるにあたり、イエスさまに近づいて、悪い習慣などがあったら、それを捨て、方向転換して、新しい力、聖霊に満たされて新しい年を始めなければいけない!という、まさに、五人の牧師の中で最初に語るべきメッセージでした。ちょっと感動しました。今までフェルナンド先生が最初に語るのはなかったですが、主が順序も導いておられると確信しました。

 そして次に語ったのが、四元雅也先生でした。コリント人への手紙第一、九章十六節〜十七節のことばから語ってくれました。

『私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。』

 ここで、パウロが福音を宣べ伝えることは、「どうしてもしなければならない務めだ」と語っています。
 あんまりやりたくないと思ったり、強いられたにしても、務めだから、どうしてもやらなくてはいけないというのです。
 四元雅也先生は教会の番頭さんみたいです。教会ではいろいろな働きがあって、私たちが外に出て奉仕すると、そのあとを受け持たなければならなくて、やはり先生には一番、負担がかかっています。
 去年は相当負担がかかったみたいで、「もう嫌だ、鬱病になりそうだ。」と感じたというのですから、多くの負担をかけてしまって申し訳なかったと思いました。
 しかし人というのはストレスがあると成長するのです。

 ストレスを病気の元と考えてはいけません。ストレスがあると強くなるのです。これは嘘ではありません。TEDという番組で一人のストレスを専門に研究している学者が発表していました。
 ストレスがその人にどのように悪い影響を与えるのかを、かなり長い期間調査をしたというのです。ストレスがかかると、人はどんどん潰れていくという視点で研究していたのですが、途中でストレスをバネにしている人たちがいることが分かったというのです。
 「ストレスは体に悪い」と考えている人たちは、自ら滅びていったそうです。しかし、「ストレスは自分を鍛えるバネだ」と考えている人たちは、ストレスがあるがゆえに、どんどん寿命を延ばし、様々な領域を広げていったというのです。
 だからストレスをどう捉えるのかということです。雅也先生は、ストレスをバネとして捉えたみたいです。

 福音宣教は、かなりプレッシャーがかかったとしても、やらなければいけない使命なのです。神さまのために働きはじめると、疲れたり、ストレスを感じたりするかもしれません。しかしそれをバネにして、突き進んでいかなくてはいけない!という、今年も宣教の戦いのために、力を尽くしたいという決意のメッセージを語ってくださいました。

 今年も新城教会において、いろんな働きがあります。手始めに、三月にはネパールでの宣教活動があります。今年はネパールだけではなく、ヒマラヤの一番西の端、ダラムサラでもあります。二箇所でやります。ヒマラヤの真ん中くらいと、一番の西の端でやります。
 これはちょっときつい働きだ、思うのですが、しかしそういう所にあえて挑戦していく時、教会も成長していくし、我々のキャパも広げられるのです。ストレスがかかることはやめておこうと言うと、自らを滅ぼしますから、今年はストレスをバネにしていただきたいと思います。

 今朝、ネパールから新年の挨拶のメールが来ました。パク先生から、「新城教会のみなさんへ おめでとうございます。寛太君のためにも祈っています。日本のリバイバルをさらに願います。皆で祈ります。神の手が日本をいやし、回復されることを願います。ハレルヤ!」と励ましを頂きました。パク先生、すごい所に行っていますね。そして山の子どもたちからも挨拶の写真が来ました。

 懐かしいですね。今でも山の子どもたちは新城のことを思ってくれています。ぜひともみなさん、お若い方々、ストレスから逃げないで挑戦していただきたいと思います。

 そしてその次に語ってくれたのが、上條実先生でした。上條先生は、今年なかなかみことばが与えられなかったというのです。困っていたというのです。
 やはり神さまからのみことばは、祈りの中で与えられますから、祈りが不足していたりすると与えられません。でも彼は、一生懸命祈ったけれども、なかなかみことばが来なかったというのです。
 今年は困ったなぁと思っていたら、先々週の礼拝の時に、ぱっとみことばを主が語って下さったというのです。
 様々な方法で主は語られます。折に触れ、様々な方法を駆使して私たちに語りかけて、強い印象を与えて下さいます。彼はその時、はっきりと声を聞いたというのです。それがガラテヤ人への手紙三章十五節のことばであったそうです。

『兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。』

 このみことばと共に、「契約」という言葉を、主から語られたというのです。
 彼はちょうど新しい車を契約する時だったというわけです。車もどうでしょうか。契約が結ばれると、今までは自動車会社のものだったのが、個人に手渡されるわけです。自由に使ってもいいことになるのです。
 人間間の契約も、結ばれたら必ず実行されます。契約不履行ならば、契約違反で訴えられます。この頃、詐欺事件なんかもありますから、気を付けなければいけないわけです。普段私たちは、常に契約社会に生きています。物を買うことも契約です。子どもたちが近くの駄菓子屋で、お菓子を買うのも契約です。お金を払って物品をもらうのは、契約行為なわけです。お金を払っても、物をくれなかったら契約違反になるわけです。
 人間の世界だって契約はちゃんと履行するではないか、ましてや、神が人と結んだ契約を、忘れるはずがない!と語って下さったというのです。

 私たちは誰と契約を結んで生きているのか。他でもない、天地宇宙を造られた神さまと契約を結んでいるのです。そして、詩篇八十九篇三十四節のみことばが与えられたと語っていました。

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』

 神さまは人と契約を結んでおいて、途中で、「そうでしたっけ?」とか、絶対にしないのです。結ばれた契約は、必ず、履行してくださるのです。
 「あなたに将来と希望を与えますよ!」と主は語っておられます。ということは、必ず、聖書の中に記されている約束は履行されるのです。
 そして今年は、神さまと約束していただいた事柄が、多く履行され、実行される年となるから準備しなさい!と語られたというのです。
 時に私たちが一生懸命祈っても、なかなか答えがこなくて、失望する時がありますが、二〇一九年は、長く祈ってきた祈りが実現する年となるのです。神さまとの契約が実現する年になるから、あなたがたは準備しなさい!と語られたというのです。
 いや〜嬉しいですね。このみことばを、しっかりと握りたいと願い、心がわくわくします。

 次に語って下さったのが、岡本信弘先生でした。岡本信弘先生のメッセージは、上條先生のメッセージを受け継ぐかのようなメッセージでした。小学生の時代から、上條実と岡本信弘はライバル同士ですから、なかなか手の内を明かさない両者ですが、神の前にはすべては明らかです。私はちょっと冗談を言いました。今、彼らは仲良くやっています。

 信弘先生が語ったのが、コリント人への手紙第一、二章九節のことばでした。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 今年は今まで見たことも、聞いたことも、思ったこともないようなことを、主は起こされる可能性があるのです。
 神は契約を守られると語られて、次のメッセージが、「見たことも、聞いたことも、思ったこともないようなことを起こしてあげます!」と語られて、私もわくわくしました。

 しかし、そのために必要なのは「信仰」だと語られました。神さまとの契約を実現していただくためには、私たちのレスポンスが必要なのです。それが何かというと、信仰です。
 信仰とは、まだ見たことのない実体を現実として、すでに答えは未来にできあがっていることを信じ、それに向かって前進することです。
 今まで私たちは一丸となって、日本のリバイバルのために、救いのために、真剣に祈って来ました。その契約を実行してあげますよ!見たことも、聞いたことも、思ったこともないことを主はなされる、そのために必要なのは「信仰」だ、と励ましのメッセージでした。

 しかしもう一つ、岡本先生が語ったのは、神の民が、この国のために祈らなければいけないということでした。
 今、日本の年号は平成といいますが、それが五月から変わるのです。天皇の交代があるからです。日本はおかしいと思います。明治、大正、昭和、平成と、なぜ、天皇の生き死にで時代を区分するのでしょうか。日本は一九四五年に太平洋戦争に負けて新しくなったわけですから、戦前と戦後で時代を区分したほうがいいと思います。しかし日本は、天皇の生き死にで変わるわけです。
 そして今、日本全体を見ると、昔に戻っています。今の安倍政権も、自民党がどうのこうのではなく、彼らがやっていることを見たら、昔の帝国主義に戻そうとする力がものすごく強く働いている気がします。
 去年、森友学園だとか加計学園の話がありましたが、どこへ行ったのでしょうか。完全にうやむやにして、ごくわずかな人の利益のために、国が動いているのは事実です。
 日本の歴史をよく見ると、明治時代からがらりと変わりました。それまで、江戸幕府が支配していたのが、戊辰戦争後、一瞬に明治政府に変わり、すぐに日清、日露、日中、太平洋戦争と突き進んだわけです。どうしてそんなパワーがあったのか?ということです。
 幕府が倒れて、長州、山口県の人たちによって強い国があっという間にできるなんて、普通ではありえないと思います。なんらかの秘密の力が働いたわけです。
 歴代の首相を見れば、伊藤博文を筆頭に、ほとんどが山口県出身者です。それも「田布施町」という小さな町の人たちです。今の安倍さんもそうです。日本という国はごく一部の人たちによって支配されているといっても過言ではないです。

 私たちクリスチャンが、この国のために真剣に祈らないと、クリスチャンが災いにあうような国になるから、しっかりと今年は国のために祈らなければいけない、というメッセージでした。これは重要なポイントだと思います。
 今年は私たちが、この国の救いのために、国を愛して、国が悪い方向に行くことがないように、昔のような戦争に巻き込まれないよう、しっかりと祈る必要があることを教えられました。

 私たちがこの国のためにしっかりと祈り、信仰を持って進んでいくならば、見たことも、聞いたことも、思ったこともないようなことを、主は計画しておられる!ということでした。

 そして最後に、五番目に語ってくれたのが、滝元開先生でした。彼が引用したのが、イザヤ書六十二章六節でありました。

『エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。』

 私たちが途中であきらめたり、放棄したりしないで、やり続けなければいけないことを信弘先生のメッセージをさらに受け継ぐかのように語ってくれました。
 「祈りなさい!」と主が言われたら、祈り続けなければいけないと語られました。

 毎週月曜日に、愛知県民の森で「県民の森祈祷会」をやっています。県民の森祈祷会は三十年以上、同じ場所で祈っています。毎週月曜日の夜八時に教会を出発し、山の中で祈って帰ってきます。先週も、私たちは行きました。雨の日も風の日も、雨が降ると教会でやったりしますが、ずっと祈り続けています。
 県民の森祈祷会について話すと、「えっ!まだやってるんですか?」と言われるというのです。「そんなの、やめたほうがいいんじゃない?」みたいなことを言われる事もあるというのです。
 私は新城教会が県民の森祈祷会をやめる日、それは新城教会最後の日だと思います。ですから、今年も祈り続けなければいけません。少数でもいいけれど、教会を代表して、真剣に戦って祈る祈りがなければ、教会は維持出来ません。
 祈りがなくなった時、教会は倒れます。牧羊犬も死にます。そして教会には敵が入りこんで、皆、散り散りばらばらにされてしまいます。
 主は、「祈り続けなさい!賛美し続けなさい!語り続けなさい!」と語ってくださったというのです。今年、私たちはさらに、力強く主を求め、語り続け、祈り続け、賛美し続けなければならないのです。

 今日、午後の四時からここで二十四時間PPH「リバイバル聖会」があります。是非ともお越しいただき、共に祈っていただきたいです。教会の祈りが止まった時に、人は倒れます。もちろん霊的な意味ですが。そして教会も倒れます。
 多少大変でも、祈り続ける、賛美し続ける、そして、みことばを語り続けるときに、大きな勝利が訪れるのです。

 さて最後に今年、主から語られていると私が信じているみことばですが、二〇一三年にもこのことばをいただいたのですが、再度、同じ箇所を導かれている気がします。それは、ルカの福音書十章十七節〜二十一節です。
 イエスさまには十二弟子という核となる弟子たちがいたのですが、さらに輪を広げて、七十人の弟子と呼ばれる集団がいました。ある意味、野球でいったならば二軍選手みたいです。十二弟子の名前は聖書に載っていますが、七十人の弟子達は誰であったのか分かりません。
 しかしイエスさまは、この七十人の弟子たちを二人ずつ組にして宣教に遣わされました。それは、「オオカミの中に小羊を送るようなものだ。」と七十人の弟子達に言われました。
ある意味、私たちが社会で生きるのは、オオカミの群れの中に小羊が一匹入っていくようなものです。クリスチャンは、常に、霊的戦いのただ中に身を置いていることを理解しなければなりません。
イエスさまが語られたように、オオカミの群れの中に小羊が一匹入っていくなら何が起こるでしょうか。羊の群れの中にオオカミが入ってくるのであれば、なんとかなりそうですが、オオカミの群れの中に入っていくのは、相当危険な行為です。しかし、それが宣教です。

滝元開先生は去年、ペルー(peru)宣教でperroに噛まれました。perroというのは犬ですが、犬が狂犬病を持っていると、人は百パーセント死ぬそうです。それで犬が十日以内に死んだら開も死ぬということになりました。恐ろしい方程式ですね。
だから彼が十日間生き延びるというよりも、犬が十日生きてくれるか否かでした。しかし十日後、ペルーからメールが来ました。「perro esta bien.」と、「犬は生きていますよ!」と。しかしつい最近、再度、「perro esta bien.」と、犬がまだ生きているという、嬉しい知らせが届きました。来年は、その犬に会いにいかなければいけないです。
その犬も、主に使われたのか、悪魔に使われたのか分からないけれど、真剣に祈らされたことは確かです。
狂犬病を持っている犬の群れの中に入って行ったら、大変なことになります。ある意味、宣教は霊的にはそういうものです。毎日、会社に行ったり、学校に行ったり、この社会で働くのは、そのような環境に入らなければいけないのです。
ゆえにクリスチャン生活、イコール霊的戦いである事をよく理解しないと、問題が起きます。案外、そのことを理解していないクリスチャンが多いです。
しかし、七十人の弟子たちが遣わされた村々に入った時、何が起こったのかが、十七節から記されています。
ルカの福音書十章十七節〜二十節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

おびえながら出て行った七十人の弟子たちは、帰って来た時は、大勝利の喜びと共に帰って来たのです。「イエスさま!あなたの名前を使うと、悪霊どもでさえ私たちに服従したのですよ!」と、喜んで帰って来たのです。
その時、イエスさまは何と言われたのかというと、「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちた!ゆえにあなたがたは、戦いに勝利したのですよ!」と語られました。
勝利に喜ぶ七十人の弟子たちに、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』と語られました。

先にこの言葉を語っていてくれたら、もう少し気楽にいったかもしれません。しかしこれは、私たちにも同じです。
「蛇やさそり」とは、「悪魔・悪霊ども」のことをいいます。私たちには、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威が授けられているのです。だから、私たちに害を加えるものは、何一つないのです。
今年、このみことばをしっかりと握って、会社に、家庭に、学校に、地域社会に入って行きたいです。

同時に、イエスさまは、興奮する弟子達をたしなめるかのように、『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』と言われました。
時々、霊的戦いを強調したりすると、「あなたがたは霊的戦いを強調するけれど、イエスさまが言われたじゃないですか。悪霊どもが服従することを喜んでいてはいけない。天に名前が記されていること、すなわち、我々が救われていて天国に行けることのほうが、もっと重要だから、そちらに関心を持たないといけない」と言われたりします。しかしそれは正しい理解ではありません。

当時のイスラエルで、名前がどのように理解されていたのかを知らないと、このような間違った理解になってしまいます。
現代人にとって名前は、ただの記号です。「順」という私の名前も、一つの記号です。この記号があるために一人の人物を呼び出す事が出来ます。
しかしヘブル的な名前の理解は、誰かを呼び出すための記号ではありませんでした。彼らは、「名は体を現す」と理解していたのです。「名前=その人自身である」という考えでした。

「天に名がしるされている」とはどういう意味か、それはイエスさまが持っておられる天の権威を、弟子達がそのまま受け継いでいるという意味になります。また、イエスさまの名前の中に、あなたがたは完全に含まれているという意味です。私、滝元順ならば、「イエスさま」という名前の中に含まれており、私が出て行けば、イエスさまが出て行くのと同じです。イエスさまの宣教と同じく、敵の力が打ち破られていくことを意味するのです。
「あなたの名が天に書き記されています」とは、「あなたの名前=イエス・キリスト」という、「イエス」というタイトルの中に、あなたが含まれている事を意味します。私たちでも、イエスさまと同じ偉大なわざがともなうのです。

 七十人の弟子は、十二弟子たちのように、名前は記されていません。十二弟子は有名人ですが、七十人の弟子はあくまでも二軍です。
 しかし彼らは「イエス」という名前の中に含まれていたのです。彼らは有名ではなかったが、イエスさまの名前を持って、町々・村々に入って行った為に、イエスさまが行くのと同じことが起こったのです。
 「あなたの名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる!」イエスさまのみ名の中に私たちは常に生活しているのです。

 それと共に、今回私は、次のみことばに強く、印象づけられました。それは、彼らが出て行って福音を伝えている時、イエスさまも一緒に行って、彼らの働きを見守っておられたようです。イエスさまが見ていたら、「サタンが天からと落ちた」というのです。ゆえに、七十人の宣教は勝利につながったと述べられています。
 イエスさまが見ていたら、「天からサタンが落ちた」、その結果として、大勝利につながったのです。

 実は聖書全体から見ると、「天からサタンが落ちた」という表現は、神が天地を創造された過程のどこかで、天使たちが謀反を起こし、地に落とされています。サタンはすでに落ちているのです。どの時点なのかは、はっきり特定できませんが、すでにアダムとエバが造られた時には、エデンの園にサタンはいました。それはサタンが地に落とされた後です。
 しかしイエスさまは、「俺、おまえたちが宣教している時、サタンが天から落ちるのを見たんだけど。」と語っているわけです。
 聖書全体から見れば、「サタンが天から落ちる」という表現は、もう一箇所、黙示録十二章七節〜十節にあります。

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。』

 「サタンが天から落ちた」という表現は、創造の過程と、もう一つ、世の終わりです。聖書は、始まりと、終わりにサタンが落ちた事を示しています。
 しかしイエスさまは、「宣教のただ中でサタンが落ちた」のを目撃したと言われたのです。これはどういう意味でしょうか。私たちは、サタンって、すでに落ちているじゃん!世の終わりにもう一度落ちるだろうな・・・、くらいのあいまいな理解です。
 しかしイエスさまの言われた、宣教のただ中で、サタンが天から落ちるとは、何を意味しているのでしょうか。私にも、ちょっと疑問がありました。

 私は毎月、「舟の右側」という雑誌に原稿を書いているのですが、一月号を読みましたら、興味深い記事がありました。それは山口という先生が書いた記事ですが、日本の神学者で、大貫隆さんという方がおられるそうですが、この方の著作、「イエスの時」という本を紹介していました。
 その中で、聖書がどのような時間設定で物事を見ているのかを理解すると疑問が解けるというものでした。大貫さんという神学者は、その視点を研究しているようです。そこで、次のように述べられていました。

 『イエスの今においては、過去と未来が一つになっている。私はこの今を「全時的今」と呼ぶことを提案した。』

 イエスさまの働きを見ると、「今」と表現されても、イエスさまの今理解は、常に、「過去と未来が一つになっている」というのです。イエスさまの中において今は、過去も現在も未来もなく一つだったのです。彼はそれを、「全時的今」と表現していました。この視点を持って聖書に接すると、よく理解できるというのです。聖書には、「これって、どの時点の話しかな?」という場面が結構多くあります。
 「今」と言われても、過去、現在、未来も含むような気がする場面がいくつもあります。なぜなら聖書は、全時的今の時間概念で記されているからです。
 特にイエスさまの持っていた時間概念は、私たちのように、ただ現在形、現在進行形の一断面ではなく、常に、過去も未来も一つの時空的概念を持っておられたからです。

 日曜日にも少し触れましたが、物理学において、時間ほど難しいというか、不思議なものはないというのです。私たちは、一日、二十四時間サイクルで生きていますが、一日二十四時間とはっきり決まったのは、十四世紀のことだそうです。
 一日を二十四等分するようになったのは、エジプト人たちが昼間を十二時間に割って、その概念から後に、ヘレニズム時代に二十四等分され、さらにはっきりと同じ長さで二十四等分されたのは、機械時計が出現した十四世紀のことだというのです。

 私たちは、時間というと、時計で計られる刻みを、時間そのものとして理解しますが、時間とは、そういうものではないのです。
 一秒がどう決まったのかというと、「セシウム原子の出す電磁波の一回分の時間の約九十二億倍」を「一秒」としたわけです。これは人間の設定です。だから時の刻みは、時間の本質とは違うのです。という事は、時間ほど不思議なものはないのです。

 二十世紀になって、アインシュタインが相対性理論を発見したことによって、時間と空間は不変でない、「被造物」であることが分かってきたのです。

 そもそも高い所に上ると、時間が早く進みます。これは重力との関係で、一般相対性理論によれば、地上から離れるほど、地球の重力が弱まるので、例えば、スカイツリーのてっぺんでは「四十五万年で一秒」ほど、時間が早く進むそうです。歳を取ったらあんまり高い所に行かないほうがいいですね。早く時間が過ぎますから。
 時間って、一定なものではなく、相対的なものなのです。アインシュタインがその法則を見つけたわけです。
 我々は同じ時を刻んでいると思うけれど、一人ひとりの時間にはずれがあるというのです。止まっている時は同じでも、空間を移動していると、それぞれの時間にずれが生じるのです。近づけば、スローになるし、遠ざかっていけば、早くなるのです。これが時空の謎です。
 時間と空間は、別々のものではなく、実は、絡み合っているのです。私たちは、空間は空間、時間は別物と考えますが、絡み合っていて、この時空は神が創造された作品なのです。

 私たちは、過去、現在、未来という枠組みで、人生を捉えたり、歴史を捉えたりするのですが、動いていたり、距離があったり、重力が関わると、時間軸が傾くのです。
 誰にでも、ちょっとした時間差がありますから、もしも、何百万光年という距離があったりすると、小さい角度でも、大きく時間に差が出来るそうです。何百万光年のかなたに住んでいる人が地球の現在を見れば、お互いに座っていて動かなければ同じ時を刻みますが、地球から離れながら地球の今を見ると、過去の光景を見る事になるのです。逆に、地球に近づきながら、地球を見れば、地球の未来を、今として見てしまう事になるのです。
 となると、過去も、現在も、未来も、すべて同時存在していないと、説明できない事になります。
 私たちは、今だけを生きているような気がしていますが、時空の中には、未来も過去も、同時存在しているとしたらどうでしょう。すごい世界です。

 神が造られた被造物の中で、最も、神秘的なものは過去、現在、未来を包み込む容器、「時空」ではないかと最近、思います。
 私たちは過去を取り戻すことはできません。未来もどうすることはできない。そんな有限の時間世界に住んでいると思うかもしれないけれど、実は、イエスさまが、「過去、現在、未来」を包括的に扱っておられたように、聖書の世界は、過去も未来も含んだものなのです。
 過去も現在も未来も包み込む偉大な神と共に働くことができるのは、すごいことです。

 そして、「罪の悔い改め」という概念も、ただ、記憶の領域のみという感覚がありますが、現代科学によって見いだされた法則から言えば、過去に犯した罪も、今もなお、過去という時空の中で動いている事になります。また未来に起こるであろう事件も、現代に影響を与えている可能性だってあります。
 イエスさまの十字架の勝利は、時空という入れ物の中にある、過去、現在、未来に関する、すべての罪と汚れ、悪しき行為があったとしても、すべてを削除し、消し去る力だということになります。
 イエスさまの十字架の勝利は、全宇宙的であると言われますが、我々は、イエスさまの名前と勝利を共有し歩むなら、過去に起こっていることも、未来に起こっていることも、すべて主のみ手の中で勝ち取ることが可能なはずです。
 イエスさまのように、「わたしが見ているとサタンが天から落ちました。」と、過去も現在も未来も包括して、日々、暗闇の力を打ち破り、勝利の歩みをすることができるはずです。その時、イエスさまは「喜びにあふれた」とあります。

 サタンが天から落ちる時、天においてアブラハムの婚宴が始まるというのです。サタンが天から落ちるとき、天では喜びの婚宴が始まるのです。
 日々、主の勝利の中で小羊の饗宴の中を歩んでいきたいものです。

 今年、私はこの所から導かれ、さらにこの領域を広げさせていただきたいと願っています。ぜひとも祈っていただきたいと思います。

 私の独断で、五人の先生方に私のメッセージを加えて、預言的なメッセージをまとめさせていただきました。

<二〇一九年 預言的メッセージ>

 新しい年に入る前に準備しなさい。準備のないままで入ってはいけません。ザアカイがわたしを見たい一心で木に登ったように、まずはわたしに近づきなさい。わたしはあなたの名前を知っています。ザアカイのように、わたしをあなたの自宅に招き入れ、悔い改め、聖くなり、聖霊の力に満たされなさい。
 福音宣教はどうしてもしなければならない、教会の使命です。今年もゆだねられている使命を果たしなさい。
 人が互いに交わす契約でさえ、一度結ばれたら変わらないのならば、わたしがあなた方と結んだ契約が果たされないはずはありません。二〇一九年、わたしがあなた方と結んだ契約が実行される年となります。想像だにしない事柄が起こり始めます。
 しかしそれを得るために必要なものは信仰です。来たるべき時代に備えて、霊的戦いの剣を磨きなさい。そして国のために祈りなさい。もしも主の民が祈らないなら、日本はあなたにとって災いの国となります。
 わたしのために働き続けなさい。黙り込んではいけません。歌い続け、祈り続け、語り続けなさい。
 二〇一九年、今までよりもっと激しい聖霊の風が吹きます。なぜなら、わたしはサタンが天から落ちるのを見たからです。わたしが創造したすべてを、サタンの手から奪い返し、彼らにわたしを賛美するように命じなさい。その時、神の国が地上に到来します。

 このようにまとめさせていただきました。
 私は神が今年、何か特別なことを準備されているかのような感覚を持っています。そのために身を引き締め、主の前に出て行けたら本当に嬉しいです。キリストのからだがひとつとなって、目的達成日はイエスさまが帰ってこられる再臨の日です。イエスさまの再臨を目指して、共に歩んでいきたいと願います。この国を勝ち取るために、祈り続けたいと願っています。
 最後に、祈りを持ってメッセージを閉じさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝いたします。あなたが今日、この場に新しい空間を用意してくださっていることを感謝します。あなたは過去も現在も未来も、一つとして握っておられる方です。今年、二〇一九年にあなたが持っておられる計画を実現してください。そのために、私たちは準備をします。一人ひとりに聖霊の油を注いで、この働きに当たらしてください。尊いイエスさまのみ名を通して祈ります。アーメン。